「ねえ、どこに行くの?」
「着いてからのお楽しみ」
夜の街を引き裂くようにずんずんと前に進んでいく彼に、呆気に取られながらついていく。向かっているのが新宿駅だということにすぐに気づいた。
やって来た山手線はこの時間だというのにおしくらまんじゅう状態にならないと乗れなかった。仕事帰りのサラリーマンや私たちのような若者で埋め尽くされている。思えば東京に来て、夜の時間帯に電車に乗ることがほとんどなかったので、新鮮な気分だ。
新宿から山手線で五駅——目黒駅で彼が電車から降りる。もちろん、私も流れるようにして駅に降り立った。
「電車の中も息が詰まるね。こうも混んでると電車移動が嫌になっちゃうな」
「だね」
東京素人感丸出しの感想だけれど、私も秋月くんと同じ気持ちだったから、二人してため息を吐いても心地よかった。
駅から出て、近くのコンビニに寄って、秋月くんがコーラを買った。私は、特に飲みたいものはなかったけれど、彼に倣ってプラスチックのカップに入っているカフェラテを買う。コンビニから出ると、目の前の道をまっすぐに進み、川の方までやって来た。
「これが有名な目黒川か」
「秋月くん、初めて?」
「うん。城北さんは?」
「実は私も」
東京に来てもうすぐ一ヶ月が経とうとしているが、まだあまり東京の街を巡っていない。大学と自宅を行ったり来たりするだけで、慣れない一人暮らしの生活の基盤をつくるのに精一杯になっていた。
だから今日、初めて彼とこうして東京の街並みをじっくりと見ている気がする。
「もう少し早く来れば、桜が見られたかもしれないね」
「うん。桜は来年までお預けだ」
そこで彼が、ペットボトルの蓋を開けて、シュワっという音を立てた。私も、カップにぷすりとストローを刺す。こんなところで並んで飲んでいるのはお酒ではなく、コーラとカフェラテ。変な組み合わせだし、花もないし。だけど、この時間は新歓コンパで緊張していた私の身も心もすっと溶かしてくれた。
「てか城北さんってさ、舞台女優になりたいんだね」
「!?」
突然彼にそう聞かれて、飲んでいたカフェラテを吹き出しそうになった。
「どうしたの、大丈夫?」
「う、うん。なんでそれを知ってるのかなって」
「え、だってさっき、須藤先輩に話してたじゃん」
「聞いてたんだ……なんか、恥ずかしい」
「ごめん。ずっと城北さんのことが気になって、勝手に聞こえてきたというか。あ、でも全然恥ずかしいことじゃないと思う。むしろ、夢語ってるとこ見て、格好良いなって思った」
彼の、飾らない素直な言葉が、私の胸にすとんと落ちていく。ちょっと視線を逸らして道路の方を見れば、多くの人で行き交う街の風景に、のみこまれそうになるのに。目黒川を眺めながらこうして話していると、この夜の街にたった二人で溶けていくような気がした。
「ありがとう。そんなふうに言ってくれる人に会ったの、初めてだよ」
「そう? 誰だって夢を持ってる人は輝いて見えると思うけどなあ」
「秋月くんの感受性が豊かなんだよ、きっと」
感受性か、と彼が吐息と共に呟く。「確かにそうかも。俺、こう見えて繊細だから」と真顔で語るのを見て、思わず吹き出した。自分で繊細とか言うの、面白いな。私が笑うのが不服だったのか、彼は「俺だっていつもあんなふうに先輩たちの前で堂々とその場を抜けられるわけじゃないんだよ」とムッとして話した。
「じゃあどうして今日は抜け出せたの?」
「それは、城北さんと一緒だったから」
予想外の言葉が返ってきて面食らう。
視線を合わせるのが恥ずかしくなって、じっと顔を川の方に固定して黒く光る水の流れを見ていた。
「秋月くんは、どうして『アクト・ソレイユ』の新歓に来たの。たまたま?」
「俺? 俺は、うーん、そうだな。自分じゃない誰かになってみたいって思ってるからかも」
「自分じゃない誰か……?」
意味深なことを口にする彼を不思議に思って首を傾げた。
「そう。自分でもあんまり上手く表現できないんだけどさ、人の性格って子供の頃に大体決まっちゃうだろ? でも、本当はもっと明るくなりたいとか、積極的になりたいとか、考えることない? 俺はたぶん、そういう気持ちが人一倍強くて、だったらお芝居でもして違う自分を演じてみたいなって思った。なんか変な理由だって思われるかもだけど」
「そうなんだ。なるほど……」
秋月くんの言わんとしていることは、なんとなく理解することができた。
私も、控えめでついネガティブなことを考えてしまう自分の性格に嫌気がさすことがある。そんな時、もっと細かいことに気にしないタイプだったらいいのに、クラスのムードメーカーのあの子みたいに、明るい人間になれたらいいのに、と思う。私が舞台女優になりたいのだって、彼と同じ理由なのかもしれない。今まで上手く言語化することができなかったけれど、結局は私も、自分じゃない別の誰かに、なってみたかったのかも。
彼の言葉をゆっくりと噛み砕きながら、穏やかに流れていく川の水を眺める。街灯の光が反射して、ところどころきらりと輝いて見える。黒く塗りつぶされてブラックボックス状態になっていた自分の心の一部が照らされて、彼の前で曝け出されているようだった。
「腑に落ちた?」
「うん。私も、似たようなことを考えてたかもって、思った」
「そっか。それなら俺たち気が合うね。これからよろしく」
コツン、と差し出されたペットボトルにカフェラテのカップをぶつける。二人だけの初めての乾杯は、目黒川の前にして、確かな煌めきに包まれる。
気がつけば、もっと彼のことを知りたいと思っている自分がいた。
同じサークルに入って、同じ時を過ごしてみたい。
初めての感情に、自分でも戸惑いを隠せなかった。けれど、嫌な感じはまったくなくて、むしろこの胸のときめきを、じっと感じていたいような心地がした。
これが、初めて元恋人である秋月大和に出会った頃の話だ。