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7.わずかな休息

 道行く人にはわからないだろうが、早朝の緑小路屋敷は佐崎の目から見れば明らかに陰鬱とした雰囲気に包まれていた。

 門の前に警官が立っているのは警戒のためであろうが、それ自体は華族の家では珍しいことではない。問題は、邸内で働く者たちの心情である。

 令嬢である花の不在は、使用人の誰もが知っている。それが誘拐であることは伏せていたが、人の口に戸は立てられぬ。一晩明けた今や、誰もがある程度は耳にしていた。


「旦那様。お加減はいかがでしょうか」

「佐崎か。わしのことは良い。それよりも、首尾を聞かせてくれぬか」

 書斎で力なく椅子にかけている緑小路は「お前のその表情を見ればわかるが」と言葉を添えて、疲れた笑みを見せた。

 娘が心配で、禄に眠れていないのだろう。


「下手人が絞れてきました。失礼の無い時間を待って、六座家屋敷を伺おうかと思っております。何分、状況が状況ですので、あまり歓迎はされないかも知れませんが」

 佐崎の姿を見る緑小路の目が細くなる。

 上着は斬られ、あちこちに汚れが目立つ。佐崎自身の顔もやや疲れが浮かんでいる。

「お前のそんな表情を見るのは初めてだ。無理をしていないか、というのは愚問か」

「旦那様も……」


 佐崎はそう言う緑小路自身も憔悴した表情であることを視線で示した。

 無精ひげが浮いた頬に隈が目立つ目元。いつもの威厳に満ちた偉丈夫然とした風格はどこへ消えたのか。

「下手人の目星はついております」

 佐崎が言うと、緑小路は目を見開いた。


「警察には、伝えたのか」

「いいえ、旦那様。今回の件、警察官の中にも怪しい者がおります」

 その言葉が指しているのは、言うまでもなく雛森のことである。

「そうだったか……表の者たちも、遠ざけておくべきか」

「いえ、あまり不自然な動きをして刺激しない方が良いでしょう。全ての警官がそうというわけではないでしょうし」


 屋敷では何も起きていない。

 そう思わせておく方が佐崎としても相手の動きを読みやすいと断じ、それに緑小路も同意した。

「六座の家に行くにあたって、わしの書状は必要かね」

「いえ、見舞いの使者という体でうかがいますので、道中何か見繕ってまいります」


 佐崎の答えに、緑小路は自らを叱咤するかのように両膝を叩き、力強く立ち上がった。

 そして机の引き出しから封筒を取り出し、佐崎の胸に押し付けた。

「入り用になるだろう。手土産の他、使途は問わん。お前なら無駄遣いなどせんだろう」

 中身は金であった。菓子舗で適当な菓子折りを買い求めるつもりであった佐崎だが、その分を差し引いても充分すぎるほどに入っている。


「……ありがたく、お預かりいたします」

「わしの名代である。そのための金だ。預けるのではない。良く使え」

「かしこまりました」

 懐に差し入れようとした佐崎が、ジャケットが裂けて内ポケットが会くなっていることに気付いて頭を掻くと、緑小路は耐え切れずに笑い声をあげた。


「ふ、ふはは! お前でも、そのようなことがあるのだな」

「これは、お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」

 封筒を左手に持ちなおして一礼した佐崎に、緑小路は椅子に腰を下ろして、低い声で尋ねた。

「娘は……花は無事であろうか」


 脅迫や要求は今のところ来ていない。

 現地で殺害せず、わざわざ誘拐という手段を選んだあたり命は無事である可能性は高いが、守るべきは命ばかりではない。

「恐らくは。ですが、安穏とはしていられません」

「そうだな。そう信じるしかない。六座の党首も心配していることだろう。同じ境遇である。協力は惜しまぬと伝えておいてくれ」


 それは緑小路家からの圧力であり、助力の申し出でもある。

