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第2話 夢の先

「おはようございます」


 勤め先のイベント制作会社『グローリープロデュース』へは山手線を使って自宅から三十分ほどで到着する。朝、オフィスへと到着するとすでに同僚たちがデスクに腰掛けてパソコンの画面と睨めっこしていた。


「おはよう、城北しろきた。今日は午前中太陽広告たいようこうこくさんとの企画検討会、午後から石村食品いしむらしょくひんさんの当日指揮だからね。一日盛りだくさんよ。夜は遅くなる覚悟でよろしく」


「はい、分かりました」


 私の所属する企画管理部の先輩である花田はなだ先輩が、朝からテキパキと私に今日の予定を伝えてくれる。年齢は私より五つ上で、仕事の腕は直属の上司である渡瀬わたせ課長が絶賛するほどだ。長い茶髪をさらっと横に流し、かき上げヘアの前髪もバリキャリ風。切れ長の瞳が特徴で、つるつるの肌と艶のある唇は、どんなに仕事が忙しくても美しいままだ。

 誰もが憧れる花田先輩は、上からも下からも慕われている。もちろん私も憧れている先輩であった。


「城北ァ、お前、今日の本番でミスしたらどうなるか分かってるだろうなぁ?」


 花田先輩に伝えられたスケジュールを確認していたところ、ねっとりと粘着質な声が後ろから飛んできて、びくんと肩を揺らす。


「渡瀬課長……おはようございます」


 振り返った先、一番端っこのデスクに座っているのは五十代の渡瀬課長だ。

 課長と名のつく通り私の直属の上司で——私が精神を病む原因となっている人物だ。


「早く帰りたいとか、しょうもないこと考えるなよ? 普段からサボり魔なんだから、相手さんの本番の日ぐらいしっかり仕事しろよ?」


「……はい、もちろんです」


 花田先輩とは打って変わって、ドスの効いた腹黒い声で釘を刺してくる渡瀬課長。言われなくても分かっている。それに私は別に、普段から仕事をサボっているつもりはない。最近、体調不良で半休を取ることがあったので、その時のことで嫌味を垂れているのだろう。言い返したいけれどさすがに口答えはできない。


「渡瀬課長、さすがに今のは言い過ぎでは。城北は仕事をサボっている様子はないですよ。この間は体調が優れなくて半休を取ったと聞いています」


 抗議してくれたのは花田先輩だった。花田先輩は、私が渡瀬課長にいびられている現場に直面すると、いつも助け船を出してくれる。凛とした表情で的確な反論をしてくれるので、私にとっては彼女がヒーローだった。


「ほお。城北、大先輩の花田に抗議してもらおうなんて、せこい手を使うな。俺は花田と話してるんじゃない、城北と話してるんだぞ? でもまあ、ここは花田に免じてそういうこと・・・・・・にしておいてやってもいいぞ」


 渡瀬課長は花田先輩のことを気に入っている。なんでも、休憩時間にデートに誘われたこともあるそうだ。花田先輩がこっそり教えてくれた。見目麗しい花田先輩のことだから男性からモテるのは想定の範囲内だが、自分より二十歳以上も上の渡瀬課長から言い寄られて困っていると眉を下げていた。


「ありがとうございます。とにかく頑張ります」


 少しでも反論をすれば、またネチネチと嫌味を言われかねない。せっかく花田先輩が守ってくれたものを台無しにしたくない。そう思った私は、ひとまず渡瀬課長との会話を切り上げた。

 良かった。今朝はこれくらいで済んで……。

 目を瞑り、ふう、と大きく息を吐く。

 渡瀬課長からはこれまで散々“新人”というだけでいびられてきた。

 電話対応、顧客対応、企画書作成、イベント当日の進行。何かにつけて、私を執拗に怒鳴りつけた。


『いいか、これは“教育”だ。上司の教育を受け入れられない新人は今すぐ辞めるべきだ!』


 私のミスではない、誰かのミスさえも私のせいにして、“教育”というもっともらしい言葉を連発する。タチの悪いことに、渡瀬課長による“教育”は課のメンバーが見ている中で行われる。みんなの前で晒し者にされることで、他のメンバーへの牽制にもなっている。

 他部署の先輩に聞いた話だが、私が入社する前は私の一つ上の先輩が渡瀬課長のターゲットになっていたらしい。その先輩は、入社一年で会社を去った。

 みんな、私が課長からいびられていることを知っているが、見て見ぬふりをしている。理由は分かっている。課長が、会長の甥だからだ。課長に逆らえば、自分の立場を追われかねない。だからこそ、みんな黙っている。ただ新人が怒られなくなるまで成長するのをじっと待っているだけ。

 花田先輩だけはさっきみたいに私を守ってくれるけれど、それでももう、限界だった。

 私の心はとっくに均衡を崩してしまっていた。



 仕事が終わったのは午後十時過ぎだ。

 石村食品さんの、『全国試食会巡り』の東京会場でのイベントだった。渋谷の真ん中に集まったお客さんに向けて、最新の商品を知ってもらうための試食会イベントである。「全国」と名のつく通り、この後も全国津々浦々を巡りつつ、同じイベントを開催する。今日はその一発目だった。

