扉の向こうの広い部屋の床には、隙間なくずらりと薄い粗末な藁のマットが敷かれ、顔色の悪い人々が力なく横たわっていた。腕や足に包帯を巻いている若い男もいれば、熱があるのか、荒い呼吸で力なく横たわっている老婆もいる。その合間を縫って数人の修道女が甲斐甲斐しく世話を焼いているが、とうてい患者の数のほうが多くて手が回り切っていないのは明らかだった。
「ひどい……」
フィオレンティーナは溜息を洩らすと、シスター・テレジアのほうを向いた。
「ここまで患者が多いとは思っておりませんでした。看護人の数も、とても足りてはおられませんね?」
「はい、最近はこの通り、足の踏み場もない状態でございまして」
その時突然、フィオレンティーナの足元に寝ていた男が海老のように背中を曲げたかと思うと、激しくゴホゴホと咳込み始めた。フィオレンティーナは反射的に
「ありがとうございます、王妃様……私のような者にもったいない……」
フィオレンティーナはその男の目を見てうなずき、痩せた手を両手で包み込むように握ってから立ち上がった。
「シスター・テレジア、国王陛下はこの状況はご存じですか? ここには陛下と一緒に国境で戦った兵もおられるのでしょう?」
「国王陛下には折に触れてご報告申し上げておりまして、陛下もお心を砕いて下さってはいるのですが、なにぶんここ数日の患者の増え方に追いつけていないのです」
「薬や清潔な布などは足りていますか? 他に足りないものは?」
「お蔭様で、今のところそういったものはある程度手持ちはございますが、最近なぜか以前より支給が滞り始めまして気になっております。でも一番困っておりますのは患者を寝かせる場所の不足です。できれば特に咳がひどく熱がある者はまとめて隔離したいのですが、この有様ではもう明日以降は新しい患者の受け入れはできないでしょう」
「場所……」
サミュエルの処刑の日にジグムントから聞いた『この国は疲弊し切っている』という言葉の意味を、フィオレンティーナは初めて理解した。わたくしは何も分かっていなかった、王宮の奥深くで、自分の身に起きたことばかり嘆いて、貴族の目ばかり気にしていたのだわ。王妃として本当に見なければいけないものは、名もなき市井の人々の中にあったのに。
その時頭に一つの考えが浮かんだ。フィオレンティーナは少し離れたところに控えていたマージョリーに声をかけた。
「マージョリー、わたくしが暮らしていた宮は今、どうなっていますか?」
「は? あの宮でございますか? あそこでしたら今は無人のままになっておりますが、それが何か?」
マージョリーの答えにうなずくと、フィオレンティーナはシスター・テレジアのほうを向き、そこにいた誰もが思いもしなかったことを言い出した。
「シスター・テレジア。場所ならあります。わたくしが以前暮らしていた宮を臨時の病院にして、重症の方はそちらに移ってもらいましょう」
「ええっ!? お、王妃様、何を仰います? いけません、王宮をそのようなことにお使いになっては……」
シスター・テレジアは突然すぎる提案に驚いて、慌ててその提案を否定した。だがフィオレンティーナは笑って続けた。
「心配ご無用ですわ、シスター・テレジア。わたくしの暮らしていた宮は王宮の一番端にあって、ほとんど誰も近寄りません。それに場所的にもここからとても近いですから、患者を移動させるのもそれほど難しくないでしょう。……そうね、できればお怪我が軽い兵士の方に手伝って頂けると良いのですけど」
「しかし、やはりそんな……それに国王陛下のお許しもなく王妃様お一人のお考えでそのような重要なことをお決めになっては……」
「陛下にはわたくしからお話ししてお許しを頂きます」
なおも難色を示すシスター・テレジアの言葉を途中で遮って、フィオレンティーナはきっぱりと言い切った。そしてすぐに諭すように静かにゆっくりと続けた。
「シスター・テレジア。大丈夫です、ここには陛下と共に何年も遠い国境で戦って下さった方も大勢いらっしゃるのですもの、きっと分かって下さいますわ。それにあなたもさっき仰ったでしょう、咳や熱のある患者は隔離すべきだと。であればわたくしの宮はぴったりの場所です。さ、急ぎましょう、これ以上疫病を広げないために」
シスター・テレジアの顔に、喜びと安堵の色が広がった。彼女はフィオレンティーナに向かって十字を切ると礼を言った。
「ありがとうございます、王妃様。なんとお礼を申し上げれば良いか……。ではしばし、お言葉に甘えさせて頂きます」
「礼には及びませんわ。皆それぞれ、できることをすれば良いのです。わたくしは一足先に王宮に戻って手筈を整えます。侍女のマージョリーをここに残しておきますから、細かいことは彼女とお決めになって下さい。いいわね、頼んだわよ、マージョリー?」
「はい、王妃様。シスター・テレジア様、今、重症の患者が何人ぐらいいるか、教えて頂けますか? 受け入れ可能な人数を調整いたしましょう」
マージョリーは反対するかしら、とフィオレンティーナはひそかに心配していたが、目が合うと彼女はにっこりと笑ってくれた。ふと、足元に横たわっていた先ほどの男がドレスの裾に触れていることに気づいて、フィオレンティーナはもう一度跪いてその男の手を取った。すると男は涙ぐんで言った。
「ありがとうございます、王妃様。やはりあなたはわしらの王様が選ばれた王妃様だ。長年一緒に戦ってきた甲斐がありました。きっとこの国はこれから良くなっていくでしょう」
フィオレンティーナはどきりとした。無力で無価値だと思っていた自分を認めてくれる人がいる、わたくしにもできることが見つかった……それはまだほんの小さな喜びではあったが、彼女は名もなき貧しい兵士の手を握り返して、優しく笑いかけた。
「祖国を守るために戦って下さったのですね。改めてお礼を申し上げます。もう何も心配はいりませんわ。ゆっくりお身体を治して、故郷で待っている方のところへ戻られますように」
そして立ち上がって、足早にその部屋を出ていった。馬車に揺られながら、フィオレンティーナはトマスに出すべき指示をあれこれと考えていた。その顔は王宮を出て来た時の彼女とは別人のように引き締まり、瞳には力がみなぎっていた。