二〇二五年十月、満月の夜に『月影の庭』で不思議な青年、影山玲に出会ってから、私の頭の中はどこかふわふわとした夢の中にいるような気分になっていた。
花田先輩には危険だからもう『月影の庭』には近づかない方が良いと忠告されけど……。
彼と会ってから、月の引力に引き寄せられるように、心が『月影の庭』にもう一度行きたいと叫んでいるのを感じていた。
自分ではどうしようもない、抗いようのない力で。
「城北、昨日の資料、誤字が二つもあったぞ。おかげで客の前で大恥かいちまったじゃねえか。どうしてくれんだよ!」
十月二十日、月曜日の今日も渡瀬課長は顔を真っ赤にして血管を浮き上がらせている。彼が私に突き出して来た紙は、「当日イベントスケジュール」と、得意先のイベントの予定が書かれたものだ。私が二日前に作成して、渡瀬課長が今日、得意先でこの紙を渡したはずだ。視線を這わせると、確かに赤で×が付けられている箇所が二つ。けれど、どちらも些細なミスで、ここまで怒られるほどのことだろうか? 私が悪いのは間違いないが、きっと先方も、誤字に気づいてちょっと指摘してきただけだろう。
「すみません、正しく打ち直します」
「早くしろ。二度と間違えるなっ」
二度と誤字をしないというのは、かなり難しい指示だ。誰だって小さなミスぐらい起こしうる。でも、そんな言い逃れをしたところで、火に油を注ぐだけなのは分かっていた。
渡瀬課長に怒鳴られながら資料を修正している間、頭の中に浮かぶのはやっぱりあの不思議な青年の顔だった。それから、どういうわけか、元恋人の大和の顔も出てくる。二人は全然違うはずなのに、ぐるりぐるりと、回転しながら交互に現れた。
「できました」
コピー機で修正した資料を出した。渡瀬課長は、私が差し出した新しい資料を勢いよくひっ掴む。ぐしゃっと紙の端が歪む。汚くなった資料を、得意先に渡すのだろうか。そっちの方が、誤字よりもずっと不快なのではないか、とツッコミたくなったが、さすがに何も言えずにぐっと堪えた。
その日も一日、仕事を終える頃にはどっと疲れていた。
あと何回、こんな一日が続いていくんだろう。
ベッドの上で悶々と考える。現実逃避がしたい。転職でもする? いや、今はそんな気力もない。仕事をしながら転職活動なんて、みんなよくやるよね。精神的に余裕がなければ、とてもじゃないが面接など受けに行けそうにない。それに、企業の採用面接なんて、平日の昼間にあるだろうし。その度に有給を使わなくちゃいけないのなら、ただでさえ有給を使いづらいうちでは不利だ。
「現実逃避……」
頭に浮かんだことをそっと呟く。ベッドから降りて、壁に掛けてあるカレンダーをめくる。それから、スマホで「満月カレンダー」を調べた。
次の満月の日は、十一月五日水曜日。
また、平日だ。前回、有給をとって宮崎に行った時は、『月影の庭』で玲と別れてからまた飛行機に乗って東京まで蜻蛉返りした。頑張れば一日だけの休みでも行って帰ってくることができるのだ。ごくり、と生唾をのみこむ。
もう一度、あの人に会いたい。
花田先輩に言ったら「やめておけ」と怒られるだろう。でも、心がもう、あの場所に行きたくてうずうずしているのだ。自分の意思では、抑えられないくらい。それに、有給なんて意識して使わなければ溜まっていって、そのうち失うだけだ。他に使い所もないし、目的のために使うなら悪くない。
誰もいない部屋で一人、今後の計画を立てる。
もしまた彼に会って、その後もう一度会いたいと思ったら。
満月の夜は、月に一度だ。月に一度、有給申請をすればいいだけの話。それに、土日に満月の日がかかることもあるだろう。そうなればその月は有給を使わなくて済むのだし。
現実の問題と、『月影の庭』というどこか幻想めいた世界でのひとときのことを交互に考えて、次第に決意が固まっていく。
影山玲。
もう一度あなたに、会いにいく。
無事に有給申請をして、来る十一月五日。
私は午前中の便の飛行機に乗り込み、宮崎に飛んだ。今回も休みを取るのに多少苦労したものの、前回花田先輩が渡瀬課長を嗜めてくれたおかげで、渡瀬課長からは何もお咎めはなかった。代わりに、花田先輩から「また例の場所に行くの?」と訝しげに問われて、ドギマギしたけれど。「親戚の結婚式で」となんとか嘘をついた。嘘をつく必要もないと思ったけれど、なんだかお世話になっている先輩の言うことを聞かないわがままな後輩みたいで嫌だったから。
昼間は特別な予定もないので、宮崎市内をぶらぶらと歩いて暇を潰した。昔、親と一緒に帰省していた頃も、暇な日にはこうして市内に出て遊んでいたから、街の風景がどこか懐かしかった。東京ほど大きくはないけれど、オフィスビルやマンション、お店の建物がずらりと並んでいて、祖母の家の付近に比べるとかなり都会だ。ネットで調べた人気のカフェでくつろいでいると、時間の流れがゆっくりと感じられて癒された。
宮崎といえば海! のイメージがあったので、市内で有名な観光地である
電車に乗り、「青島駅」で降り立つと、むくむくと向かってくる潮の香りに、遠くへ来たという実感が湧いた。東京ではなかなか嗅ぐことができない匂いだ。地元福岡にいた時も、わざわざ海に行くことがあまりなかったので、新鮮な感覚に胸が躍った。
そのまま徒歩で青島の方まで向かう。青島は周囲1.5kmほどの小さな島で、島そのものがパワースポットになっていると有名らしい。
歩いて渡れる橋を進むと、駅からわずか十分ぐらいで島までたどり着いた。
島を囲む岩はごつごつとした
南国の雰囲気に浸りながら島の端っこまで歩き、海を眺める。
耳に心地よい波の音を聞いていると、東京での自分の生活はさらに遠くへと流されていくような感覚に陥った。今、この瞬間に海を眺めている自分が本当の自分で、会社で上司に怒られている私は、嘘っぱちなんだ。そう思えるから不思議だった。
その場所で、何時間過ごしただろう。
気がつけば夕暮れ時になっていて、空がだんだんと橙色に染まり始めていた。茜色に変わっていく空を見ながら、ようやく青島から退散しようという気になる。時の流れがゆっくり感じられるこの島に、またいつか来てみようと思えた。