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第4話 無条件に味方になってくれる人

 オフィスにたどり着くと、始業ぎりぎりの五分前だった。


「城北、今日も遅刻予備軍だな? やる気あんのか」


 渡瀬課長はいつも通り。私の顔を見つけるや否や、口癖のように小言を言ってくる。近くのデスクの同僚たちが、無意識なのか意識的なのか、フイっと課長から顔を逸らした。


「お言葉ですが、課長。まだ、遅刻ではないのですが……」


 なんとか正論をぶつける。そうだ。そうだよ。仕事は九時に開始するが、現在八時五十五分。ぎりぎりではあるけれど、遅刻というわけではない。それなのに取ってつけたように朝から私を叱りつけるなんて、ストレスの吐け口にされているとしか思えなかった。


「上司の俺が遅刻と言ったら遅刻だ。今月、あと一度でも遅刻したら減給だからな」


「減給って……」


「なんだ? 何か文句でもあんのか? 減給されたくなきゃ、普通に出社すればいいんだよ。周りのやつらを見てみろ。みんな、三十分以上前に来てるぞ」


「……」


 そう言われてしまえばぐうの音も出ない。私の所属する企画管理部は渡瀬課長の監視下にあるので、確かにみんな出社時間が早かった。私は、朝仕事のことを考えるとなかなか家を出られなくて、いつも出社が最後になっている。


「渡瀬課長、それくらいにしてあげてください」


 先ほどからずっとパソコンの画面と睨めっこして書類を作成していた花田先輩が、くるりと課長の方を向く。


「今日は遅刻じゃないんですから、もういいでしょう」


 花田先輩の正論に、渡瀬課長は「フン」と鼻を鳴らして押し黙った。

 渡瀬課長も、花田先輩の言うことだけは素直に聞くことが多い。昨日に引き続き、花田先輩には今日も助けていただいた。へこへこと頭を下げると、彼女は「大丈夫だから」と聖母のような笑みで私を包み込んでくれた。


「城北、今日のお昼って空いてる?」


「お昼、ですか」


「ええ。良かったら一緒にご飯食べない? 近くに新しいイタリアンカフェができたの知ってる?」


「いえ、知りませんでした」


「じゃあそこ行こうよ」


「花田先輩がいいなら、ぜひ」


 まさか、先輩からカフェに行こうなどと誘われるとは思っておらず、正直驚いた。けれど、誘ってくれたのは嬉しい。二つ返事で頷いた私は、朝から渡瀬課長に怒られたことをすっかり忘れるぐらい、お昼の時間が楽しみになった。



 午後十二時ぴったりに、花田先輩は椅子から立ち上がる。私もつられて席を立った。ついいつもの癖で、ちらりと課長の様子を窺ってしまう。課長は私と花田先輩の方を一瞥したけれど、特に何かを言ってくるようなことはなかった。


「はーっ、やっとオフィスから脱出できた。本当、あの席って息が詰まるんだから。城北は大丈夫? 毎日毎日、課長からいびられてメンタルやられてない?」


「だ、大丈夫です……たぶん、今のところ」


 きっと大丈夫ではない。

 身体と心が出しているSOSの信号に気づいていないわけではない。けれど、大っぴらに誰かに助けを求められるような性格をしていたら、今頃一人で思い悩んでいることもないだろう。

 花田先輩はとても親切な先輩だ。でも、だからこそ彼女には弱音を吐きたくなかった。

 仕事に行きたくない。

 渡瀬課長のことを憎んでいる。

 そんな負の感情をぶちまけてしまったら、唯一味方をしているこの人まで失うような気がして。そうしたら本当に、私は一人で闘わなくちゃいけなくなる。訪れる未来を想像して、冷や汗が背中を伝った。


「ふうん。あまり大丈夫そうには見えないけど。本当に辛くなったら、絶対に相談しなさいよ?」


「はい、分かりました。いつもお気遣いいただきありがとうございます」


 まるでロボットのような返しに、花田先輩も納得していない様子でため息を吐いた。けれど、目的のイタリアンカフェに着くや否や、突如として「わーいい雰囲気っ」と歓声を上げる。

 確かに、店内には温かみのある木製のテーブルや椅子が並んでいて、暖色系の照明がほっと心を癒してくれる。ところどころに観葉植物が飾ってあり、和やかな気持ちにさせられた。

