王宮の北西の端にある宮は、一見すると何も変わっていない。だが、やはりよく目を凝らしてみるとあちこちにうっすらと埃が積もっていて、主(あるじ)がいなくなってからの空白の時間を如実に表していた。
フィオレンティーナはゆっくりとした足取りで室内を歩き回った。いくつもの思い出がよみがえって、胸がきゅっと詰まる。あの結婚式の日の朝、十八歳の無垢な乙女は緊張と不安と期待に高鳴る胸の鼓動を感じながら純白の婚礼衣装に袖を通して、この部屋を出て行った。サミュエル王太子の妃となるべくして。それなのに、ほんの数時間後にはジグムント簒奪王の妻として戻って来て、稀代の悪妃と評されるようになるなんて、運命とはなんと数奇なものだろう。部屋の隅に置かれた長椅子には、あの日、身体の底からこみ上げてくる震えをどうにか抑え込もうと、マージョリーと手を取り合って並んで座っていた跡がかすかにへこんだまま残っていた。
(色々なことがあったわ、あれから……)
「お呼びですか、王妃様」
パタパタという足音とともに背後から声をかけられて、フィオレンティーナは現実に引き戻された。振り返るとトマスが立っていた。息が少し上がっている。王妃の間の隣にある執務室から速足でここまで来たのだろう。
「予定よりかなり早く視察からお戻りになられましたが、どうかなさいましたか?」
「勝手な行動をしてごめんなさい、トマス。実はね」
そしてフィオレンティーナからここを臨時の病院として使いたいと言う提案を打ち明けられたトマスは、思わず頭を抱えた。
「ここを病院に、でございますか? いやそれは少々難しいかと……」
「なぜですか? ここはもうずっと無人になっていますし、この先も特に使い道はないでしょう?」
「確かにそうですが、ここは王宮です。そこに貧しい者達、しかも流行り病にかかった病人を収容などして、宮廷に病が広まりでもしたら……」
「それは心配いらないんじゃないかしら。ここは王宮の一番端で、宮廷行事が行われる中心からはかなりの距離の回廊で隔てられているから、もとより人の行き来はほとんどないわ。それに修道院から歩いてすぐの場所にあって、患者の移動が簡単にできるのは大きな利点よ」
「しかし前例が」
「前例?」
なおも歯切れの悪いトマスに、フィオレンティーナのはっきりとした声が被さった。今までついぞ聞いたことのないその声の力強さに、トマスは思わず顔を上げた。
「前例がないのなら、作ればよいのです。トマス、冷静に考えてみて? 戦で傷を負った兵士と、流行病で熱が出て咳が止まらない病人が、同じ部屋の中で寝起きしているのよ。このままにしておくことはできません。重症者を隔離せずにいたら、あっという間に王都にも病が広まってしまうわ」
「……」
しばらく考えてから、トマスは困ったような顔で答えた。
「王妃様のお志は素晴らしいと思います。ですが、残念なことに……」
「?」
「金がないのです。ここを病院にして運営していくだけの金が」
「お金がないって、どういうことですか? 今年の小麦の出荷はもう終わったはずでしょう?」
思ってもみなかったトマスの言葉を、フィオレンティーナは俄かには信じられなかった。レバンテスは大陸の中でも群を抜いて豊かな国のはずだ。肥沃な国土から収穫できる小麦や葡萄といった農産物はもちろん、毛織物などの産業も発展していて他国との交易も盛んだ。それなのに、たったの病院一つ、作れないなどと。
だがフィオレンティーナの意外そうな返答にトマスは顔を横に向け、苦々しい口調で答えた。
「確かに本来ならばそうでございましょうが、実を申しますとここ数年の国境地帯での紛争と、各地で続いた不作が財政を圧迫して……それと……先王と廃太子サミュエルを始めとした貴族の一派が不正に公金を着服していたことが原因で、国庫は空に近い状態なのです」
「そんな……で、でも、あそこにいる負傷兵たちは皆、故郷を遠く離れてジグムント様と長年行動を共にされた戦友なのですよ? そんな大切な方たちをあのように扱うなど……」
