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第1話 春の夢

 薄暗い森の中に差す、月明かり。

 足元をぼんやりと仄かに照らし、前へ進む者の道標となる。

 が、月明かりを頼りにできるのは満月の日だけ。

 一度ひとたび月が隠れると、真っ暗な闇だけが広がっている。東西南北は無論分かるまい。


「いい、月凪つきな、日暮れ以降は森に近づかないこと。分かったわね?」


 幼い頃、おばあちゃんちのある田舎に遊びに行くと、決まって母はこう言った。田舎には自分と同じくらいの歳の子供がいて、夏休みや冬休みにはみんなで集まって遊ぶのが定例行事になっていた。田舎だから、知り合いもそうでない人も関係ない。集まって来た子たちは男も女も全員“友達”だ。今の子供たちの感覚では考えられないことかもしれない。私が子供だった時代は少なくともそうだった。


 そう。今からちょうど十七年前、私が八歳だった頃の話だ。


「なあー、今日はみんなで“御影みかげの森”に行かない?」


 小学二年生の夏休み、その年も九州の片田舎にある祖母の家に遊びに来ていた。例によって小学生数人と、近所で寄り集まる。一年ぶりに顔を合わせてそう提案してきた、あの子の名前は確かケンスケだった気がする。


「御影の森に? 今から?」


 ミドリちゃんという女の子が不安げな声で問い返した。時刻は午後四時ぐらいだったと思う。傾きかけた陽を感じて、大丈夫かと心配になったのは私だけじゃないようだ。


——日が暮れてから御影の森には近づくな。さもないと、夢幻の世界に連れて行かれるぞ。


 この辺の人は皆、親や親戚からそう伝えられて過ごしてきた。

 “御影の森”とは、この地域の南側に鬱蒼と広がる森のことだ。正式名称は知らない。森の中を漂う、どこか神仏めいた空気感からこの名前が通称になったのだと、母が言っていた。


「ああ、今から。もちろん親には内緒で。一人で一周して戻ってくる。一番早く戻って来た人の勝ち。いっつも鬼ごっことか隠れんぼばっかで飽きるだろ。どう?」


 小学二年生にしてはませた口調で話すケンスケは、怖いもの知らずのガキ大将のようだ。ミドリちゃんの肩がぶるりと震える。ついでに私も、背筋をツーっと冷たい汗が伝っていた。


「いいじゃん、楽しそう」


 ケンスケに賛成したのはカナエちゃんだ。負けん気が強く、勝負事は絶対に最後まで勝つまでとことんこだわる彼女のことだから、ケンスケの提案も純粋に面白そうだと思ったんだろう。


「やめといた方がいいんじゃない? さすがに、“御影の森”には日暮以降に近づくなって言われてるし」


「大丈夫だって。今は夏だし、まだ日暮れでもねえよ。それともショウヘイ、お前もしかして怖いのか?」


「いや、怖いとかじゃないけど……」


 図星だったのか、肩をすくめて困った顔をするショウヘイ。

 真面目に反対するショウヘイはたぶん、学校でも優等生くんなんだろう。ショウヘイの言葉に、私は必死に頷いていた。けれど、ケンスケやカナエの声は大きく、結局みんなで“御影の森”を探検することになった。それも、ケンスケのルールの通り、一人で。


「じゃんけーん、ぽん!」


 森へ入る順番は潔くじゃんけんで決めることになった。結果は私が最下位——一番最初に森へ潜ることになってしまった。

 うそ、よりによって一番なんて。

 せめて誰かが帰って来てから、森の中の様子を聞いて入りたかった。


「はい、じゃあ月凪から。いってらっしゃーい」


 間の抜けたケンスケの声はどこか意地悪そうにも響いた。

 震える足を一歩踏み出して、“御影の森”へと侵入する。

 どうか何事もなく、帰ってこられますように……。

 心の中でそう祈りながら。




***


——な、月凪。


 誰かが私を呼んでいる。男の人だということは分かるけれど、声に聞き覚えはない。


——早く、おいで。


「また、あの夢」


 ぱちんと泡が弾けるように、夢が霧散した。

 “御影の森”なんて懐かしい名前を頭の中で反芻する。いち、に、さん。目が覚めてから大きく息を吸って吐く。もう一度。いち、に、さん。毎朝儀式のように同じことをしないと起き上がれない。


 身体がこんなふうになってから、どれくらいの期間が経っただろうか。

 今の会社に入社してちょうど三年目になるが、二年目の夏に恋人だった大和と別れた頃にはもう始まっていた気がする。最初は「ちょっと会社に行きたくないな」と思う程度だった。けれど、だんだんと仕事のことを考えると頭痛や吐き気に襲われるようになって、今じゃ仕事のことを考えなくても体調が優れない。病院に行かなくては、と思うのに、土日も仕事が入ることが多くて、なかなか時間が取れないでいる。結果、朝起きて、自然と涙が溢れるほど状態は悪化していた。


 鬱——診断なんてされなくても、容易にその言葉を思い浮かべることができる。たぶん私は鬱になっているのだろう。鬱病患者がよく、「まさか自分が鬱になるなんて思っていなかった」と言うが、本当だった。


 まさか私が鬱になるんて。

 新卒で社会人になった頃は、想像すらしていなかった。

 鬱になるくらいなら早いとこ会社を辞めてしまえばいいのだ。

——と、頭では分かっているはずなのに、実際に会社を辞めることができないのは、体裁や周りの視線を考えてしまうから。

 私が抜けたらきっと、周りから恨まれる。

 辞めるのも前に進むのも怖くて、その場で足踏みをして耐えているだけ。

 本当に追い込まれた人間は、逃げるという選択肢を忘れてしまうものなんだ、と身に沁みて痛感している。


「今日も先に進めなかったな」


 身体と精神状態を壊してから、定期的に同じ夢を見るようになった。

 子供の頃の私が“御影の森”の中に侵入していく夢だ。

 昔、実際に経験したことで、その時のことはなんとなく覚えている。が、“御影の森”に入った後の記憶がほとんどない。森の中をどうやって進んでいったのか、きちんとみんなのところへ戻ってこられたのか。まあ、親に怒られた記憶はないからちゃんと戻れたんだろうけれど、いかんせん覚えていない。あの森の中で何かを見たような気がするけれど、それも朧げな記憶なので、実際のところどうだったのかは判然としない。


 夢はいつも、森の中を進んで少ししたところで途切れる。

 白いもや・・のようなものに包まれて、目の前が見えなくなるのだ。

 だが、視界がホワイトアウトしたところで夢から覚めるのがいつものパターン。その先を見たいと思っても、目が覚めてしまうのだからどうしようもない。ただ、白いもやの向こうに、何か懐かしい存在・・・・・・・・がいる——それだけは感じることができた。


「夢の中の話なのに、期待して馬鹿みたい」


 もし“御影の森”の夢でその「懐かしい存在」に出会うことができたら、現状が好転するかもしれない——などと、浅ましい想像をしている。馬鹿な期待をするのはやめて、仕事に行かなくちゃ。重たい身体をなんとか起こして支度を始める。朝ごはんは喉を通らないから、何も食べずに出かける。今日も変わらない一日が始まるんだ——そう思うと、自然と足取りは鈍くなっていた。



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