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第17話 壊れそうなほど

「月凪はどうしてまた来てくれたんだ?」


 月明かりの下で、どこか妖艶さを孕んだ玲の声が耳に響く。どうして。どうして私はまたここに来たんだろう。花田先輩からは危険だからやめておけって言われたのにどうして。そんなの、あえて胸に問わなくても分かりきっている。


「心が……吸い寄せられたんです」


 玲に対して、歯の浮くような台詞をさらりと吐いて恥ずかしい、だなんて思っている場合ではなかった。自分だって、普段なら——現実の、サラリーマンの私の私なら絶対に言わないような言葉が口から溢れていた。


「へえ、粋なことを言ってくれるじゃないか」


 玲の息遣いが近づく。また一歩、私の肌に触れるぐらいの距離に急接近してくる彼。少し離れようと思ったけれど、無理だった。玲の手が私の頭に触れたから。


「嬉しいよ。俺は、月凪のことしか見えていない」


 きっとこれが、東京のネオンサインに囲まれた街中での出来事なら、「なんて薄っぺらい言葉だ」と呆れていただろう。

 けれど今、仄かに私たちのことを照らす月明かりのもとで、この場所の守護者だという不思議な存在の彼に耳元で囁かれると、胸が高鳴らないはずがなかった。理性ではなく直感で。脳内で危険信号が鳴り響いているにも関わらず、気持ちはどんどん彼の方に傾いている。もし彼が犯罪者だったら、一発でやられてしまう。分かっているのに、やっぱり心は自分で制御できなかった。


 玲は、私の頭に置いた手をゆっくりと動かす。それだけでもう、気がどうにかなりそうだった。 

 大和も、こんなふうによく頭を撫でてくれたな……。

 元恋人の笑顔を思い出しながら、一人感傷に浸る。

 私、好きだったんだ。大和から、頭を撫でられたり、抱きしめられたりするのが。大きくて温かな存在に包まれると安心感を覚えた。彼が、自分のそばからいなくなって一年以上が経つ。久しぶりに、こうして頭を撫でられながら耳元で甘い言葉を囁かれて、絆されるなという方が無理な話だ。

 無理だよ。

 花田先輩、すみません。

 私、馬鹿だから。

 先輩の忠告も聞かずに、今この瞬間、この男に寄りかかりたいと思ってしまっています。

 だってこの人……大和と、同じ香りがするから。

 艶やかな花の上品な香り——『月影の庭』に導かれて初めて出会った時から変わらないその匂いが、私に元恋人の幻影を見せてくれる。玲と大和は全然違うのに。見た目も、口調も、性格も。玲と会うのはまだ二回目だが、大和とは違うということは火を見るより明らかだ。大和はもっと——そう、口調も穏やかで言葉の端々に優しさが滲み出るような喋り方をする。対して玲は、思ったことをそのまま口にするタイプなのか、直球ストレートに言葉をぶつけてくる。正反対の二人であるはずなのに、どうしてこうまで心が吸い寄せられていくのだろう。甘い香りを放つ美しい花に、軽やかに羽を広げて飛んでいく蝶のように、心が勝手に、玲の元へと飛び立っていくみたいだった。


 ふわりと、身体が大きなものに包まれる感覚がした。「えっ」と声を上げる間もなく、玲が私を抱きしめていることに気づいた。本当なら、すぐにでも彼を両手で押しやって離れるのに。できなかった。彼を拒絶したいと思う気持ちが一切生まれなかったから。


「もっと……もっと、ぎゅってしてください」


「こうか?」


 びっくりするぐらい甘えた声が出てしまって恥ずかしいのに、玲は私の要望を瞬時に聞いてくれた。だから、羞恥心よりも大きな安堵に包まれて、心臓がトクッ、トク、と乱れるように脈打った。甘い香りが鼻を掠める。彼の体温に包まれて、大きな海の中を揺蕩うような心地の良さを覚えた。

 今この瞬間の私を、誰かに——特に、職場の人間に見られでもしたら、たまったもんじゃない。

 それでも、一度抱きしめられた後にやってくる甘やかな感情に逆らうことなんてできなくて、そのまましばらくの間、彼の腕の中から離れることができなかった。


「ずっと、こうしててほしいな」


 人間というのはわがままなものだ。一度受け入れてしまえば、何かのタガがはずれたみたいに、「足りない」と余計に求めてしまうのだから。


「月凪は、こうされるのが好きなんだな」


 私の要求に応えるように、玲が私を抱きしめる腕に力を込める。よりきつく、熱い抱擁に、日常生活で緊張し切って固くなっていた身体がゆるく溶けていくような心地がした。脱力して、そのまま彼に身を任せる。すると、何を思ったのか、彼は私の身体をひょいっと寝かせて持ち上げた。


「わっ!? ちょ、何を……!」


「こういうのも好きだろう、お嬢様・・・


 私をお姫様抱っこした玲が、間近でくつくつと笑う。ち、近い……! 

