陽が沈み、屋敷が見える位置から監視していた佐崎は動き出した。
津賀野もそれに合わせて動き始めたが、別行動をすることになっている。
「さて。屋敷の間取りはどうでしたかね。昔の記憶が少々朧げになっています。歳は取りたくないものですね」
津賀野が密かに裏門へと回っていくのを見届けて、佐崎は真正面から敷地へと踏み込んだ。
朽ちかけた門構えには二人の見張りが立っていたが、佐崎にとっては物の数ではない。
夜闇に乗じて無力化し、すんなりと敷地内へと滑り込む。
全ての行動に音は無い。
全ての行動に迷いも無い。
夜は彼の友人であり、最高の相棒でもある。
「帰ってない連中がいるって話だが」
誰かの声が聞こえて、佐崎はぬるりと物陰に溶け込んだ。
「新入り連中だろ。大方、どこかで酒でも奪って飲んでるんだろう。刀を貰って浮かれてやがるのさ」
武家の生まれでも無い癖に、と二人組の賊は笑っている。
「なるほど、あの者たちは新入りでしたか」
佐崎が声を発したときには、賊の片割れはすでに音もなく倒れ伏していた。
「な……」
残った一人も、驚愕の声をあげる間もなく口をふさがれ、首筋に冷たいものが当たる感触に身体をこわばらせる。
「あなた方が下手人だ、と警官は考えているようですが。華族令嬢誘拐に心当たりは?」
「し、知らねぇ……。俺たちは、なんとかって家の奴らが俺らを嗅ぎまわってるから、始末しろとだけ」
「そうですか。役には立ちませんが、敵であることは間違いない、と。では、さようなら」
片手で口と鼻を塞がれ、喉笛を掻き切られた男は、夥しい血を流して跪き、ほどなく事切れた。
「やれやれ。こういう連中を使うのに情報を最低限に絞るのは常套手段ですが、面倒なことですね」
少なくとも、ここの連中が先ほど自分たちを襲撃した連中と同じ集団であることは確認が取れた。
佐崎にとっては、この屋敷にいる連中を殲滅するに充分な理由である。
「ただ、やり過ぎないようにせねばなりませんね。少しでもお嬢様につながる情報を集めなくては。この屋敷の奥に幽閉されている可能性もありますし」
佐崎は、昼のうちに津賀野へ話した内容を再び考えていた。
「やはり雉峰の仕業には思えませんね。あれは強かったですが、斯様に回りくどい手段を選ぶ奴ではないはずです」
馬鹿正直に真正面から攻め入るような熱血漢ではないが、数が揃えられるのであれば屋敷を表裏から襲撃する方法を選ぶだろう。
使用人悉くを手にかけ、娘を誘拐するような真似はせず、当主の首を取りに行く。大凡、雉峰の考えそうな内容は、血を流す量が多ければ良いとでも言いたげな、そんな内容である。
「やはり、手を引いている者が居ますね」
それを突き止め、始末しなければお嬢様が無事に取り戻せたところで緑小路家に安息の日々は訪れない。
「禍根は残さず、丁寧に潰さねばなりませんね」
糸口は大事だが、それ以外は遠慮なく斬り捨ててしまおう。そう決めた佐崎は、自分の中に『黒旋風』が戻りつつあることを感じながら、押し止めることは難しいと考えていた。
じわじわと、廃屋の中を侵食するように丁寧に探り続ける佐崎によって、屋敷の中で適当な場所を見つけて休んでいた賊どもは、一人一人数を減らしていく。
対して、裏口から侵入した津賀野の方は、早々に発見されて中庭で敵に包囲されることになった。
津賀野は刀を手にして、鞘を付けたまま構えている。
「女が入り込むとはな。妙な恰好をしているが……なんだ、お前は」
「……迷い込んだだけ、と言いたいところですが、ここにいるはずのお嬢様を返していただきたいのです」
「おじょうさま。おじょうさま、な。ははあ、わかったぞ。お前かあの屋敷から出てきて、俺たちを探ってるって奴は」
その言葉と、周囲の賊どもが納得したような態度を見せたことと、その特徴的な耳の形で、津賀野は話しかけている正面の男が何者かを察した。
「下半分が欠けた左耳……あなたが、雉峰ですね」
「ほう、俺の名は随分と広まっているようだな。こんな小娘にすら知られているとは。有名になったもんだ」
雉峰がへらへらと笑うと、周りの男たちもつられて笑った。
この場でただ一人、津賀野だけが緊張した面持ちで額に汗を浮かべている。
「お嬢様はどこだ!」
声が大きくなったのは、怒気を孕んでいたことだけではない。緊張と怯懦を振りほどくためだ。
刀を握る手が、びっしょりと汗で濡れる。
「お嬢様。お嬢様、か。いい気なもんだ」
笑顔は不意に消え、雉峰は吐き捨てるように言った。
「俺たちは日ノ本の侍だ。俺たちは朝敵を倒し、この日本を救ったはずだ。だがなぜ、どうして俺たちはこんなボロ屋敷にこそこそと隠れる羽目になった!」
ガリガリと音が聞こえるほど、雉峰は自分の頭を掻きむしった。ボロボロと毛が落ちるのが、月明りの中でも見える。
「同じ侍だったはずだ、俺たちも、新政府の連中も! それがどうして、こんなに違う!」
