幕末の頃、特に京の町は思想の坩堝だった。
志士を自称する連中が膝を突き合わせて昼も夜もなく語り合い、合わなければ論をぶつけ合い。時にはそれが刃傷沙汰にまで発展する。
論客は少なくなかったが、彼らの多くが侍であることがある種の悲劇であった。
彼らはその魂としての刀を持っており、その使い方を熟知していたのだから。
言論で決着がつかないのであれば、剣で決着をつける。侍の習性と言って良いのかも知れないが、実のところ、徳川の平穏な二百年の治世の反動だったかも知れない。
江戸期の中頃以降、戦がぱったりと絶えたことで刀は身分の象徴という役割になり、侍は役人としての色が濃くなった。
剣術より算術や土木の知識が重要視されるようになっていた。
それが、外国の脅威が現実となり、幕末の不安定な世の中になって“侍らしさ”が日ノ本の後顧を憂い、強いことが侍の本分であることを突然思い出した。
彼らは自分たちの祖先が戦うことで存在理由を得ていた本能を目覚めさせ、自分たちの思想という領地を守るために刀を抜いた。
傍から見れば乱暴な理屈だが、当人たちにとっては自然な流れなのだ。
「侍だった俺たちの世の中を取り戻す。佐崎よぅ、お前もあの頃は侍でいるために人斬りやってたんだろうが」
「今は侍の世ではない。わかっているでしょう」
「だから、取り戻さなくちゃあならねぇんだよ!」
激昂した雉峰は、再び頭を掻きむしる。
「……薬ですか」
髪が抜け落ちる様子に、佐崎は眉をひそめた。
「病ですか。それとも、人を斬るため……」
「お前に勝つためだ!」
雉峰は顔面をぶるぶると震わせた次の瞬間、稲妻の如く踏み込み、佐崎の脳天目掛けて刀を叩きつけた。
「私に?」
半身に身体を傾けて避けたその胸元に、軌道を変えた白刃が迫るが、これは小刀で止める。
「……他に誰が居る」
とん、とん、と軽い足取りで距離をとりなおした雉峰は、八相に構えなおしている。
「あの時、俺は初めて破れた。周りの連中が全て死に、耳を斬り落とされて無様に逃げた」
やや前傾気味の、奇妙な八相。
ぴくぴくと痙攣する左目を大きく見開き、佐崎を睨む表情は人間の相貌から離れつつある。
「あんな惨めな気分になったのは初めてだった。道場で兄弟子に殴られたときの怒りも、ガキの時分に親父に蹴り飛ばされたときの悔しさも、あの時に比べりゃ屁みたいなもんだ」
仲間を喪ったあと、雉峰は幕末の表舞台から消えたのだが、一時的に地元に戻っていたと語る。
「親に慰めてもらったわけですか」
「ひひっ」
佐崎の言葉は冗句だったが、雉峰は「その通りだ」と答えた。
「兄弟子と親父を斬った」
当時の雉峰は、それで少し気分が落ち着いた。
それは雉峰にとって人生のやり直しだった。
もちろん、更生したわけではない。だが、反省はしていた。
「俺は間違っていた。俺が勝てなかった相手をそのままにしていたからな。きっちりと始末をつけて、改めて俺の中から負けという言葉を消してきた。あとは、お前だけだ」
佐崎を顎で指し、雉峰は鼻から息を吐く。
「なんということを……正気の沙汰じゃない」
そう漏らしたのは、津賀野だった。
雉峰が語る話にも、それを涼しい顔で聞いている佐崎にも、彼女は驚いたのだ。
「それだけのことをやって、どうして捕まっていないのです」
「わからないか。うまくやったからだ」
津賀野の方を見もせずに答えた雉峰には悪びれる様子はまるでない。
「昔話はつまらん。それよりお前だ」
雉峰は京へ戻ったが、その時にはもう、幕末の混沌は戦争へと変わっていた。戦いは京の町中から江戸へと移り、侍同士の斬り合いは終わり、市民も巻き込んだ銃砲の戦いになっていた。
「下らない戦いが続いた。そして、そこにお前はいなかった。俺の敗北が塗り替えられないまま、幕府の世が終わっちまった」
世間が替わり、髷を見かけない世の中に変わる街中で雉峰はひたすら佐崎を探していたという。勝利に塗り替え残した唯一の敗北相手を。
「忘れてしまえば良かったのに」
佐崎の素っ気ない返答は、雉峰を激怒させた。
「忘れるわけねぇだろうが!」
