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第10話 もっと警戒しましょう

 その日、夜遅くに東京へトンボ帰りしてからも、興奮して眠れなかった。

 翌日も、翌々日も、頭に思い浮かぶのはあの『月影の庭』で出会った玲の凛々しい顔だ。目を瞑れば瞼の奥にぼうっと彼の幻影が現れるようで、夢と現実の世界の間で我を忘れているみたいだった。仕事中もずっと、彼のことが頭から離れないものだから、当たり前だけど渡瀬課長からはいつも以上に小言を頂戴した。


「城北、明日の浅間容器さんとの打ち合わせだけど、朝十時で大丈夫そう?」


「は、はい」


「資料作成もお願いしたいんだけど、今日時間ある?」


「多分……大丈夫かと」


 花田先輩に予定を問われて、曖昧な返事をしてしまう。


「城北、どうしたの? なんか心ここにあらずって感じね」


「す、すみません! そんなつもりはなかったのですけど……」


「一昨日有給とってからおかしいわよ。休みの間に何かあったの?」


「それは……」


 察しの良い花田先輩は私の様子がおかしいことに気づいて早速指摘をしてきた。この人には何も隠し事はできそうにないな。


「話しても、信じてもらえないと思います」


「なになに、もしかしてまた例の夢の話?」


 彼女に核心を突かれて、自分の目が泳いでしまったことに気づく。


「ビンゴだね? またお昼一緒にどう?」


「いいんですか?」


「言ったでしょ。時々一緒に食べようって」


「はい。ありがとうございます。でも私、今日はお弁当なんです」


「それじゃ、ラウンジでどう? 私も何か買ってくるから」


 さらりと返事をしてくれる花田先輩が爽やかすぎて、断る隙も理由もなかった。



 十二時ぴったりに、花田先輩はデスク上のノートパソコンの蓋をパタンと閉めて、オフィスから出て行った。私も彼女に見習って、パソコンを閉じた。一人で食事をする時はデスクでパソコンの画面を見つめたまま食べてしまうことが多いので、意識しないとできないことだ。

 花田先輩がビルの一階にあるコンビニでお弁当を買って帰ってくると、私も自分で作ったお弁当を持って、外へと出る。


 ラウンジは、ビルの中階に位置している。

 テナントで他にもいろんな会社が一挙に集まるオフィスビルなので、ラウンジは広く、見知らぬ会社員たちがパラパラとテーブル席について食事をとっていた。椅子とテーブルが百席ぐらいあるので、滅多には埋まらない。ぐるりとラウンジ全体を見回して、空いている壁際の席に二人で着席した。周りに、『グローリープロデュース』の同僚らしき人はいない。込み入った話をするかもしれなので、この席を選んだ。


「はあー! ここに来ると開放感があっていいわね」


「同じビルの中って気がしないですよね」


「城北はあんまり来ない?」


「はい、入社して数えるくらいしか来たことないです」


「そっかーもったいないな。毎日同じオフィスでご飯食べてると気が滅入るでしょ。だから私はラウンジとか、外の店とか、いろんなところで食べるわよ」


 花田先輩は大きく伸びをしながらアドバイスをしてくれる。

 彼女の言う通りだ。

 変わり映えのしない日々に鬱憤が溜まっていながら、変えようという意思を働かせていない自分が恥ずかしくなった。

 けれど、そんな私でも、一昨日に有給をとってあの場所に降り立ったことは、自ら日常に色を付けようと思い立って起こした行動だ。


「それで、どうしたの。一昨日、何かあった?」


 買ってきたコンビニ弁当の蓋を開けながら、花田先輩が早速尋ねてきた。


「はい……ありました」


 珍しく素直に頷いたのが気になったのか、「ほう」と興味津々でこちらを見つめてきた。


「何があったのよ。お姉さんに教えてみ?」


 三つ上の彼女は、ぐいっと正面に座っている私の方に身を乗り出してくる。その勢いに負けて、私は口を開いた。


「一昨日、お休みをいただいて宮崎の祖母の家に行ったんです。と言っても、祖母はもう亡くなって、住んでいるのは叔母夫婦ですが。そこでこの間お話しした、“御影の森”に入ったんです」


「ああ、確か昔忍び込んだことがあるって言ってた」


「はい。その森の奥の『月影の庭』という庭園で、夢で見た青年に、実際に会ったんです」


「ええっ!」


 これには彼女も分かりやすく驚いていた。

 先輩の声が響いて、隣の席の人たちがちらちらとこちらを見てくる。彼女は首をすくめて「ごめん」と私に小さく謝った。


「びっくりしちゃって、つい。夢で出会った青年って、あのロマンチックな台詞を言ってた人だよね。確か『きみを待っていた』って」


「そうなんです。実は、現実で出会った彼も同じことを言ってきて。だから私、とうとう頭がおかしくなっちゃったんじゃないかって思って」


 私の語る内容を、花田先輩は「ほえ〜」と呆けたようなまなざしで聞いていた。きっと信じてもらえないだろう。それでも、一人で抱え込んでいるよりは吐き出した方がすっきりとした気分になれた。


