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第7話 紺青色の瞳

 満月の日ではないけれど、せっかく来たのだし行ってみよう、という軽いノリで午後七時に“御影の森”の入り口にやってきた。


「懐かしいなあ」


 森の入り口はいくつかある。私が昔、子供の頃に侵入した場所は目の前が空き地になっていて、入り口が分かりやすかった。何も知らない子供が迷い込んでしまうこともあるので、いつからかロープが貼られ、「立ち入り禁止」の看板が立てられた。


「この看板、まだあるんだ」


 記憶の中の看板はまだ設置されたばかりで綺麗だったけれど、今目の前に現れたそれは、白い部分が色褪せており、黒い文字はところどころ剥がれかけている。


 周囲を見回して、誰も見ていないことを確認すると、ロープを掻い潜り中へと侵入した。森の中へ足を踏み入れる瞬間、小学生の頃に忍び込んだ時と同じような緊張感がぴりりと駆け抜けた。けれど、一度入ってしまえば外からはほとんど見えなくなるので、すぐに緊張は解けた。


 頭上を見上げてみればスマホで調べた通り、今日は新月に近い、ほっそりとした長い月が浮かんでいた。月明かりはほとんどなくて、暗い森の中ではスマホのライトがないと足元がおぼつかなくなった。

 ザ、ザ、と土を踏みしめながら森を進む。木々に囲まれた場所は、しんしんと空気が冷え切っている。一人で心細い気分になり、緊張して自然と呼吸が浅くなっていることに気づいた。


「ふう」


 中を歩くこと二十分。景色は先ほどから全然変わらなくて、ずっと鬱蒼としげる草木ばかりが視界に広がっていた。

 ここらで一度引き返そうか——と踵を返した時、どこか懐かしい甘い香りが鼻を掠めた。


「今のって」


 具体的に何の香りか、と聞かれると答えに窮してしまう。

 でも、絶対にどこかで嗅いだことがある。ああ、そうか。この匂いはあの夢の中で嗅いだんだ。『月影の庭』に咲いていた色とりどりの花たち。その花の香しい香りが、ふと一本の糸を引くように、すーっと鼻腔をくすぐっていた。


 このまま進んでいけば、本当にあの洋館が現れて、『月影の庭』でに会えるのかもしれない。

 一瞬そう考えたけれど、「そんなはずはない」と考えを振り払う。

 そもそも彼は、夢の中で出会った人物だ。現実世界で会えるはずがない。今日は満月でもないし、都合の良い奇跡なんて起こらない。

 ……だけど、もしこれが満月の夜だったら?

 好奇心から生まれる思考が止まらない。

満月の夜だったら、もしかしたら彼に、また会えるのかも。

 祖母の手紙に書かれていた「不思議な出会い」と、夢で見た影山玲の凛々しい立ち姿がリンクする。


「……って、そんなことあるわけないよっ」


 夢の中で見た知らない人間が都合よく現実世界に現れるわけない。

 ふーっと息を吐いて、呼吸を整える。

 冷静になれ、冷静に。

 上手くいかない現実での生活に、心が疲れているんだ。

 深い森の中で、「あれはやっぱりただの夢だ」と必死に言い聞かせる。

 ありもしない妄想を繰り広げているうちに、職場での立ち回り方について考えるべきだ。

 ……と、頭で分かっているのに、ドキドキと高鳴る心臓の音はどんどん激しくなっていた。



 それから十七日後の、十月七日、火曜日。


「また来ちゃった」


 渡瀬課長の顔色を伺いながら、有給申請をしたのは一週間前のことだ。

 「休みを取りたい」と言い出した時、案の定彼は大仰に怒鳴りたてた。


『ハア? 休みたいだとぉ? 何のために休むのか、言ってみろ!』


 朝一で機嫌が悪かったのか、渡瀬課長の怒鳴り声はオフィス全体に響き渡った。他の部署の人たちまで、私の所属する企画管理部のデスクの方をちらちらと見てくる始末だ。

 やっぱり有給なんて取れないのか……と、真っ当な労働者の権利を奪われて凹んでいたところ、助け船を出してくれたのはやっぱり花田先輩だった。


『渡瀬課長、有給を何に使うのかを聞くのはルール違反ですよ』


『ルールなんてもんは、俺が決めるんだ!』


『はあ。でも課長、その日は特に得意先で大きなイベントがあるわけでもないですし、基本事務仕事の日なので、城北さんの分のフォローぐらい誰でもできますよ。なんなら私がやります』