「分かっております!」
トマスはフィオレンティーナに向かって思わず声を荒げたが、すぐにはっと気が付いて目線を落とし、謝罪の言葉を述べた。
「申し訳ございません、礼儀を欠いた振る舞いをお許し下さい。もちろん、私も国王陛下も歯痒く思ってはおります。ただ我が国は今、問題が山積みで……特に諸外国との関係について早急に立て直しを図らねばならぬことが多すぎますゆえ、国内のことは後回しにせざるを得ないのです。どうか、ご理解下さい」
しばらくの間、沈黙が流れた。だがフィオレンティーナは諦めなかった。ゆっくりとトマスに近づいてその肩にそっと触れ、顔を上げさせると何かを思い出したような真剣な表情でこう告げた。
「お金のことは、わたくしに考えがあります。だからトマス、力を貸して頂戴。王家や貴族の不手際のせいで民に犠牲を強いてはなりません。一度に全てを変えるのは無理だとしても、今できることがあるのならやらなければ。わたくしはレバンテスの王妃です、この状況を黙って見過ごすことはできません」
その声は静かだが情熱を帯びていた。トマスはフィオレンティーナの菫色の瞳をしばらく見つめると、負けましたとでもいうように笑って答えた。
「かしこまりました、王妃様。お手伝いいたします。何から始めましょうか」
「ありがとう、よろしく頼みます。……あら、マージョリーが戻って来たようね」
「王妃様、ただいま戻りました」
フィオレンティーナとトマスが握手を交わしたちょうどその時に、マージョリーが王宮に戻って来て会話に加わった。
「シスター・テレジアとのお話はどうだった? 重症患者は何人ぐらいになりそうかしら?」
「はい、修道院長様のお話だとまずは十人ほどだそうです。それと医学の知識のある修道女様をお一人、こちらに派遣して下さるので、その方の寝泊まりする場所も確保してほしいとのことでした」
「分かりました。ではまずここにある家具を隣に移動させて、この広間を病室にしましょう」
マージョリーの答えを聞くや否や、フィオレンティーナはドレスの袖をたくし上げると、手ずから近くにあったスツールを持ち上げようとした。トマスが慌てて止めた。
「王妃様がそのようなことをなさってはいけません。衛兵を二人こちらに寄越しますので、その者に申しつけ下さいませ。それから……」
「それから?」
「国王陛下にはお伝えしますか、このことを?」
国王陛下に、というトマスの言葉を聞いて、フィオレンティーナの手が止まった。少しの間考えを巡らせてから、フィオレンティーナはさらりとトマスに答えた。
「そうね……国王陛下にお伝えするのは少し待ってもらえる、トマス? 陛下はお忙しいでしょうから、お手を煩わせるのは気が引けるわ。時期を見てわたくしからご報告します」
トマスはその答えに驚いた。てっきりフィオレンティーナはジグムントを怖がっていてまともに話などできまい、だから自分に仲介役を頼んでくるだろうと思っていたのだ。それに、そもそもあのジグムントに隠れてことがうまく運ぶものかとの心配もあった。だがトマスは、初めて自分の意思を明確に口にしたフィオレンティーナの立場を今は尊重しようと決めた。
「承知いたしました。ではそのように。ところで病人をここに寝かせるのであればマットや敷布が必要でございましょう。少しばかりではありますが、王宮の倉庫にある備蓄をいくつか流用できるよう、取り計らっておきます……
「まあ、素晴らしいわ。ありがとう、トマス。よろしく頼みます」
内密に、と片目をつぶってからいたずらっぽく笑い、お辞儀をして去って行ったトマスの姿には、それまでフィオレンティーナが感じたことのない親愛の情がこもっていた。
やがて荒れ果てた宮の広間は急ごしらえの病室に変わり、その日の夕方には十人の重症患者が運ばれて来た。瞬く間にそこには苦しそうな咳と、熱のある者の荒い呼吸の音が満ちて、それは図らずもまさにこの国の現実を体現しているかのようであった。