「それで、実は別れ際にその人に、その……キ、キスされました」


「はあ!?」


 ガタン、と今度は花田先輩が椅子から立ち上がった。

 隣の席の人だけでなく、少し離れた席に座っている人も、私たちのことをじっと見てきた。


「し、失礼しました〜」


 キョロキョロと首を動かしながらそろりと椅子に座る花田先輩は、さながら役者のようだ。


「びっくりさせないでよ。いきなりキスとか」


「いや、びっくりしたのは私の方なんです」


「それもそうか。でもなんでそんな流れになったのよ」


「それが……『俺が運命の人だって証拠を見せてあげるから』って言われて」


 実際にはちょっと違う台詞だったかもしれない。けれど、もうあの時のことは記憶が混乱していて、正確な台詞は思い出せなかった。


「ちょ、何よそれ! めちゃくちゃ強引っ。ていうかナンパ? ナンパされたんじゃない?」


「ナンパでいきなり『運命の人』だとか言われてキスされること、ありますか?」


 冷静なフリをして花田先輩に問いかけた。彼女も、一瞬考えた後首を横に振る。


「いや、ないわ」


「ですよねー……」


 はっきりと否定されたことで、自分の感覚が間違っていなかったのだと確信する。


「で、その人のことどうするの? てかどう思ってるの? まさかその後、ワンナイトとか……」


「してないですっ! そもそもその人、すぐに——」


 私は、彼が私と会ってから突然すっと消えてしまったことを伝えようとした。けれど、あれは現実離れした出来事だ。「消えた」なんて話したところで信じてもらえそうにない。


「すぐに、どうしたの?」


「いや、用事があるとかで、帰っちゃたんですよ」


 実際にありそうな話の流れをでっち上げて説明した。


「ふうん。襲われなくて良かったじゃない」


「襲われるって……」


「いやいや、普通初対面でいきなりキスなんてされたら、その後何されるか分かったもんじゃないんだからね? 城北、危機管理できてなさすぎ! そして鈍すぎ。その男、絶対やばいやつだからっ」


 花田先輩に言われて初めて気づいた。

 そうか、普通はキスされた時点で、もっと警戒するべきだったんだ。

 だけど私、あの時不覚にも彼にときめいてしまっていた。もし今ここで先輩にそんなことを白状すれば、軽蔑されかねない。彼女の艶やかな唇を見つめながら、「そ、そうですね」と答えるので精一杯だった。


「まさか城北がそんなに警戒心薄い人だとは思ってなかったわ。今の時代、いつどこで犯罪に巻き込まれるか知れたもんじゃないんだから、気をつけないと」


「はい……気をつけます」


 花田先輩の言う通りかもしれない。

 “運命”という言葉に惑わされて、自分でも玲との出会いを綺麗な物語の幕開けのように勝手に捉えていた。でも、そうだよ。普通、いきなりキスなんかされたら、警戒するって。その場で警察に通報したって良いぐらいの案件だ。

 参ったな……。

 私、日々のストレスのせいで、人間として大事な感覚が狂っちゃってるのかも……。


「とにかく城北、今後はその男には要注意だよ。というか、その場所にはもう近づかないほうがいいんじゃない?」


「は、はい。そもそも遠いので、そんなに簡単には行けないですし」


「そっか。なら安心だ。城北も、妄想ばかりしてないで、そろそろ現実見なよ。……って、私が言えたことじゃないんだけどね?」


 三つ年上の彼女はかき上げヘアをさっと後ろへ靡かせて、白い歯を見せて笑った。うちの会社の男性陣なら誰もが一度は憧れる先輩——それが彼女だ。それなのに今、花田先輩には恋人がいない。もしかしたら渡瀬課長との一件が、彼女のガードを固くしているのではないかと思って、ちょっとだけ胸がツンと痛かった。


 現実を見る……か。

 私にとっての現実はたぶん、去年の夏に大好きだった恋人に振られてから、ずっと時間が止まったまま。

 だから祖母の手紙に書かれていたことや、夢で出会った彼の言葉を信じて、『月影の庭』を訪れた。止まった時間を、動かしたいと思ったから。


「大和……」


 花田先輩の前だというのに、遠い過去に置き忘れた元恋人への恋情が蘇る。

 ううん……きっとまだ、置き忘れてさえいない。

 今なお彼のことが、ずっと胸につっかえて忘れられずにいるのだから——。




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