温かく柔らかい感触が唇に伝わり、思わず息をのんだ。一秒、二秒……いや、十秒は息が止まっていたんじゃないかって思う。それぐらい長い時間、彼の唇に口を塞がれて呆気にとられていた。
驚きと同時にやってきた、甘やかな情愛のようなものが胸に広がっていく。
この気持ち……なんなんだろう。
心臓が痛いくらいにドキドキしている。
このまま——このまま、離れたくない。
一瞬頭をよぎった考えに、自分自身驚かされた。
私は今、一体何を——。
やがてふっと彼の温度が身体から離れる。その時、胸いっぱいに名残惜しい気持ちが広がった。
「な? これで運命の人だって分かっただろ」
「……」
反論をすることができなかった。
出会ってすぐに運命の人だと思うなんて馬鹿げている。そういうのは、その人と関わっていく中で愛を育んで初めて実感するものじゃないの。
それなのに、キスをしたくらいで運命の人だなんて。
……と、否定したいのに、未だ鳴り止まない心臓が、私にこう叫ぶ。
この人のそばにいたい、と。
それがどんなにおかしな感情かってことは重々理解している。きっと、疲れた心が誰でもいいから拠り所を求めているのだろう。けれど、さっきキスをされた時に感じた胸のときめきは、人生で一番——いや、かつて恋人だった大和と唇を重ねた時と同じくらい、激しいものだった。
「じょ、冗談はやめてください。いきなりキスするとか、どういうつもりですかっ」
玲の身体を両手でぐっと押しのけて、一歩後ずさる。キス一つで絆されるなんてありえない! 私はそんなに軽い女じゃありません! ——と、主張したかった。
「冗談? 分かってるくせに。月凪、きみも俺と出会ったこと、運命だって思ってるんじゃないか?」
「〜〜〜!」
じーっと鋭い視線を彼に向けて、声にならない抗議をする。
けれどそんな私を、子供が反抗しているとでも思っているような素ぶりで、玲はハハッと笑うだけだ。
「そもそも、現実世界でここに来てくれたのは、俺に会いたいと思ってくれたからだろう? その時点で運命に引き寄せられてる」
まったくの正論に、やっぱり反論の余地はなかった。
この男……ぐいぐい近づいてきて、色々とはっきり物事を口にするし、なんだかいけすかない……!
と思うのに、心がすっと吸い寄せられていくのはどうして?
私、やっぱりこの人のこと——。
「俺は月凪と出会えて本当に嬉しいよ」
ドクン。
ドクン、ドクン。
彼が口を開くたびに、胸の鼓動が今まで経験したことないくらい、大きく激しいものに変わっていく。
私と出会えて嬉しい……そんな言葉をかけられたのは、いつぶりだろうか。
去年の夏に、最愛だった人に振られてから、私の自己肯定感はダダ下がりだ。職場でも上司から疎ましがられて、どんどん居場所を失くしていく。そんな中、「出会えて嬉しい」なんて甘い言葉をかけられて、嬉しくないはずがない。
だから、つい。
口がぱっと開いてしまった。
「私も、嬉しい、です」
そんなふうに思ってもらえて、気持ちがどんどん目の前の人に傾いてしまっていた。
玲がふっと目を細めて、優しい笑みを浮かべた。
彼の背後の空に浮かぶ満月が、逆光で彼の顔に影を落とす。それでもはっきりと分かるぐらい、慈愛に満ちた表情をしていた。
「よろしくな、月凪」
自分の存在を受け入れてもらって満足したのか、彼はその瞬間に、ふっと姿を消した。
その光景に驚いて、何度も目をぱちくりと瞬かせる。
「消えちゃった……」
玲が、ただ者ではないということは分かっていた。
けれど、こうもあっさりと目の前から姿を消されると、事実を受け入れるまでに時間がかかった。
「どこに行っちゃったの?」
誰もいなくなった夜の庭園でぽつりと呟く。不思議と寂しさはなくて、ただそこに広がっている虚空をじっと眺めた。
玲は……玲は、また満月になったらここに現れるんだろうか。
満月の夜にこの場所に来れば、また会える……?
別れたばかりだというのに、次に彼と会う日のことを考えてしまう。
自分でも分かりやすいくらい、影山玲という不思議な存在に魅了されていた。