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第3話 何度考えたって

——きみを、ずっと待っていた。


 その男性は確かに私の目を見つめてそう言った。

 夢の中で、私は彼の髪の毛からつま先まで、這うように視線を動かす。


——私を待っていた……? あなたは誰?


 必死に彼を見返しながら、記憶を辿る。頭の中のどこにも、彼と会った時の記憶はない。けれど、名前を呼ばれた時に確かに覚えた「懐かしい」という感覚に、胸がドキドキと鳴っていた。


——俺の名前は、影山玲かげやまれい。この『月影の庭』でずっときみを、月凪を、待っていたんだ。


——『月影の庭』……。それは、この場所の名前、ですか。


——ああ、そうだ。月明かりがちょうどこの庭に差して、庭にところどころ影をつくる。だから俺はこの庭のことをそう呼んでいる。


——月明かりと、影……なるほど。


 周囲を見回して、確かに彼の言わんとすることが分かった。色とりどりに咲き乱れる花たちは月明かりに仄かに照らされて艶めいている。が、少し視線を周りの木々の方へ移すと、そちらは影となっていた。

 夢の中の私は、自分が今置かれている状況を冷静に見つめ直す。

 影山玲と名乗るこの男は、私が想像した夢の中の人物だ。

 懐かしいと感じるのは、今まで自分が出会ってきた人間を投影しているからに他ならない。そこに運命めいたものを感じるなんてどうかしている。現実で疲れているから、夢でおとぎ話のヒロインになったような妄想をしているんだ。


——すみません、私、行かなきゃ。


 これ以上ここに止まっていたら、夢の世界から現実へと戻れなくなってしまうかもしれない。なぜだか直感でそう思った。と同時に、ほんの少し、現実に帰りたくないという気持ちが生まれる。

 ここが現実で、自宅と会社を往復するだけの日々が夢だったらいいのに。


——現実に戻りたくないなら、また夢を見ればいい。


——え?


 まるで私の心を読んだかのような台詞が飛び出してきて、思わずはっと彼の目を見つめた。

 紺青色の瞳が、じっと私を見つめている。まるで、世界には私だけしかいない、そんなふうに彼が思ってくれているみたいに、まっすぐな光がそこにあった。


——俺はずっと、きみだけを待っている。だからいつでも、この夢で待っているぞ。


——私だけを……。


 恋愛ゲームのヒーローのような言葉をかけてくる玲に、いよいよ自分の妄想の激しさに呆れてしまう。現実での仕事や恋愛がうまくいかないからって、夢で理想を投影した人物を描き出すなんて、我ながら少女じみている。早いところ夢から覚めないと、この夢にのみ込まれそうだ——と、直感で思った。


——じゃあ、またな。


 また、なんてあるかどうかも分からないのに、彼はこの夢に続きがあると疑いようのない口ぶりで右手を挙げた。自然に口角が上がっていて、その笑顔にドキリとさせられる。

 だから、違うって。

 これは夢なんだから。夢の中でときめいたって、どうしようもないじゃない。目が覚めて、虚しくなるだけだからやめておこう。

 なんて、眠っている間に冷静に自分の心の中を客観視できることを不思議に思いつつ、『月影の庭』と玲の幻影はそこでブラックアウトした。




「……っ。びっくりした……」


 ふと目を覚ました先に見えたのは、変わり映えのない部屋の天井の白。先ほどまで夢に見ていた月明かりと、色鮮やかな花と、庭に差す影のコントラストはどこにもない。当たり前だ。無機質な天井を目にするたびに、これから始まる一日の憂鬱を思い出して吐き気が込み上げる。


 いち、に、さん。

 心の中で三回唱えてなんとか布団から起き上がる。

 着替えを済ませて顔を洗う。ようやく本格的に目が覚めてきて、ふうぅ、と大きく息を吐き出した。

 それにても……珍しい夢だった。

 夢の中で夢だと自覚していて、いつも見る夢の続きが始まった。

 これまでも「月凪」と誰かに名前を呼ばれているシーンを夢に見ていたけれど、その先で私の名前を呼んでいた人に会えるなんて。現実世界で、上司にいびられながら、職場以外では孤独に過ごしている私が、潜在意識下で誰かに求められたいと思っている証拠だ。


「現実に私を求める人なんて、誰もいないのにね」


 職場に行けば、渡瀬課長に今日も何かと理由をつけて叱られるだろう。叱られるだけならまだしも、ひどい時は人事評価を下げられることもある。こんなの理不尽だ、と声を出して言いたいのに、肝心の時には喉元を大きな蓋で塞がれているみたいに声が出せない。

 助けてと言えない。

 病院に行けばいいのだろうけれど、行くだけの気力も体力も時間も残っていなかった。それに、医者を前にして本当の気持ちを話せるかどうか、自信がない。


「大和……」


 感傷的な気分に浸っている時、つい彼のことを思い出してしまう。

 私が、全身全霊かけて愛した人。

 二十歳の時から二十四歳の誕生日を迎える目前まで、みっちり四年間交際した男。

 彼とは……婚約までしていた。それなのに。

 ある日突然、別れを切り出されてから、一度も連絡を取っていない。別れたのだから当たり前なのかもしれないけれど、あまりにも唐突な終わりに、私の気持ちは置いてきぼりにされた。

 あれから一年以上経った今も、彼のことを忘れられないでいるぐらいには、本気で好きだった。


 大和がいてくれたら。

 きっと、会社で渡瀬課長から理不尽な叱咤を受けたって、家に帰って彼と食卓を囲むうちに、気持ちは凪いで、和らいでいくだろう。

 基本的に温和で、他人の話に真剣に耳を傾けてくれるタイプの男性だった。真面目で面白くないと思うことも確かにあったかもしれないけれど、そんなことはどうでも良くなるぐらい、彼は全身で私を包み込んでくれる。そんな人だった。

 一体どうして大和が今、隣にいないのか。

 ぼんやりとする頭で、何度考えても分からない。かれこれ一年以上、私たちの関係が終わってしまった理由について考えては、悩み、淋しい気持ちに襲われていた。


 どれだけ考えたって、彼はもう帰ってこないのだ。

 捨て置かれた猫のように、残ったのは仕事も恋愛も前に進めずに悶々とした日々を送る私だけ。


「考えても、仕方がないか」


 結局いつも大和のことをぐるぐると考え出しては、最終的に意味のないことだと自分に言い聞かせて終わる。

 終わった恋にいつまでも執着してるなんて情けない。

 中高生じゃあるまいし、いい加減前に進まなきゃ。

 頭では分かっている。けれど、心が停滞して前に進もうとしてくれない。

 大和はもういない。いないんだ。別れてから二度と会わない存在って、死別とは何が違うんだろう。同じ空の下で、今も大和がどこかで息をしているなんて信じられない。


「ふう……」


 大きく息を吸って、吐き出す。

 毎朝繰り返しているルーティンを、今日はいつも以上に深く激しくやってみせた。

 会社に、行こう。 

 見えない手が、玄関の方へと私の背中を押す。もう少ししたら、こんなふうに見えない手に押されることもなくなるかもしれない。そうしたら私は、いよいよ会社にも行けなくなって、社会からポーンと跳ね除けられる。そんな気がして、怖かった。


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