——こっちでも、やっと会えたな。月凪。
彼は確かにそう言った。月の光に照らされた『月影の庭』で、まっすぐに私の目を捉えて。古めかしい着物姿の彼が、私の意識を現実から遠ざける。けれど今この瞬間が、間違いなく現実であることはちゃんと理解していた。
背筋に電撃のような衝撃が貫く。ドクドクと鳴る心臓の音が静寂の中で響き渡っているような感覚に襲われた。
「あなたはどうしてここに……? なんで私の名前を知っているの? ここは夢の世界じゃないのに、現実に、どうしてあなたが」
混乱する頭で、必死に言葉を紡ぎ出す。どれも当たり前の疑問ばかりで、聞きたいことは山ほどあった。
しかし影山玲と名乗るその青年は、決して取り乱すことなく、私の質問に答えてくれた。
「説明するのはなかなか難しいんだがな。俺はここ、『月影の庭』に棲む、いわゆる“守護者”だ。ここを、この場所を、守っている。満月の夜、月明かりが強くなる時にだけ、ここに現れる」
「守護者……月明かりが強くなる時だけ、現れる……」
言われたことをただ反芻しているだけなのに、ドキドキする。胸の中で渦巻くのは彼という不可思議な存在に対する疑問より、彼に会えたことへの喜びだった。
私、どうしてこの人と会えて嬉しいんだろう。
確かに夢の中で一度会ってはいるものの、その時たいした話をしたわけでもない。自己紹介をして、「現実に戻りたくないなら、また夢を見ればいい」なんて言われて。実際は夢ではなく、こうして現実で彼と出会った。彼の人となりも、彼の存在そのものも、何も理解できていない。
それなのに、胸のときめきが止まらないのは、一体どうして——。
「俺はずっと、きみを、月凪を待っていた。何年もここで、きみだけを待ち続けていたんだ」
「何年も、私を待ってた?」
「ああ、そうだ」
まっすぐに頷く彼を目の当たりにして、私の頭の中はさらに混乱を極めた。
「どうしてですか? 私、あなたと夢の中以外で、どこかでお会いしたことがありましたっけ……?」
私の疑問に彼は首を横に振る。
「会ったことは、ない。でも、俺の魂がきみに会いたいと叫んでいたんだ」
「はあ……」
魂が叫ぶ?
まるで恋の歌の歌詞みたいなくさい台詞に、思わず苦笑いしてしまう。
「俺に会いに来てくれたということは、現実から逃げてきたということだろ?」
「現実から逃げて……」
彼に言われてはっとする。
そうか、私、現実から逃げてきたんだ。
ずっと心の中では今すぐ逃げ出したいと思っていて、満月の今日、満を持してここにやってきた。東京から程遠いこの場所に。夢で見た光景を、現実でも見られるかもしれないと仄かに期待して。
「そう、ですね。私、たぶん現実で生きるのが辛くて、逃げてきたんだと思います」
認めてしまえば、随分と気が楽になった。
何事も思うように進まない現実に、かなり前から嫌気が差していたんだ。ここに来れば、何かが変わるかもしれない。そんな思いで御影の森へ足を踏み入れた。
「やっぱりそうか。
そう言われて、彼の顔をはたと見つめてしまう。
「あなたは、私の夢の中に出てきた影山玲さんそのものなんですよね? どうして夢と現実の両方に現れることができるんですか?」
純粋に気になっていたことだ。
夢と現実がリンクしているなんて、あまりにも不思議な体験すぎて、すぐには理解しがたい。彼は本当に何者なのか。守護者と説明されたけれど、正直その存在を理解するのに、まだまだ私の頭は上手く働いてくれない。
「それも、説明するのは難しいんだけどな。俺には夢の世界へと誘う力みたいなものがある。この『月影の庭』から出られない代わりに、夢の世界では自由に動き回ることができるんだ。きみの夢に現れたのは、俺がここできみに会いたいと願ったからだ。まずは夢にお邪魔させてもらった。そうでもしないと、きっときみはここに来てくれないと思っていたからな」
「なるほど……?」
うーん、やっぱり話を聞いても完全には理解できない。
でも、彼がこの場所から動けない存在で、特別な力によって私の夢の中へ現れたということだけは理解できた。その“特別な力”というのが、現実に本当に存在するかどうかを受け入れるのには、苦労するけれど……。
ずっと夢を見ているような心地だった。
今こうして、夜の森の中で異世界から来たような人物と会話をしていること自体、夢なんじゃないかって。日々の生活のストレスで疲れた私が見る、理想の男性との出会い。
ん、私いま、この人のこと「理想」だって思った?
どうして、そんなこと。
「どうした月凪、納得できないって顔してるな」
「そりゃあ、そうですよ。突然現れて、守護者だの夢の世界に誘う力だの、信じられるわけないです。それに、私の名前を知ってるのも怖いし……」
「名前? ああ、それは自然に頭に浮かんできた」
「はい?」
「俺の魂に、きみの名前が刻まれてたんだ」
「……」
また、理解不能なことを口走る影山玲に、ちょっとだけ呆れてしまった。
ふわふわとした感覚にずっと身体が包まれていて、彼と話していると、現実での自分の状況を忘れそうになる。私は城北月凪。去年、最愛の人に振られて、仕事では上司からとことん嫌われて、現実に嫌気がさしている二十代半ばの女。そんな自分が森の奥で出会った、この場所の守護者と名乗る彼。うーん……やっぱり、漫画やドラマの見過ぎなんじゃないかって思う。
「怪訝そうな顔をしているな。俺は、きみのことを、運命の人だって思ってるんだが」
「はいいい?」
これにはさすがに、声を上げずにはいられない。
出会っていきなり「運命の人」だなんて自分から言ってくる人、初めて見た! というかかなりイタくない!? そういうのは、たとえそう感じたとしても、心の中にしまっておくものでしょう。
だけど、そう言われて気づく。
私だって、心のどこかで彼に出会ったことを、運命だって感じていなかった……?
「そんなに驚かないでくれ。運命の人だって証拠、見せてあげるから」
凛としたまなざしで私を見つめたかと思うと、彼は私と、二十センチぐらいの距離まで近づいてきて、私の頬に手を添えた。
そのあまりにもスマートな動きに、身体がぎゅっと固まる。
なになに、何をされるの……!?
考える暇もなく、彼の顔が近づいてきて。
反射的に目を閉じた後、私の唇に、彼のそれが、触れた。