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第13話 始まり

「ねえ、もし城北さん良ければ、今からここ、抜け出さない?」


「へ?」


 彼の口から予想だにしなかった発言が飛び出してくる。

 抜け出す?

 この場を?

 それってつまり、私と秋月くんが本当に二人きりになるってこと?


「いや、その、変な意味じゃないんだ。ただ居心地が悪いなら、無理してずっとこの場にいなくてもいいのかなって思って。『アクト・ソレイユ』のことはもう結構聞けたんじゃない? みんな多分、恋バナとかしょうもない話しかしてないよ、もう」


「しょうもない話って」


 その身も蓋もない物言いに、思わずぷっ笑みが溢れた。

 そっか。そうだよね。無理してここに止まらなくていいんじゃない。


「どう?」


 再び尋ねてきた彼の瞳は緊張で揺れているように見えた。私は、ゆっくりと頷く。


「いいよ。秋月くんと一緒なら」


 自然と溢れ出た本音に、自分自身、一番驚いた。

 彼は白い歯を見せてにっこりと微笑んだ後、「先輩」と近くにいる上級生に声をかけた。


「俺たち、これから用事があるのでこの辺で失礼します。今日は新歓コンパにご招待いただき、ありがとうございました」


 丁寧な挨拶をする秋月くんに、その先輩は一瞬きょとんとした顔で固まったが、すぐに「ああ」と表情を崩した。


「来てくれてありがとう。用事なら仕方ないね。楽しんでくれたなら嬉しいよ」


「はい、ありがとうございます」


 先輩たちにどうやって話を切り出すのかと気になっていた私だったが、彼があまりにもスマートに理由をつけてこの場から出られるように話しているとこを見て、ほっとした。

 大人だな。私にはこんなふうに上手く立ち回ることはできないだろう。


 その場で立ち上がった彼につられて、私も腰を浮かせる。先輩たちにお礼を伝えて、その場を後にした。



「ぷはーっ! 疲れた!」


 ビルから出ると、隣で秋月くんが大きな声を上げた。びっくりして彼の方を見やる。大袈裟なくらいすーはーっと深呼吸をしている姿を見て思わず笑いがこぼれた。


「まるで水中から出てきたみたいだね」


「いや、もう本当、ああいう場って息が詰まるじゃん。城北さんもそう思わない?」


「うん。だから上手く出てこられて良かった。ありがとう」


「こちらこそ。自分一人だったらどうかなって思ってたけど、ちょうど城北さんが帰りたそうな顔をしてたから勇気出して話しかけて正解だったよ」


「……私、そんなに帰りたそうだった?」


「思い詰めて未成年なのにビール飲もうとするぐらいには悲壮感が漂ってた」


「……」


 彼に心中を言い当てられて、ぐうの音も出ない。

 自分との対話を他人に見られていたと知った時ほど恥ずかしいことはないのだ。


「それより、これからどうする? もう帰ってもいいんだけど、時間的にはまだ八時だね」


 秋月くんに聞かれて、スマホの明りをぱっとつける。確かに、時刻は八時二分で、眠らない東京の街で解散するにはまだ早い気がした。

 でも……と、彼の目をじっと見つめる。

 秋月くんと出会ったのは今日が初めてだ。そんな彼とこの後一緒に過ごす……? ううん、そんなの、彼の方が嫌でしょ。第一、私とこれ以上話していたって、楽しくないだろうし。

 頭の中がまたネガティブモードに変わっていく最中、秋月くんが「良かったら」と再び口を開く。


「二人で、どこか行かない?」


「……え」


 驚いて、自分の眉が大きく動くのを感じた。それから、ぴくんと心臓が跳ねる感覚もあった。

 それなのに、彼にそう言われることを期待している自分がいたことにも気づく。

 どっちつかずでダサいな、私。本当は今、めちゃくちゃ嬉しいくせに。保険をかけたんだ。彼が私とこれから一緒に過ごそうとしてくれなかったら傷つくから。私なんかと一緒にいても楽しくないはずだって、自分の中で言い訳をしていた。

 遠回りな思考なんて取っ払って、彼と一緒に夜の街に繰り出しちゃえ——。


「その、嫌だったらいいんだけど」


「嫌じゃない! 行く!」


 反射的にそう答えた。瞬間、彼の瞳がまあるく膨らんでいく。それからすぐに「分かった」と笑顔で頷いた。


「どこに行こうか? この辺はごちゃごちゃしててあんまり好きじゃないな」


「そうだね、ちょっと怖いし。お酒も飲めないしね」


「だね。そうだな……じゃあ、無理して店に入らなくてもいい場所に行かない?」


 抽象的な彼の提案に、私の頭の中は「?」で支配された。

 店に入らなくてもいい場所?

 正直、東京に来たばかりで土地勘が全然ないので彼の提案がイマイチ分からない。が、ふと彼だってこの春に東京に来たばかりだということに気がついた。


「とりあえず、行こう」


 彼に右手を差し出される。驚いて、彼の顔と右手に視線を行ったり来たりさせる。どうしようかと考えあぐねている間も、彼はにこにことした人当たりの良い笑顔を絶やさなかった。だから、と言っては言い訳がましく聞こえるかもしれないけれど、私はおずおずと彼の右手に触れる。

 その時、ふと自分の中に込み上げる特別な感情に気づいた。

 この感じ、懐かしい……でも、どうして?

 初対面の人に抱く感情ではないはずなのに、身に覚えのある手の温もりに、心が和やかに、甘やかに、溶ける。

 恋人でもない異性と手を繋いで、夜の街の中を歩いていく。歌舞伎町を抜けるまで、やっぱりいろんな類の人から声をかけられたけれど、彼と一緒だからどうってことなかった。


 繋がれた手から伝わる、汗ばむほどの温もりを感じるたびに、心臓の鼓動がどんどん大きく膨らんだ。

 私たちの関係は、この夜から始まったんだ。



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