ぱちり、と目を開けると、そこは川のせせらぎが聞こえる夜の街だった。目黒川だ。最後に思い浮かべた場所にやってきたのだと瞬時に理解した。
「実態がある……」
信じられない。ぺたぺたと自分の身体に触れてみると、ちゃんと現実と同じようにこの場に存在していることが分かる。息を吸って吐くと、冬のしんしんと冷えた空気が肺いっぱいに流れ込んできた。都会のそれは決して新鮮とは言えないけれど、普段の日常よりは上手く息を吸えた気がする。
ふと隣を見ると、玲が佇んでいた。袴姿で、あの『月影の庭』からそのまま飛び出してきた彼は、東京の街には一ミリも馴染んでいない。彼の周りだけがぽっかりと浮いているような感覚に陥る。道ゆく人が私たちの方をちらりと二度見する。どうやら他人にもちゃんと私たちの姿が見えているらしい。コスプレをしている人だと思われていそうだ。東京の街にはいろんな人がいるから、袴姿の人間を見ただけであからさまにびっくりするような人はいないだろうけれど、ちょっとばかり恥ずかしかった。
「ここはどこだ?」
「東京の、目黒川だよ」
地名を伝えても、彼にはぴんときていない様子だった。ただ目の前を流れる川にすっと視線を移している。東京や目黒川は知らなくても、川には馴染みがあるのか、何かを深く考え込むような顔をして水面を見ていた。その横顔が、いつかの大和と重なる。彼と『アクト・ソレイユ』の新歓を抜け出して二人でこの場所に並んで語らい合った日を思い出し、胸がぼっとほのかに燃えた。
「ねえ玲、この“夢想”では夢を見てるだけなんだよね? 今、夜だけどいつも夜にしか行けないの?」
夜に行くという日本語が正しいのかどうかはさておき、純粋に気になったことを聞いた。
「いや、そんなことはない。別に昼の世界にも行けるよ。ただ月凪が思い浮かべた風景に飛び込んだだけだ。月凪は、この場所で夜の光景を思い浮かべたんだろう」
なるほど、そういうことか。
私が、大和と初めて出会った日は夜だったから。二人で目黒川のそばで並んでコーラとカフェラテを飲んだ記憶が元になっているせいで、“夢想”でも夜の街に飛び出すことになったのだ。
「じゃあ明るい時間を想像すれば、朝にでも昼にでも行けるわけね」
「そうだ。ただ、一つ覚えておいてほしい。この力はかなり気力を使うから、そう何度も使えるものではない。一度の満月の夜に、そうだな……おそらく、三回ぐらいが限度だ。だから“夢想”をするときには、ちゃんと行きたいところをじっくり考えてほしい」
「なるほど。分かったわ」
この先彼とそう何度も“夢想デート”をするかどうかは分からないのだけれど、ここは素直に頷いておいた。
「それにしても、すごい光景だな」
「すごい? 何が?」
「川の周りに大きな建物が並んでいる」
物珍しそうに周囲を見回して驚いている様子の玲に、思わずぷっと笑みがこぼれる。
「別に、珍しくも何ともないじゃない。ここは東京なんだし。確かに、他の地域と比べたら高い建物が多いけど、都会ってこんなもんじゃない?」
東京の街は、私が暮らしていた福岡の街よりずいぶん建物も高く、密集しているという感じがある。土地が狭くて人口が多いから仕方ない。玲の反応は、田舎から都会に出てきた若者のそれだった。
「いや、こんな光景初めて見たぞ。あの建物はなんだ?」
あの、と言いながらいろんな建物を指差すものだから、なんと答えれば良いか迷った。けれど、玲が特定の建物ではなく、建物全般を指差していることが分かり、不思議な気分で彼を眺める。
「何って、大抵はマンションじゃない? この辺に詳しくないから何とも言えないけど、マンションっぽい。あとはコンビニとか飲食店、オフィスビルとかもあるかも」
「マンション、コンビニ、オフィスビル……?」
異国の地から来た外国人のような片言の感じで復唱してみせる玲。
そんな彼の反応を見てようやく気づいた。彼は、あの『月影の庭』以外の風景を知らないのかもしれない。思い返せば、『月影の庭』に魂を縛られている守護者だと言っていたし、東京の街並みを見て不思議に思うのも無理はないか。
玲が、生まれたての赤ちゃんみたいに、『月影の庭』以外何も知らないと思うと、新鮮な気持ちにさせられた。色々と教える甲斐がある。楽しくなってつい、「この木は桜の木でね、春になるとすごく綺麗なの」と目黒川沿いの桜の木を指差して教えた。
「ああ、さすがに桜は知ってるぞ。古くから日本人の心を鷲掴みにしてきた花だからな」
「そ、そっか。そうだよね」
失敬、失敬。でも彼が、歴とした日本人であることは分かってどこかほっとする。日本人でなければどこの国の人だと思ったか、聞かれると答えられないけれど。彼の見た目からして、遠い異国の地から来た男だと言われても違和感はない。
「春は、桜を見に来る観光客で溢れるの。私も初めて見た時はびっくりしたなあ。こんな都会の真ん中にも、桜は変わらず咲き乱れるんだって分かって」
都会だからと言って花が咲かないわけがないはずなのに、初めて目黒川の桜を見た時には感動した記憶がある。
それから、桜の次に思い浮かぶ大和の顔。コーラを手にして、私に微笑みかける彼を思い出して、胸に数ミリの針で突かれたような痛みが走る。
「どうした、月凪?」
気がつけば、玲の顔が間近にあった。わわっと、驚いて反射的に身を離す。
「泣いているが、何か悲しいことでもあったのか?」
「え?」
彼に言われてはたと気づいた。頬を、一筋の涙が伝っていることに。感傷的な気分になっているつもりはなかったのに、どうしてこんなにもあっさりと……。
「ごめんなさい。ちょっと、昔を思い出して」
「そうか。大丈夫か」
玲がそっと私の頬を袖で拭う。ドキンと心臓が跳ねて、恥ずかしさに顔から火が出そうだった。あまりにもスマートな仕草に、ときめかない方がおかしい。
「だ、大丈夫……! ありがとう」
「悲しい思い出なのか?」
玲が私の耳の真横でそっと問いかける。悲しい思い出、と聞かれてずきんと胸が疼いた。
「ううん。思い出自体、悲しいわけじゃないよ。むしろ、とっても楽しかった。彼と——大和と、初めて会った日のデート。デートって言っていいのか分かんないんだけど、とにかく意気投合して、この人となら、打ち解けられるって思って……」
詳しく話すつもりなんてなかったのに、気がつけば口が勝手にぺらぺらと大和のことを話していた。
玲の細やかな息遣いが耳に降りかかる。お互いの心音が聞こえそうなぐらい近い。玲の前で大和の名前を口にしたのは初めてだ。玲は最初、目を大きく丸く膨らませたけれど、途中でふっとその目を優しく細めた。
「月凪の、大切な人だったんだな」
ドクドクドクドク……心音は余計に大きく、私の身体の内側から突き上げるように響く。
大切な人だった。この世で一番。彼を愛していた。
失ってから今もずっと、彼のことが好きでたまらないのだ。
桜の咲いていない目黒川のほとりで、大和への気持ちを思い知って、泣いた。玲がせっかく拭ってくれたのに、涙の跡を沿うようにして、新しい雫がすべり落ちる。泣き続ける私を、玲はただ黙って見つめていた。