二日後の九月二十日、土曜日。
私は、都内の自宅から飛行機に乗り、祖母の自宅のあった宮崎まで飛んだ。
先日、叔母からの手紙を呼んでいてもたってもいられなくなり、その日の夜のうちに飛行機を予約したのだ。直前だったけれど幸い席は空いていた。土曜日になり、荷物を詰めて家を出ると、なんだか自分がままならない現実から逃げて長い旅に出るのだという気分にさせられた。
「ふーっ」
宮崎空港に降り立つと、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
都会とは違って新鮮な空気が流れ込む。
小さい頃もここでこうして深呼吸したなあ。
あの頃はまだ、社会の荒波に揉まれることもなく、日々の生活に不満も何もなかったんだけれど。それでも美味しい空気を吸うと、自然と心が洗われるような心地がした。
祖母の葬儀でも訪れたので、久しぶりではない。けれど、自分が来たいと思うタイミングでここに来たのは初めてだ。一人きりの逃避行。なんだか、漫画でよくありそうな展開に、ふふっと一人、笑みをこぼした。
空港からはバスが出ている。運良く祖母の家の近くまで行くバスが来ていたので、さっと乗り込む。荷物はボストンバック一つなので身軽だった。
バスに揺られていると、本当に遠くへ来たんだなと実感する。舗装されていない凸凹の道を走るのすら心地よく感じられた。整えられたアスファルトの上をパンプスで歩く自分はどうも本当の自分ではないような気がするから。ここに来て、余計な服を脱ぎ捨てて裸になった心地でバスに乗ると、身体の中に溜まっていた邪気まで遠くへ飛んでいくみたいだった。
コツン、と軽く窓に頭をぶつけて目が覚める。
いつのまにかうたた寝をしていた。
バスの運転手が、目的地のバス停の名前をアナウンスした。
どうやら眠ってから一時間も経っていたらしい。このまま寝過ごしたら大変なところだった。
まだはっきりと頭が回らないうちにバス停へと降り立つ。他に同じバス停で降りる人はいなかった。それもそのはず。周りは田んぼばかりで、民家の少ないこの辺りは住人だって少ないのだ。少し歩いて祖母の家の近くまで行くと、ポツポツと家が増え始める。そこでようやく道を歩いている人とすれ違った。自転車に乗って走る小学生は黄色いヘルメットをかぶっている。懐かしい。私も昔、あんなふうに脇目も振らず自転車を漕いだっけ。
バス停を降りて、十五分ほど歩いた。
やっと、白い壁をした祖母の家にたどり着く。と言っても、もう祖母はいなくて、住んでいるのは叔母夫婦だ。彼女らには息子が二人いるが、その二人も独立しているので今は家にいないはずだ。
なんとなく、周りを見回してから玄関のインターホンを鳴らす。
昔、長期休みで帰ってきた時に一緒に遊んだ同年代の子供たちは、当然ながら近くにはいない。それなのに、あの頃“御影の森”に入った記憶が蘇って、もしかしたら彼らがどこかにいるのではないかと錯覚してしまう。
「月凪ちゃん、遠いところをよく来たわね」
「
出てきたのは叔母の奈緒子だ。年齢は母よりも三つ下で、五十歳を過ぎたぐらいだろうか。多少のシワや白髪は増えてきたものの、子供の頃から見てきた彼女とあまり違わない。その変わり映えのなさが、今の私にとっては精神安定剤だった。
「どうぞ、上がってちょうだい」
「お邪魔します」
叔母には、こちらに来ることを昨日伝えていた。突然のことだったので、元々はどこかのホテルを予約する予定だった。でも、事情を話すと「え、うちに泊まっていけばいいじゃない」と快く寝床を提供してくれたのだ。とてもありがたい。最近、至る所でホテル代も高騰しているし、叔母の優しさが胸に沁みた。
「お母さんの手紙、無事に届いたみたいで良かったわ」
祖母の仏壇の前で手を合わせた後、私を食卓へ招き、お茶とお煎餅を出してくれた叔母が、にっこりと微笑む。時刻は夕方の四時半で、叔父さんはまだ仕事から帰ってきていないようだ。
お母さん、とは言わずもがな、私の祖母のことだ。
「突然のお手紙でびっくりしました。まさかおばあちゃんが一年前に私宛に手紙を書いてくれていたなんて」
「私も、遺品整理をしていて見つけたものだから驚いたわ。そんな手紙があるなんて、生前一言も言ってくれなかったんだもの」