 緑小路家の方が家格は上であり、六座家からの退出時に起きた事件でもあるので、如何様にも難癖をつけることができる状況である。

 しかし、それをせずに「同じ立場」であると強調することで、六座家に協調させ、何かあっても裏切らぬように釘を刺すのだ。


 例えば、六座家令嬢を返す代わりに協力しろ、と言われたとしても。


「完全に信用するわけにもいかんが、こちらの政敵になりたくもなかろう」

「かしこまりました。では、そのように」

 一礼して佐崎が出ていくと、緑小路は大きく息を吐いた。

 不安は拭えない。待つしかないのがもどかしい。もし敵がはっきりすれば、動きようもあるのだが、政府に連なる者として軽々には行動できない。


「果たして、この身が一介の武士であったなら」

 独り言ちて、そうであったなら一も二もなく探し回り、娘を誘拐した不届き者を一刀に斬り伏せていたであろう。

 だが、自分の肥えてしまった身体を見下ろして嘆息するしかない。国を守ろうとする者が、一人娘を救うことすらできぬとは、と。

「情けないものだな……頼むぞ、佐崎」


 すぐに自室へと戻った佐崎は、斬られてしまった服を脱ぐと、丁寧に畳んで籠へと入れた。

 しかし、すぐに取り出して別の箱へと入れる。使用人の服は籠に入れておけばまとめて洗濯をするようになっているが、斬られた服を見た女中たちを驚かせてしまうやも知れぬ。

「いずれ繕うなり、端切れにしてしまえば良いでしょう」

 血がついていないことを確認した佐崎は、残りの服も脱ぎ捨て裸形になった。


 桶に溜めた水に手拭いを浸し、硬く絞る。

 汗が渇いてべたつく肌を、しっかりと拭い、再び手拭いを洗い、絞る。

 そんな動きを繰り返しながら、佐崎は自分の心を落ち着けるためにゆっくりと、しかしたっぷりとした呼吸を繰り返した。

 鼻孔を通り抜ける部屋の臭いには、汗の臭いに混じってわずかながら血の臭いが混じる。


「私は、まだ大丈夫でしょうか」

 最後に、自分の手をしっかりと揉みこむように洗い、手拭でしずくを拭い取った。

 そして裸形のまま寝床に横たわった。

 空腹感は無いが、目覚めたら多少なり腹に入れておくべきだろうと考える。

 冷徹に自分がやるべきことだけを考えて、逸る鼓動を押さえようとしていた。


 お嬢様のことを考えてしまうと、今すぐにでも屋敷を飛び出して、道行く人々を片っ端から捕まえて問い詰めたくなる。

 それは以前、自分の中で暴れていた獣のような精神が再び目覚めたかのような感覚であった。

 佐崎はもう、あの頃の自分に戻りたくはない。そうなってしまえば、この屋敷には居られない。


 足を肩幅に開き、手のひらを上に向けて軽く脇を広げた姿勢で目を瞑る。

 寝入ることはせず、瞑想に近い状態に入ることで、四肢の隅々までを弛緩させて全身の状態を知ることができるのだ。

 佐崎は、自分が戦闘の緊張の中に居た日には、これを毎夜の如く行っていた。

 今の彼の身体は、右腕と左足がやや疲労を感じている程度で、特に痛みや痺れは無い。


「身体が動いてくれるのは、大変ありがたいことですね」

 三十代も半ばに差し掛かろうとしている肉体は、ややもすれば衰えを見せ始めてもおかしくはない。

 しかし、今回の立ち合いの中で、動きに違和感はなかった。

 仕事の合間のわずかばかりの修練であったが、佐崎の能力を支えるに足りたことは幸いである。


 そのまま、思考を霧散させて心身が空になるように、寝床と溶け合う。

 じわ、と身体がほぐれて崩れ落ちるような感覚の後、しばし佐崎は瞑想の奥へと落ちた。

 幕末の京にあって、人を斬り、宿にも入れず路地の陰や境内の隅でひっそりと夜を過ごした記憶が、佐崎の脳裏にふと蘇った。

 若き日の、信念に憑りつかれていたころの記憶。


 半刻ほど経ったところで、部屋の戸を叩く音で佐崎の意識は急速に浮上した。