ぐい、と顔が先に出るような踏み込みから、風を斬り裂く袈裟斬りの一撃。
通常なら相手との距離感を狂わされるような身体の動きだが、佐崎には通用しなかった。切っ先を紙一重で躱す後退だけでゆるりと避ける。
しかし、雉峰はさらに距離を詰めた。
「とったぁ!」
雉峰の身体が前のめりに倒れるような動き。
そこから浮かび上がるような体の流れに合わせて、振り下ろされた刀が逆袈裟と変化して佐崎を襲う。
「む……なるほど」
ジャケットが右脇から左肩へと裂けた。
その斬れ味はすさまじく、まるで引っかかりを感じさせない、見事な一撃である。
「……ちっ」
「腕をあげましたね。哀れな兄弟子と父親のおかげですか」
「他にも何十人と斬って試した」
再び間合いを取り、雉峰は八相に構えた。
顔中に汗をびっしょりとかいているが、一切の油断は無い。視線は佐崎を見据え、呼吸は多少荒くなっているが、すぐに落ち着いた。
対して、佐崎の方は斬られたジャケット以外は何ら変わるところがない。両手は変わらずだらりと下げたまま。一切の力みはない。
「緑小路家の使用人を斬った下手人は判明しました」
警官の雛森が言っていた逆袈裟の見事な刀傷と一致すると判断した佐崎は、津賀野をちらりと見た。
「この男を捕らえて吐かせます。しばらくは邪魔をしないでください」
「わ、わかりました」
佐崎が視線を外した瞬間、雉峰が踏みこむ。
危ない、と津賀野が叫ぶより早く、佐崎は動いている。
「今度は、殺す!」
「できるならやってみなさい」
首を狙った横薙ぎの一撃は、小刀で止められた。
直後、自分の首元に柄を引き込んだ雉峰は攻撃を突きへと変化させる。
それも避けられたと見るや、地面を蹴りこみ、もう一突き。
「随分と、踏み込みが速くなりました」
だが、読めない攻撃ではないと佐崎は評する。
雉峰にぶつかる勢いで前に出ることで刃をやり過ごし、至近距離で首を狙う。
「ぐっ! てめぇ!」
辛うじて首をひねって小刀の一撃を避けた雉峰は、斬られた頬を拭った。
「あの時と同じことを狙いやがったな!」
「ええ、今度こそ首を狙いましたが、上手に避けましたね。褒めてあげます」
「舐めやがって!」
突きの一撃で再び攻勢に出た雉峰は、左に避けた佐崎をそのまま切っ先で追うのではなく、左手で佐崎の襟を掴んで固定したうえで、追撃を狙う。
「面白いことを考えましたね」
通常の剣術ではあまり見ない方法に、佐崎は少しだけ笑みを浮かべた。どうやら雉峰は長い雌伏の間に、自分の型を破ることにある程度成功したらしい。
しかし、これも佐崎には通用しなかった。
自ら身体をひねることで襟元を掴んでいる雉峰の身体を前に流し、刀を躱すと同時に膝を裏から蹴り上げて転倒させた。
そこに、真上から振り下ろした小刀が、残り半分の耳を削ぎ落した。
「がああっ!」
「目を抉るつもりだったのですが。避けましたね」
痛みにもがきながら転がって距離を取った佐崎は、小刀の血を振り払った。
「はぁ、はぁ……くそ、また俺の耳を、ああ、ちくしょうめ」
「少々粗削りながら、動きは素直さが残っています。これでは、避けるのは難しくありません」
佐崎の顔が、にやりと笑っている。
「昔と変わりません。道場で繰り返し繰り返しやった素振り。真面目に、一途にやってきた道場剣術が身に染みている。兄弟子や親を殺して殻を破ったつもりになっていますが、あなたの生来の真面目さが残っているのですよ」
それは薬を使っても破れない、雉峰の魂に染み付いたものだと佐崎は言う。
「あなたは、自分の型を壊したつもりでしょうが、そこが限界です」
佐崎は両手に持った小刀を自分の胸の前で軽く前に構えた。
右手右足を少しだけ前に出した半身の構え。一振りの刀を構えるかのようで、どこか柔術の構えのようにも見える。
「数少ない、殺し損ねた相手でしたのでね。私は少し期待していたのですが……残念です」
この時、ただ見ているしかできなかった津賀野は、佐崎の正体に確信を持った。