震える手で刀を抜いた。
それにつられて、他の連中も刀を抜いたが、それを雉峰は制した。
「いい、いい。お前たちは手を出すな。俺が始末する。どうせ警察か政府か……どうでもいい。斬って捨てれば同じ
正眼に構えて、じりじりと近づいてくる雉峰に、津賀野は身構えたまま考えていた。
今の雉峰の姿は、辛うじて正気を保っているだけで、一歩踏み外せば抜き身の刀が自ら飛び回るかのように人を斬って周るだろう。
津賀野にそう思わせるほど、雉峰の様子は危うい。
故に、佐崎が話していた内容が納得できた。組織を率いるような男ではない。
「あなたに斬られるわけにはいきません」
「訳のあるないじゃねぇんだよ。お前がここに来た。だから死ぬ。それだけだ」
「話にならないようですね」
「そうだ。そんな棒切れじゃあ、お話になりゃしねぇよ」
雉峰は切っ先をほんのわずかに揺らしながら、鞘付きの刀を構えた津賀野ににじり寄る。
ぐい、と雉峰が足を踏み込む。
反応して津賀野が軽く刀を浮かせたが、それは誘いでしかなかった。
「命のやり取りの場だぞ!」
叫びながら雉峰が踏みこむ。拍子がずらされた津賀野は鞘を掴まれて動きを押さえられた直後に斬りつけられた。
「つっ……!」
辛うじて避けた拍子に、津賀野はスカートを翻し、思い切り足を振り上げて鞘を掴む手を蹴りあげる。
親指を蹴りつけられて手を離した雉峰は、舌打ちと共に距離を取った。
「素人じゃねぇってわけか」
津賀野は答えなかった。
会話をできるほどの余裕はない。
雉峰は危険な男だが、腕が立つ。
「だが、弱い。俺を殺せる腕じゃねぇ」
その言葉が事実だと津賀野は嫌でもわかる。
再び正眼に構えた雉峰が、八相で斬りかかってくるのを回した刀で流す。
基本の捌きで、津賀野は幼少から何度も繰り返してやってきた動きだ。慣れているから、信用できる動きだった。
それでも、完全には捌き切れなかった。
「う……」
引き際に浅く手の甲を斬られた。
それからも二合、三合と刀を合わせた。
正確に言えば白刃と黒鞘だが、力も速度も、雉峰の方が上手だった。
防御の隙を突く攻撃は津賀野の命を削り取る一撃になり得たが、辛うじて避けることはできた。それが精一杯であったが。
「嬲るのは好きじゃねぇ。さっさと済ませる」
「賊の癖に……」
津賀野がごちた。
雉峰の技量は、奇をてらったところの無い高度なもので、綺麗な一刀流の動きだった。その性質とは裏腹に、隙の無い見事な型を見せている。
気の遠くなるような回数繰り返したのだ。それは津賀野にもわかる。
わかるからこそ、腹が立つ。
「あなたは努力家だったのですね。ひたすら腕を磨いて、幕末の混乱で腕を見せる機会ができた。多くの命を奪う事で腕前を証明できた」
津賀野は言葉にすればするほど、自分に似た境遇だと思えてきた。
違うのは、津賀野は大人たちの導きで政府機関に関わったこと。比して雉峰はどうか。
「哀れな男」
「死人の憐憫はいらねぇよ」
上段に構えなおした刀の切っ先が、月明りでギラリと光る。
その光に津賀野の視線が吸い込まれそうになった瞬間、二人の者ではない声が中庭に響いた。
「もう、殺したつもりですか」
「……嫌な声が聞こえた。懐かしいが、二度と聞きたくない声が」
ぴたり、と雉峰の動きが止まり、刀を下ろして周囲を見回す。
「くそっ!」
気づけば、中庭にいた手下が全員倒れていた。雉峰は津賀野に相対している間に、仲間を全て倒されていたのだ。
他の誰でもない、佐崎に。
「幕末の悪霊が、
「幕末の亡霊はあなたの方でしょう、雉峰。どこかで野垂れ死にしているとばかり思っていましたが、しぶといようですね」
「なんだ、その気色の悪い話し方はよ」
笑いながら向き直った雉峰の目の前に、佐崎が立っている。
ゆっくりと距離を取った津賀野が見たのは、月明りに照らされた廃屋の中庭、まっすぐに立つ佐崎と、そこからやや間合いを取って構える雉峰の姿。
執事服と袴姿の二人が睨み合う。
それは恐らく、幕末のどこかでも発生したぶつかり合いで、二人の立場は違い、佐崎の服装も違っただろう。
「亡霊斬りですか。初めてですが、まあ大丈夫でしょう」
「軽口を。でもまあ、あの頃よりは話しやすそうだ」
佐崎の両手には黒く塗られた小刀が、夜の闇に溶け込むように握られていた。
それをちらりと見て、雉峰は息を吐いて、自分の欠けた左耳に触れた。
「あの時と違う。今度は油断しねぇ」
呼吸を整え、正眼にぴたりと刀を突き出した雉峰の構えには、一切の隙は無い。
それが津賀野にはわかる。だが、佐崎の方はわからなかった。
佐崎の構えは、ただだらりと両手を下げているだけだ。普通に見れば隙だらけに見えるはずだった。
だが、津賀野からはどう見ても、どう考えてもわからない。
ただ立っているだけの佐崎に対して、打ち込む場所が全くわからないのだ。