というか、それどころじゃない! 

お姫様抱っこなんて、人生で一度もされたことがない——いや、一度だけあったか。大学時代、演劇サークルの劇内で、主人公を演じていた大和に、ヒロインを演じていた私が、お姫様抱っこをされた記憶が蘇る。何度か練習をして、本番は頬を赤ながら、堂々と私を持ち上げた彼の凛とした顔を思い出す。でもあれは演技だったし、現実でこうされたのはやっぱり初めてだ。


「揶揄わないで、ください」


「ん、揶揄ってないよ。こうされて嬉しくないのか?」


 耳元で囁かれて、耳まで熱が上昇していくのが分かった。


「う、嬉しい……です」


「なら良かった」


 自分の心には嘘がつけない。初めは警戒心を解かないようにと気を付けていたのに、まんまと彼の術中にはまっている気がする。それでも、嫌な気はしない。彼からは悪人のオーラが一切感じられないし、こんなふうに私のツボを押さえて接してくるところに、やっぱり運命めいた繋がりのようなものを感じていた。


 私の回答に満足したのか、玲はふっと微笑むと、私を抱っこしたまま、庭園の椅子に腰掛けた。一つだけ設置された木製の椅子は、とこどころ傷んでいて壊れそうだ。ずっと放置されていたのが窺える。それでも玲は気にせず、ふーっと息を吐いた。


「月凪は、俺のことどう思う?」


 直球ストレートな質問に、心臓がドキリと跳ねる。ただでさえお姫様抱っこをされて胸がはち切れそうになっているのに、これ以上刺激を与えないでほしい……!


「どうって……怪しい人だと、思ってました」


「失礼だな。でもまあ、仕方ないか。で、過去形なのはなんで?」


「話していくうちに、自然体になれてる自分がいて。そういう相手とは、上手くやれる気がするんです。だから怪しい人ではないかなって、思い直しました」


「そうか。そりゃ光栄だ」


 大人の色気を帯びた妖艶な声で返事をした。トクントクンと未だ大きくなり続ける鼓動を感じながら、月の光に照らされる彼の顔を下から眺める。顎がきゅっと細くて、フェイスラインも美しい。このアングルでも綺麗だと分かる顔立ちをしているなんてずるい。私にも少し分けてほしいくらいだ。


「玲は、私のこと、どう思ってるんですか?」


「その敬語やめないか?」


「へ? 敬語、ですか」


「うん。なんかよそよそしいし。俺は月凪と対等に話したい」


「……わ、分かった」


 じっと私を見つめる双眸は真剣な想いが滲んでいて、思わず頷いてしまった。


「ありがとう。……で、月凪のことをどう思ってるかって? そりゃ、前にも話した通り、運命の人だと思っているのだが」


 思い出すと恥ずかしいことを臆面もなく言えるところが、やっぱり彼らしくてちょっと吹き出した。


「なんだか玲ってロマンチストだね」


「は? 実際運命なんだから仕方ないだろ」


「ふふ、そうやって信じてるところが可愛い。見かけによらず純粋なところも」


「おいおい……月凪、俺のことを揶揄ってるな?」


「揶揄ってないよー」


 さっき自分が言われた言葉をそっくりそのままお返しする。ずっと玲の会話のペースに乗せられていたが、こちらが主導権を握った途端、自分のペースを取り乱す玲が、人間らしくてほっとしていた。


「こうして話してると、昔を思い出すな」


「昔?」


 遠い目をしながら、私ではない、どこか別の世界で出会った人に想いを馳せているような玲は、憂いの滲む表情を浮かべていた。


「ああ。昔——遠い昔だ。彼女・・と話していると、荒んでいた俺の心が落ち着いていくんだ。魔法にかかったみたいに、楽しい時間だった」


「彼女……」


 それは、誰? とはもちろん聞けなかった。 

 昔の恋人かもしれない。私だって、未だに大和のことを思い出して感傷に浸ることがある。玲にだってあるだろう。けれど、彼が「彼女」と呟いた時、胸にチクチクと針で刺されたような痛みが走ったのは事実だ。


「すまない、月凪に話すことじゃなかったな。忘れよう」


 楽しい夢から覚めたときの切なさを孕んだ顔つきになった玲は、その後すぐに私を見てにっこりと微笑んだ。


「今はこうして月凪と会えたから、久しぶりに心躍っているよ」


 鳴り止まない心臓の音と、どんどん熱くなる身体に、脳があれこれと考えることをぴたりと止めた。ただ、嬉しい。頭ではなく心が叫んでいる。このままこの人と、ずっと一緒にいたい。まだ二回しか会っていない相手に、こんなふうに無防備に、心を溶かしてしまうなんて、きっと私はおかしいのだ。

 今この瞬間に、壊れそうなほど影山玲という人間に陶酔していく自分が怖くもあり、でもやっぱり嬉しかった。



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