「佐崎さん。ちょっとよろしいでしょうか」

 聞こえてきた声は、津賀野のものであった。

「お休みでしょうか」

「いえ、ただ今は人前に出られる姿ではありませんので」


 昨晩と同じようなやりとりをしていることに気付いて、佐崎は少しおかしみを感じた。違うのは、互いに敵意が無いことだ。

「では、失礼してこのままお伝えだけします」

 そう言ってから、津賀野が次の言葉を発するまでに少し間が空いたのは、周囲が聞いていないかを確かめたのだろう。

「一度、“上”に報告をして参ります」


 津賀野が言う上の者は緑小路当主のことではないだろう。派遣元の政府筋の組織側のことであろう、と佐崎は察した。

「何か他に情報が得られるかも知れません」

「そうであれば良い、と思っておきます」

「佐崎さんの件も、報告します」


 何か遠慮がちである津賀野に、佐崎は嘆息交じりに答えた。

「私に断る必要はありませんよ。あなた方にも事情があるでしょう。ただ、私の邪魔さえしなければ、何も問題はありません」

「ですが、情報はお館様の耳にも入るやも」

「……私の素性はご存知ですよ」


 扉の向こうで、津賀野が驚いて息を吸い込む音が聞こえる。

「旦那様の懐の深さを甘く見てはいけません。ただ、もし私の存在がお嬢様の健やかなご成長の邪魔になるのであれば、すぐに消えます。安心してください」

「そのようなこと、考えているわけでは……」

「余人の口の端に上る話題の下衆たるや、想像に絶します。まして足の引っ張り合いを平然とやっているような政治の世界……いえ、こんな話は止しましょう」


 兎角、佐崎は津賀野に「思う通りやればよい」と改めて伝える。

「私は、このあと六座家に伺ってまいります」

「御武運を」

「ふ、別に討ち込みに行くわけではありません。かの家も当家と同じ被害者です。私も情報が欲しいのですよ」


 失礼しました、と津賀野が去ったところで、佐崎は立ち上がった。

「では、向かいますか」

 衣服を付け、小刀も油断なく身に着けた佐崎が屋敷を出ようとしたところで、一人の使用人に声を掛けられた。

 政という一人の使用人だ。


「さ、佐崎さん」

「政さん。どうされましたか」

 政はあまり知恵の回る方ではないが、実直で好感の持てる男だと佐崎は評していたし、他の使用人や緑小路からも同様に慕われている。

 普段は力仕事をこなしていて、時には屋敷の簡単な修繕なども行っている男だ。


「佐崎さん、何か屋敷の中が怖い感じがするんですが、何かあったんですかい?」

 どうやら花の誘拐についてまでは知らされていないらしい。

「何もありませんよ」

 自分より頭一つ分以上背の高い政に対して、佐崎はさらりと答えた。妙なところで感受性の高い政に感心しつつ。


「屋敷が落ち着かないのは、お嬢様が外出中だからでしょう。そうでした、一つお願いが」

「へい、何でしょう」

 気持ちの良い返事に、佐崎はにこりと笑う。

「お嬢様がお戻りになられる前に、蔵に内から鍵を掛けられるようにしていただけますか。静かに勉強できる場所を作って差し上げたいのです。内装はお嬢様と考えますから」


 政は大きく頷いて、早速とばかりに小走りで去っていった。

「無用になれば、良いのですが」

 政に伝えたのは方便である。実際は屋敷に襲撃があった際、当主を避難させる場所を作りたかったのだ。耐火構造の蔵であれば、賊に対して有効な籠城場所になるだろう。

 佐崎は政の背を見送ると、静かに屋敷を出た。


 早朝の通りは静かで人通りは少ない。

 鼻孔に沁みるような冷たい風が吹いて、佐崎の痩せた身体を叩いた。

「……お嬢様、風邪などひかれていなければ良いのですが」

 知らず速足となって、佐崎の姿は通りを滑るように抜けていく。



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