 オフィス街に佇むカフェだからか、店内はOLらしい女性で溢れていた。男性客はあまりいない。まさに、OL女性のオアシス的なお店といった感じだった。


「城北、何にする?」


 テーブルの上に広げられたメニュー表を見ながら、注文するものを考える。お昼休憩の時間は一時間しかない。パスタとピザがメインのようだが、ピザの方が焼くのに時間がかかりそうだな……でも美味しそう。ピザを頼んだら、出てくるのが遅くなって花田先輩に迷惑をかけてしまわないだろうか? などと色々考えていると、花田先輩が張りのある声で「私はこのマリナーラにする」と、ハーブとニンニク乗ったシンプルなピザを指差した。


「じゃ、じゃあ私も」


 先輩がピザを頼むなら自分もピザにしよう。シーフードがたっぷり乗った「ペスカトーレ」を注文した。


「城北さ、そんなに周りのことばっかり窺わなくてもいいのに」


「え?」


 ピザを注文し終えてから、花田先輩が間髪を容れずにつっこんできた。


「今だって、最初からピザが食べたいって思ってたんでしょ。顔に書いてあったよ。でも提供に時間がかかりそうだからどうしようって迷ってた。違う?」


「……違いません」


 何もかもお見通しの花田先輩は、「でしょ?」と小さく笑う。


「そういうの、気にしなくていいから。少なくとも、私の前では」


「ありがとうございます」


 花田先輩の優しい言葉に、胸の中につっかえていたものがすーっと消えていく。

 朝、会社に行くのはもうどうしようもなく辛いけれど、花田先輩と会うことは全然辛くない。むしろ、彼女がいるからまだ踏ん張れているのだと痛感した。


「でさ、実際どうよ、最近。仕事、やっぱり行きたくないって思う?」


「えっ」


 先輩に、「仕事に行きたくない」なんて話したことがあっただろうか。

 両目をぱちぱちと瞬かせていると、花田先輩は「それぐらい分かるって」と両手をひらひらさせて答えた。


「それに、私にも身に覚えがないこともないしね」


「花田先輩も、仕事に行きたくないって思ったことがあるんですか?」


「ええ、そりゃあるわよ」


 これには心底驚いた。

 花田先輩は、うちの部署の中では一番血気盛んというか、いつも自分の仕事をバリバリこなすし、後輩の面倒だってこうしてよく見てくれている。そんな先輩も、私と同じように会社に行きたくないって思うこと、あるんだ。

 今まで完璧だと思っていた先輩に、少しだけ親近感が湧いた。


「実はさ……ここだけの話なんだけど」


 注文したピザが運ばれてくると同時に、花田先輩がこちらにぐっと身を乗り出して囁き声で口を開いた。


「私、渡瀬課長に一時期セクハラ受けてたんだよね」


「え、セクハラ……ですか?」


「そう。前にデートに誘われたって話はしたよね。その延長線上というか……ううん、あれはお誘いと同じだって思っちゃいけない。立派なハラスメントだわ」


 前髪をかきあげながら、彼女がふふんと鼻を鳴らす。

 知らなかった。花田先輩が渡瀬課長にそんなことされていたなんて。


「酔っ払った勢いで、手を握られたり、太もも触られたり。飲みの席で、隣になった時の話ね。その場の楽しい空気を壊したくなくて、必死に我慢してた。それだけじゃなくて、残業で二人きりになった時に色々と……」


 その先は思い出したくもないというふうに、彼女は言い淀んだ。

 大体は想像がつく。けれど、普段格好よく仕事をこなしている先輩と、セクハラという禍々しいワードがどうも結び付かなかった。


「で、すごい病んでた時期もあったんだ。その時は家族とか、学生時代の友達からの支えでなんとか持ち堪えたけどね。もう少しで社会人として終わるところだった。自分が一方的にやられたことで社会から弾き飛ばされるなんて悔しくて、踏みとどまった感じ。今は……なんとかそういうことにならないように、事前に察知して課長からは距離をとるようにしてるけど、またいつ再燃するか分かんないかな。そんなところ」


 薄いマリナーラピザを口に運び、上品に咀嚼する花田先輩。私は、淡々とした彼女の口調からは想像もつかない壮絶な過去を知らされて大きく身震いした。


「——と、怖がらせてごめんね。でもだからこそ、城北には私と同じ思いはしてほしくなくて。少しでも違和感を覚えることがあったら言って。それと、今この状況が耐えられなくなったら、私にSOSを出して。力になるから」