幕末の血生臭い場所で、密かに、文字通り一陣の風の如く駆け抜けていった人斬り。刀であろうと槍であろうと、流れるように背後へと周り込み、独特の形状を持った小刀で頸動脈を斬り裂き、殺害する恐ろしい暗殺者。
維新の最中に人知れず表舞台から姿を消した、異色の侍。
「雉峰、あなたはまだ幕末に取り残されているのですね」
「お前もそうだろうが。そんな服を着ていても、血の臭いは消えない。人斬りは人斬りでない生き方は選べねぇ」
よろよろと起き上がった雉峰は、先ほどより少し落ち着いたように見える。
右手に握った刀を大上段に構え、左手は腰に添える。剣術ではよく見る構えの一つだ。
「美しい構えです。基本に忠実。その方が良い。その道を究めた方が、あなたは強くなれる。私のような外道のやりくちは合わない」
「……肝に銘じておく」
言い終わりを待たず、雉峰は何と刀を持つ手を振り下ろし、佐崎の胸へと投げつけた。
「ふむ……おお、なんと!」
佐崎は涼しい顔で軽く横へと移動して刀を躱したが、直後に自分の顔へと向かってきた刀子を小刀で払落し、目を見開いた。
雉峰は刀を投げた直後に、左手に持っていた刀子を軽く放っていたのだ。
放物線を描いて飛んだ刀子は、刀に僅かに遅れて佐崎へと届いた。油断している相手であれば、刀子は左目に突き立っていただろう。
「……やられましたね」
刀子を処理している間に、雉峰は背を向けて振り返ることなく走り去っていた。
武器を放り捨てて無様に逃げ去る様を見て、佐崎は首を振って息を吐いた。
「やれやれ、以前より逃げ足も速くなっているようですね」
「佐崎さん、追わなければ……!」
間に合いません、と津賀野に答えた佐崎は、屋敷内を調べたがお嬢様の姿は見つけられなかったと語った。
「他の連中も、お嬢様の場所は知りませんでした。命がけで秘密を守ったというのでなければ、ですが」
「では、やはり雉峰を追わねば」
津賀野は走り出そうとしたが、佐崎に止められた。
「あれも知らないでしょう。もしここにお嬢様が居たとしたら、人質に取って私を始末する材料にしたでしょう」
佐崎は、やはり雉峰の背後で指示を出している何者かがいると考えていた。
「一度、六座邸を伺ってみるとしましょう。何か知ってる人がいるかも知れません」
「佐崎さん、あなたは……」
津賀野がじりじりと近づき、佐崎は斬られたジャケットを脱いで小脇に抱えて向き直った。
「私の過去について、何か気になる点でもありましたか」
「やはり、あなたはあの人斬りなのですね」
少しためらって、津賀野は言葉を続ける。
「わたしは、佐崎さんのことを報告する義務があります」
「……それが仕事でしょう」
佐崎は全く動揺を見せない。
「良いのですか。過去の事、新政府の発足前とはいえ、政府が行動を起こさないとは言えません」
佐崎の存在は危険だと判断されてもおかしくない。津賀野は、それが可能かどうかは別として、佐崎を逮捕しなければならないかも知れない。
「津賀野さんは、自分の信念に従って動けば良い。……少なくともあの頃、私たちはそうしていました」
「それを後悔しているのではありませんか。あの雉峰と同じように」
佐崎はじっと津賀野の顔を見て、寂しそうに微笑む。
「後悔はあります。生きていれば当然のことです」
しかし、その後悔は津賀野が指摘するようなものではないのだ。
「私が信念に基づいて行動していたことに後悔はありません。それはあの雉峰も同じでしょう。あの奇妙な時代に言葉と刃で戦っていた者たち全てがそうでしょう」
月を見上げる。
死体に囲まれた中庭で、佐崎は小さく呟いた。
「私たちは死に損ないなのです。時代と共に消えるべきだった。取り残されて、時代遅れの遺物になってしまった」
ただ、佐崎は新しい幸福を知っている。
「彼は可哀想ですが、私も旦那様に拾われなければ、ああなっていたかも知れません」
だから今は、今の信念に従って戦うのだ。
佐崎は「一度帰りましょう」と苦笑いを浮かべた。
「旦那様にご報告を。それに、この格好では六座家を訪問するには失礼ですからね」
その様子は、津賀野が良く知る執事のそれに戻っていた。