「おばあちゃん、手紙を渡すかどうか迷ってたんじゃないかなって思いました」
「そうかもしれないわね。私は中身を見たわけじゃないんだけど、月凪ちゃんに手紙を受け取ってもらえるか、不安だったのかもね」
「受け取るに決まってるのに」
言いながら、祖母の気持ちは少しだけ理解できた。普段から近くに住んでいるわけではないので、私との距離感を測りかねていたんだろう。でも、私は、祖母が自分のために手紙を書いてくれたことが、純粋に嬉しかった。
そして、手紙の内容がずっと頭から離れないでいる。
「奈緒子おばちゃんは、『月影の庭』って知ってますか?」
思い切って目の前の彼女に尋ねてみた。祖母が亡くなるまでずっと一緒に暮らしていた叔母のことだから、何か知っているかもしれない。
叔母はふるりと瞳を揺らし、「ええ」と頷いた。
「といっても、私は見てきたわけじゃないから、お母さんから聞いた話だけど。“御影の森”の奥深くにある洋館の庭のことよね。確か、満月の夜にそこへ行くと、不思議な出会いが訪れるとかなんとか」
「満月の夜?」
はたと小首を傾げる。
確か、おばあちゃんからの手紙にはそんなこと書かれていなかったような……。
「あれ、知らない? 満月の夜にだけ、『月影の庭』で出会いがあるかもしれないっていう。お母さんからから聞いたんじゃないの?」
「いえ、それは知りませんでした」
「あらあら。お母さん、大事なことを伝え忘れちゃったのねえ。まあかなり歳だったし、ボケてるとこもあったから」
叔母がふう、とため息を吐いて、やれやれと口にした。
そうか……満月の夜じゃないと、ダメなのか。
だとすれば今日は“御影の森”に行っても意味がないのか。
スマホで今日、二〇二五年九月二十日の月を調べる。残念ながら今日は満月とはほど遠い細い月の形をしていた。次回の満月は十月七日か……。事前に調べて来ればよかったものの、満月の夜だけ、なんていう情報を知らなかったので仕方がない。
「今日は満月じゃないみたいです。でも、せっかく来たのであとで行ってみます」
「そう? 大人になったとはいえ、暗いから気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
大事なことを教えてくれた叔母に頭を下げる。残念だけど、何も知らずに森に入るよりはずっと良かった。
「それより月凪ちゃん、最近はどう? 誰かお付き合いしている人はいるの?」
女子高校生のようなノリで身を乗り出してくる叔母に、私は「えっと……」と口籠る。
「いや、今のところはいないですね」
「そっかあ。うちの息子たちもまだなのよ、結婚。でもまあ、あの子らはそもそも結婚したいのかも分かんないんだけどね。一人ぐらい、孫の顔も見たいっていうか」
「そうですよね」
叔母と姪という絶妙な距離感の相手を前にして、叔母も本音を話しやすいのか、恋人がいないという妙齢の私に構うことなくずけずけと話を続けた。まあ、気を遣われるよりはよっっぽど気楽だ。
「結婚しないの? なんて聞いたら、今の時代ではなんとかハラスメントになるみたいだし。実際聞くことはないけどね。あの子たちが幸せでいてくれることが一番だし」
そう言いつつも、やっぱり孫の顔を見ることは諦めていないのか、「いい人がいたら教えてね?」と私に念を押してきた。その清々しさに、ふふっと笑みがこぼれる。
「月凪ちゃん、確か前にお付き合いしていた人とは長かったのよね。その後すぐに恋愛しようって気にならないのは当然のことだわ」
「はい、なんというか、そんな感じです」
別れて一年以上経っている今の状況を、「その後すぐ」と言えるのかどうかは分からないけれど。叔母が私の気持ちに共感しようとしてくれていることは嬉しかった。
「また状況が変わったら教えてね? 息子しかいないから、娘とこういう話をするのが夢だったの」
「良いお知らせができるようになったら、その時に」
私にとっても叔母は、付かず離れずのちょうど良い距離感にいる人だから、この手の話も気負わずに話すことができる。
自宅と職場の往復をする生活の中では気づけなかった意外な心の拠り所ができた気がして、嬉しかった。