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第29話 一生忘れられない日

 それからの時間も、秋月くんと横浜の街を練り歩き、サークルでの人間関係や大学の講義の話なんかをして盛り上がった。赤レンガ倉庫でのデートだったはずが、結局、王道横浜デートに変わっていた。カップヌードルミュージアムでオリジナルラーメンを作ったり、エアキャビンに乗ってみたり。移り変わる景色はどこもまぶしくて、海とビルと人々の往来を眺めながら、彼と二人で素敵な街を巡っているという実感が持てた。


 夜ご飯は海が見えるレストランでイタリアンコース料理を食べた。

 スパークリングワインで乾杯をすると、自分たちが一気に大人の世界に足を踏み入れたような気がしてこそばゆい。初めて飲んだスパークリングワインの味は思ったよりも渋みがなくて、爽やかだった。上品な炭酸が口の中で弾けて喉を潤した。


 たっぷり二時間ほど食事を楽しんで外へと出ると、昼間とは違ってひんやりとした風が身体に吹きつけてきた。気温差に思わず身震いする。


「大丈夫? よかったらこれ着て」


「えっ、でもそんなことしたら秋月くんが寒いよ」


「俺は大丈夫。平熱高いし」


「そういう問題?」


「そういう問題」


 秋月くんが、自分が羽織っていた黒のジャケットささっと脱ぎ、私の肩にかけてくれた。


「あ、ありがとう……」


「どういたしまして」


 白いTシャツだけになった彼は見ているだけで寒そうなのだが、せっかくの厚意を無駄にするわけにはいかない。彼のジャケットの袖に腕を通すと、あの清潔な花の香りがふわりと舞った。ジャケットに残る彼のぬくもりに包まれて、身体どころか心までぽっと灯火が灯ったようだ。


「暗くなったことだし、万国橋に行こうか」


「う、うん」


 そういえば、と今日のデートの始まりを思い出す。

 赤レンガ倉庫へと続く万国橋の夜景が綺麗そうだからと、今日は夜まで一緒にいられることになったんだ。

 お店から万国橋へは徒歩十分程度だった。夜の横浜は昼間とはまた違う趣がある。海は暗く、どこから流れてきたのか分からない葉っぱが揺蕩う様子を観察していると、なんだか飲み込まれてしまいそう。だけど、街明かりが反射する水面はキラキラッとところどころ煌めいて美しかった。


「着いたよ」


「わ、すごい」


 昼間も一度渡っているのに、夜に歩く万国橋はまるで異世界のようだった。

 橋の真ん中まで進み、立ち止まる。遠くに見える大きなビルの影が水面に浮かんでいる。その隣にある観覧車は色とりどりのネオンに輝く。街全体がイルミネーションで包まれているかのようで、目に映るものすべてがあまりにも綺麗すぎた。


 しばらく二人でぼうっと海と夜景を眺めていた。私たちの他にも、橋の途中で立ち止まる人はたくさんいて、皆各々にスマホで写真を撮ったり景色を見て歓声を上げたりして楽しんでいた。


「今日は楽しかったね。一日一緒に過ごしてくれてありがとう」


 ふとやわらかな声が降り注ぐ。海を見つめている彼の瞳にいくつもの光が差している。揺れるまなざしをじっと見つめては、改めて、今日横浜に彼と二人で来ていることを不思議に思った。


「こちらこそ、長い時間ありがとう。とても楽しかった」


 そうだ。楽しかった。純粋に、彼の隣を歩くのは心地が良くて、繋いだ手から伝わるぬくもりも名残惜しい。もっと、彼を感じていたい。自分の中に自然と芽生えた感情にどきりと胸が鳴った。

 彼は今、どんな気持ちなんだろう。


「それでさ」


 私の心の中を読み取ったかのようなタイミングで、海を眺めていた彼がくるりと私の方に向き直った。反射的にぴくんと肩が揺れる。


「もし城北さんが良ければ、だけど。この先も、ずっと一緒にいてくれないかな」


 爽やかな告白だった。聞く人が聞けば、告白だとは分からなかったかもしれない。けれど、普段は相手の目をまっすぐに見つめて話す彼が、照れたように瞳を伏せているのを見て、彼の気持ちが自分に向いていると確信した。


 私が、なんて返そうかと迷っているのを見かねたのか、彼はもう一度口を開く。


「好きだよ、城北さんのこと。だから俺と付き合ってください」


 人生で、誰かを好きになり、交際に至った経験は何度かある。けれど、それらのすべての記憶を掘り返してみても、今ほど胸が切なく、そして嬉しい悲鳴を上げている瞬間はなかった。いつもどちらかと言えば、お相手の方の気持ちがかなり大きくて、私は相手の気持ちについていくのに必死になっていた。やがて気持ちの大きさのズレがどんどん開いていって、私の方が疲弊して別れに至る。そんな恋愛ばかりしてきた。


 だけど、今は。

 はっきりと分かる。私は、秋月大和のことが好きだ。今までとは全然違う気持ちの振れ方に、自分自身戸惑っているぐらい、好きだ。彼の胸に飛び込んでぎゅっと抱きしめたい。こんなに強く、誰かを好きになったのは初めてだった。


「私も、あなたのことが好きです。ぜひよろしくお願いします」


 恭しい敬語で告白の返事をする。いや、返事じゃない。自分から告白するような気持ちで彼に向かって頭を下げた。


「……嬉しいよ。よろしくね」


 ほっとしたような声が響き、気がつけば彼の手のひらが私の頭の上に乗っていた。反射的に、わっと声を上げる。だけど、そんな私に構わずに、彼は私の頭をわしゃわしゃっと撫でた。


「なに、これ」


「ずっとこうしてみたかったんだ。城北さん、小動物みたいで可愛いから」


「そんなこと言われたの、初めてだよ。背だって別にそんなに低くないし」


「身長の問題じゃないよ。とにかく存在が可愛い」


「もう、恥ずかしいこと言わないで」


 告白を受け入れられた途端、彼はずっと抑えていたものが溢れ出したみたいに「可愛い」を連呼する。こそばゆくて恥ずかしかったけれど、でもそれ以上に嬉しかったのも事実だ。


「せっかく付き合ったんだから、呼び方変えない?」


「う、うん。どうする?」


「俺は月凪って呼び捨てにする」


「じゃあ、私も……大和、で」


 二人で初めてお互いに名前を呼んだ。知り合ってから一年半、苗字で呼び続けたので突然名前呼びにするのは照れ臭くて自然と声が小さくなった。


「月凪、月凪、月凪」


「ちょ、ちょっと連呼しないで。恥ずかしいじゃん」


「だって、何回も呼んだ方もすぐ馴染むでしょ。ほら、月凪もやってみて」


 彼に迫られて、うう、と小さく唸る。でも嫌な感じはしない。

 意を決して、すうっと大きく息を吸い込む。


「大和、大和、大和」


「はい、よくできました」


 ぽんぽんと私の頭を撫でる彼の手の感触が、胸に刻み込まれる。頭ではなく心で。この日のことはこの先一生忘れることはないと、強く思った。


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