 そこまで言われてしまえばぐうの音も出ないのか、渡瀬課長は「好きにしろっ」と吐き捨てて、ドスンと自分の席に着席した。


 私は、またもや自分を庇ってくれた花田先輩にお礼を伝えて、パソコンの画面上で、勤怠表の十月七日のところに「有給」マークを付けた。


 そうして今日、満月の夜にまた御影の森へとやって来たわけだ。


 以前侵入した入り口から、再度森の中へと足を踏み入れる。空を仰げば、今日こそまんまるの月が夜の森の道を照らしてくれていた。

 しばらく夜道を歩いていると、前回来た時と同様、どこからか芳しい花の香りが漂ってきて、はたと息をのんだ。

 この匂い、この空気感。間違いない。『月影の庭』が現実世界に存在している——。

 確信した私は、花の匂いに誘われるようにして、森の奥へと進んだ。この前よりも仄かに道は明るくて、どういうわけか、孤独感もまったくなかった。


——月凪。


「あっ」


 今、確かにはっきりと聞こえた。私の名前を呼ぶ声。夢の中で聞いた、あの人の澄んだ声声が。

 驚きつつ、心臓の鼓動がドックドックと激しく脈打つのを感じた。

 本当に、現実世界にがいる……?

 自然と、足が速くなるのを感じていた。普段あまり運動をする方ではないので、早く前に行きたい気持ちが動かしている足の速さよりも勝って、足がもつれそうになる。崩れそうになるバランスをなんとか保ちながら、森の奥の奥へと進んだ。


「あった……!」


 どれぐらいの時間歩いたか分からない。頭上には相変わらず大きくて輝かしい月が浮かんでいて、今、自分が現実にいるのだとちゃんと実感させてくれた。目の前に現れたのは夢で見たのとまったく同じ煉瓦造りの洋館だ。所々蔦に覆われた壁も、記憶の中の洋館と一緒で、思わず目を瞬かせた。


「本当に、あったんだ……」


 祖母の手紙にもちゃんと洋館の存在は示されていたけれど、まさか夢で見たものと同じ建物を目にするとは思っておらず、度肝を抜かされる。知らないうちに、かなり息が上がっていたことに気づいて、立ち止まると肩が自然と大きく上下した。


 ここからはゆっくりと洋館の入り口へと近づいていく。足元には鬱蒼と草が生えており、転ばないように慎重に土を踏み締める。

 重厚な扉を開けると、そこには真っ暗な空間が広がっていた。けれど、不思議と怖さはなくて、夢の中で感じたのと同じ温もりが漂っていた。

 洋館の中へと足を踏み入れて、中を進んでいく。奥の壁にもう一つ扉があり、ビンゴだと思った。


「失礼しまぁす……」


 誰に「失礼」しているのか自分でも分からなかったが、自然とこぼれ落ちた。目の前にぱっと広がったのは、まさに夢の中で見た『月影の庭』そのものだった。

 月明かりに照らされた庭には美しい花が風に揺られている。夜だから、はっきり見えるわけではないけれど、暗い中でも赤や黄、オレンジ、青、といった色彩鮮やかな花があることが分かった。

 そして、見紛うはずもない。

 庭の真ん中に佇む、一人の男性の影。

 夢の中で出会った、袴姿の銀髪の青年。

 彼はゆっくりと私の方を振り返り、ふっと両目を細めた。


「こっちでも、やっと会えたな。月凪」


 信じられないけど、彼はちゃんとそこにいて、私の名前を呼んだ。頬を撫でる夜風の冷たさが、これが夢の世界ではないと知らせてくれる。


「影山、玲さん……?」


「ああ、そうだ。もう待ちくたびれたよ」


 きらりと光る紺青色の瞳に映り込む、私の顔は。

 自分でもびっくりするぐらい赤く、上気したように色づいていた。



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