『おい城北! とっとと動け! こっちの試食コーナー、列がごちゃごちゃになってるぞ! お前が動かなくてどうする。早く行けっ』

 イベント中、渡瀬課長の怒号が何度も響いた。耳にぐわんぐわんと反響する濁声。仕事が終わる頃には、聞こえがおかしくなっていると錯覚するほど、彼に怒鳴り散らされた。


 もうたくさんだ。

 こんなこと、あと何回続くのだろう。

 せめて私に恋人の一人でもいれば、仕事の疲れを彼に癒してもらうことだってできるだろうけれど、あいにく恋人はいない。都内一人暮らしの私は、ふらふらとした足取りで家に帰り着いた。


 夕飯を作る気力もなく、ベッドに傾れ込む。新卒の頃から履いているパンプスで靴擦れを起こしていた。傷の手当てもままならないまま、スーツのジャケットだけ脱ぎ捨てて目を閉じた。

 何もかも忘れて眠ってしまいたい。

 夢の世界ではせめて居心地の良い場所に行けたらいいのに。

 小さな願いを胸に、私の意識は深く沈んでいった。



——な、月凪。


 またあの声が、聞こえる。ぼんやりとした視界の中辺りを見渡すと、自分があの深い森の中に立っていることが分かった。

 夢、か。

 夢の中で自分が夢を見ていると分かる。時々そんな現象に見舞われるが、“御影の森”にいる夢を見ている時はいつもそうだった。

 普段なら、一歩進むだけで身体が重く感じて、結局森の中を彷徨い続けて終わるのだが、今日は違っていた。

 身体が軽い。

 足を踏み出してみると、すっと前に進むことができる。

 白いもやがかかって視界が遮られることもない。

 それに、空を見上げるとまんまるの月がぽっかりと浮かんでいて、私が歩こうとしている道を仄かに照らしていた。


——あなたは誰? どこにいるの?


 思い切って問いかけてみる。すーっという冷気が、私の問いに答えてくれているかのように肌を撫でた。


——こっちだよ。


 声は、明らかに私に話しかけてくれているようだった。東西南北の分からない森の中を、ひたすら声のする方向へと進んでいく。不思議と怖いという感覚はなかった。夢だと分かっているからかもしれない。むしろ、声の主の元へ行きたい。この人に会いたいという熱意に突き動かされていた。


——ほら、もうすぐだ。


 一際大きな声が響く。その刹那、暗闇だった森に一筋の光が差した。朝が来たのかと錯覚する。違う、朝じゃない。この光は……月の光だ。


——え?


 森を抜けて、一面に開けた場所に来たかと思うと、そこには一軒の洋館が佇んでいた。

 こんな森の中に家? 

 誰か住んでいるのだろうか。

 蔦の伸びる煉瓦造りの建物をじっと見つめる。使われているようには見えないけれど、かと言って古びているかと聞かれればそういうこともない。この洋館だけが、森の中で異空間に切り取られているかのように、美しく、ただそこに鎮座していた。


——洋館の奥に庭がある。俺はそこにいる。


 ぴたり、と後ろにくっついて耳元で囁かれているかというぐらい、その声を身近に感じた。思わず振り返って後ろを見るも、誰の姿も見えない。先ほどまで木々に囲まれてよく見えなかった月が、開けたこの場では存分に顔を出している。満月だ。黄金色に輝くまんまるの月が、ぽっかりと浮かんでいた。


——洋館の奥の庭……。


 声に導かれるようにして、洋館へと一歩ずつ近づいた。

 重厚な扉には鍵がかかっておらず、押してみるとギイと音を立てて開いた。冷たい空気が漂っているかと思いきや、不思議と誰かの温もりを感じる。まるで、少し前までここで誰かが生活をしていたかのようだった。


 洋館の中を進むと、突き当たりにまた扉が現れた。洋館の奥と言えばおそらくこの扉の向こうのことだろう。思い切って扉を開く。ぱっと視界に映り込んだのは、色とりどりの花を咲かせる、美しい庭だった。

 そして、庭の真ん中に佇む人影に息をのむ。


——あなたは……。


 すらりと伸びる袴姿の長身のシルエット。銀色に靡くさらさらの長い髪を一つに括っている。長めの前髪から覗く、紺青こんじょう色の瞳。一瞬、外国人かと思ったが、さっきから日本語で話しかけてくるところを見るとそうではないらしい。この人が、声の主だということは一瞬にして理解できた。


——ようやく会えたな、月凪。


 ドクン、ドクン、ドクン。

 名前を呼ばれて、心臓の動きが急速に激しくなった。

 懐かしい。

 覚えている。

 初対面の男性であるはずなのに、心が精一杯に叫ぶ。彼の元へと手を伸ばす。どうして? 私はこの人のことを、なぜ知っているのだろうか。


——きみを、ずっと待っていた。


 月明かりの下、その男は私の目を見つめてゆっくりと微笑む。どこか懐かしいその人の顔を、夢の中の私は呆然と見つめるばかりだった。


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