 もう十分。

 力になら、なってくれている。

 花田先輩は他の同僚たちとは違う。面と向かって渡瀬課長の前で私を守ってくれる。これ以上、先輩に迷惑はかけられないな。

 でも、味方だと言ってくれたことは嬉しかった。嬉しくて、つい口が止まらなくなる。


「ありがとうございます。まさか、先輩と課長の間でそんなことがあったなんて……。許せないです」


「ははは、ありがとう、城北。あんたが怒ってくれただけで嬉しいよ。今はもう昔のことは気にしてない。というか、気にしないようにしてる」


「そうなんですね。あの、私」


 この先を彼女に話そうか、一瞬迷った。

 話しても信じてもらえるかどうか分からない。でも、花田先輩は笑わずに聞いてくれると確信して、大きく息を吸い込む。


「最近……夢を見るんです。同じ夢を何度も。夢の中で夢って気づく、不思議な夢なんですけど」


「ほう」


 突然夢の話をし出した私に、呆れられるかと思っていたのだが、思いの外花田先輩は興味津々に身を乗り出してきた。


「信じてもらえるか分かりませんが……」


「なになに、教えて」


 食べかけのマリナーラを一度お皿に置き、セットで運ばれてきたアイスティーをずずっと一口吸う。彼女の綺麗な双眸が、「早く話して」と訴えかけてくる。


「昔、小さい頃に祖母の家の近くで遊んでいた時に、忍び込んだ森の中の夢なのですが」


 私は、“御影の森”に侵入した過去の話や、“御影の森”の中で名前を呼ばれる夢を最近よく見ること、さらにその夢の続きで玲という青年に出会ったことを話した。


「ただの夢だっていうのは分かっているのですが、夢を見るようになったのが、会社に行きたくないなって思い始めてからで……。精神状態が良くないのが原因なんでしょうけど、何か、この夢に意味がある気がしてならないんです」


 話しながら、どうして私は花田先輩にあの夢の話をしているのだろうか、と自分自身、疑問を覚える。

 あの不思議な夢について、自分の中だけで抱えておくのは荷が重いような気がしていて。花田先輩なら、私の妄想だって笑わずに聞いてくれるんじゃないかと思ったから、かもしれない。


「へえ、興味深い夢ね。毎回名前を呼ばれたところで夢が途切れて、昨日の夢でついに、その青年に出会ったのか。しかも『きみだけを待っている』なんて、なんだかロマンチックね。恋愛ゲームみたいでいいじゃない」


 恋愛ゲーム。

 確かに先輩の言う通り、私の話だけ聞くと、私の都合の良いように物語が進んでいくゲームのようだ。

 だけど、あの夢の中の玲という人物の中には、確かに私以外の誰かの意思が存在しているように感じられた。


「馬鹿みたいな妄想だって笑ってください。この夢が明確になるにつれて、現実で人生が上手くいかなくなるような気がしてならないんです」


 一度吐き出した不安は、はっきりとした熱を帯びて、全身を覆い尽くした。


「ちょっと城北、落ち着いて。夢ってその時自分が考えていることだから、何か意味があるかどうかは分からないじゃない。あったとしても、城北にとって前向きになれるものかもしれないでしょ? ほら、何事もポジティブ、ポジティブに!」


 正面に座っている花田先輩が、身を乗り出して私の肩をバン、バンと軽く叩く。

 ポジティブに。

 彼女みたいに、明るくて、上司に嫌なことをされても乗り越えて生きていけるような人間になれたらいいのに。

 どうしても、悪い方へと考えてしまうのは自分の悪い癖だ。


「って、それができない人間もいるのよね。うん、分かってる。だからこうして定期的に一緒にご飯でも食べましょ。仕事終わりに飲みに行くのでもいいわよ。言っとくけど私、なかなか酔わないから覚悟しといてね?」


 それは、何をどう覚悟をすれば良いか分からないのだけれど。

 彼女の力強い言葉が、泥の水溜りになっていた心の中から、余計なものを洗い流してくれた。


「ありがとうございます。今日、お昼ご一緒できて良かったです」


 自分を見失いそうになる日々の中で、この人だけはいつでも味方をしてくれるだろう。

 無条件で味方になってくれる人がいるだけで、こんなにも安心することができるのか。

 残りのペスカトーレピザを食べながら、もうちょっとだけ仕事、頑張ってみようと思えた。


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