赤レンガ倉庫で昼食を食べ終えた私たちは、もう一回りほど倉庫の中をぷらぷらと歩いた。お昼を過ぎると午前中よりももっと人が増えて、前に進むのもちょっと苦労した。
例によって彼が私の手を握り、はぐれないようにして歩く。
手を繋ぐのはやっぱり恥ずかしくて、でも嬉しさもあり、真っ赤になった顔を彼に見られないように必死だった。
赤レンガ倉庫を一通り見終えると、時刻は午後二時を回っていた。
外では韓国アイドルのイベントが佳境にはいっているようで、ファンたちの熱い声援が轟く。ステージで歌って踊っているアイドルたちを、私は詳しく知らないけれど、世界が一体化したかのような心地がしてなんだか楽しかった。
「この辺はちょっと落ち着かないね」
秋月くんはライブの雰囲気が苦手なのか、こめかみをぽりぽりと掻いて周囲をぐるりと見渡していた。
「場所、移動しよっか」
「そうだね。えっと、ここからだと山下公園とか近いけど、どう?」
「いいね。一回行ってみたかったんだ」
知る人ぞ知る横浜の観光名所、山下公園へは徒歩十分ほどで着くらしい。海を眺めながら歩けそうだし、心地良いだろう。
そうと決まれば早速山下公園に向かって歩き始めた。
ライブ会場の音は少しずつ遠のいていき、やがて自然の風景に溶けて消こえなくなった。潮風が程よく吹いて、私と秋月くんの髪を揺らす。道は広々としていて開放感に満ち溢れている。もう手を繋ぐ必要もないのに、二人とも頑なに離そうとしない。私は、手を繋いでいることなど忘れたふりをして、しっかりと彼の横を並んで歩いた。
秋月くんは、出会った頃から変わらず、花のような芳しい香りがする。
柔軟剤の匂いなのかもしれないけれど、この匂いを嗅ぐと、ふっと彼が隣にいることを改めて思い知らせてくれる。他のサークルの仲間たちは気づいているだろうか。私だけが知っている香りだったら嬉しいな、なんて思ってしまう。
「着いたよ」
美しい港の風景と、彼の隣にいる心地よさを感じつつ歩いていると、すぐに開けた公園が目の前に現れた。
「おお、これが噂の山下公園か。都会のオアシスって感じだね」
「ここ、修学旅行の時も来たけど、大人になってから来ると違った光景に見えるな。心が和むというか、落ち着くというか」
「心がおじさんになっちゃったんだね」
「こら、まだ二十歳だぞ?」
思い切って彼をからかうと、むっとした顔でそう返された。それでも、秋月くんの顔は頬が緩み、私との会話を楽しんでくれているような気がして嬉しかった。
山下公園には庭園があり、季節の花たちが綺麗に並んで咲いていた。子供連れの親子や若いカップル、ご老人夫婦が花を眺めては楽しそうに笑っている。みんなが笑顔になれる場所って素敵だな。
「花ってさ、いいよね」
不意に秋月くんが呟く。その声には、単なる日常会話の軽快さよりも、憧れとか羨望のようなまぶしさが感じられた。
「ただそこに咲いているだけで、みんなに愛でてもらえるでしょ。存在自体がもう尊いっていうか。蜜を吸ってくれる虫だっているし、花を見て気を悪くする生き物はいないよね」
「ふふ、確かに」
「花を見て気を悪くする生き物はいない」という台詞がなんだかおかしくて、笑みが溢れた。彼のこういう感性が好きで、一緒にいて飽きない。秋月くんは、クラスを盛り上げるムードメーカー的な存在ではなく、それこそ傍に咲く花のような人だ。彼と一緒にいて気を悪くする人間はいない。少なくとも、私の知っている範囲ではそうだ。
「来世は花にでもなってみる?」
「来世を選べるならね」
綻んだ唇の隙間から、規則正しく並んだ白い歯が顔を覗かせる。すっきりとした彼の横顔は、私だけが知っている特別な彼——だと思いたい。
「そういえば、聞いたことなかったんだけど、秋月くんはどうして演劇やろうって思ったの?」
ふと気になっていたことを聞いた。同じ演劇サークルに所属しているけれど、彼が演劇をしている理由は聞いたことがなかった。私が舞台女優になりたという夢を抱いていることは、彼と初めて会った日に知られてしまったというのに。
「うーん、そうだなあ」
遠い目をしながら彼は海の方を眺めた。汽笛のボーウという音が遠くで聞こえる。
「“幸せ”が何か、探したかったからかな」
「幸せが何か……」
意味深なことをこぼした彼の双眸は遠くを見つめる。彼の心も、今この瞬間は遠くの——例えば、とっくに過ぎ去ってしまった過去やこれから訪れる莫大な未来を見つめているように感じた。
「そう。演劇っていろんな人を演じるじゃん。楽しい話もあれば、悲しい話もある。でも、自分以外の別の誰かの人生を垣間見ることができる。他人になりきって演じるうちに、いろんな幸せのかたちが見えてくるんじゃないかって、思って。いや、これは俺の“期待”かな」
人生にはきっと幸せなことが訪れるんだっていう期待。
彼がそっと口にした答えを、心の中で反芻する。
私は、秋月くんが大学に入学するまで、どんな場所で生きて、誰と出会い、何を思って生きてきたのか全然知らない。京都出身だということぐらいしか。だから、「人生には幸せなことが訪れることを期待したい」とうい彼の想いがどれほど切実なものか、推しはかることしかできない。彼の神妙な面持ちを見ていると、少なくともそれが彼の生きる意味の一つになっていることは明らかだった。
「そんなふうに考えてたんだね。知らなかった」
「誰にも話したことがないからね。城北さんが初めてだよ」
「そっか。初めて話してくれて、ありがとうね」
誰にも話したことがなかったということは、彼の中ではとても大切な想いだったんだろ。そんな心中を私に打ち明けてくれたことが嬉しく、胸にぽっと温かな灯火がついた。
「城北さんは舞台女優になりたいんだよね。大きな夢があって羨ましい」
「そんなことないよ。私はただ、自己主張とか苦手でこれまで損することが多い人生だったから。自分じゃない誰かになりたいなって思ってるだけ。どっちかっていうと後ろ向きな理由だと思う」
「夢を持つのに後ろ向きなはずがないよ。納得のいかない自分を変えようとしてるっていうことだから、俺は素敵だと思う」
彼に、素敵だなんて言われて、ドクンと心臓が大きく跳ねる。男性に——しかも、気になっているその人に言われるのは初めてで、照れ臭い。だけどやっぱり嬉しくて、自然と頬が緩んだ。
「どうかした?」
「う、ううん、なんでもない!」
慌てて首を横に振って、また一歩前へと歩き出す。彼がタタッと駆け寄って、私の右手をそっと握った。
今日は何度も彼とこうして手を繋いで、本当に恋人同士になったみたいだ……。
ちらりと横目で秋月くんの顔を見る。爽やかなまなざしはいつもと変わらないのに、伝わる体温はいつも以上に熱くて、身体の深部まで燃え上がりそうだった。