今の町中に駕籠かきは少ない。
先の維新による混乱で男手はかなり減っていて、全くいないわけではないが、馬車を用意できないが、政府庁舎に用がある層の相手で手一杯だ。
街に活気がないわけではない。
混乱は新しい需要を生むものでもあるし、幕末には随分と緩くなっていた身分制はほぼなくなっていて、田舎から出て成り上がろうとする者も多いのだ。
実際、津賀野もその一人である。
田舎の道場を守る一族で育った彼女は、時代の移り変わりで女である自分も何者かに成れる世の中になったとおぼろげに感じていた。
それは周りの大人顔負けの実力を有していたせいかも知れないし、両親が釘を刺したが、思い上がりというのも彼女自身、否定していない。
歳をとった者たちにとって、幕府が瓦解したことは自分が慣れ切った制度の崩壊であり、直接的な影響が少ない立場だとしても、いきなり自分たちを統治する相手が替わると言われて困惑するのは当然だった。
だが若者たちにとっては、新政府の樹立は、新しい社会の構築は、決まりきった身分の崩壊は、機会の訪れでもある。
「わたしは幼いころから何のために稽古をしているのかわかりませんでしたが、ようやく役立てることができると思いました」
父親の伝手を辿って状況した彼女は、その腕と、部門の者には見えない痩せ型で大人しい見た目を買われて、政府機関へと密かに雇われることになった。
維新の頃に見た目が知られた人物ではないことも決め手だった。
「都合の良い駒であることは理解していますが……今のような状況で、ただ上の指示を待っているわけにはいきません。わたしもこのまま同行させていただきます」
「組織の人間としては、失格ですね」
「今のわたしは、組織の人間ではありません。緑小路家のメイドです」
「若いですね」
若さが正義感の方に判断を傾かせている。佐崎はそう評した。
「あの頃、幕府側や尊王側に関わらず、誰もが自分の腕で日本を救えると信じて、戦っていました。そういう意味では、目の前の個人と一つの家族を救おうとしているあなたは、連中よりもずっと冷静で現実的です」
道中、佐崎はしばらく黙っていたが、津賀野の話に静かに返す。
「なぜ、その話を」
「佐崎さんには、わたしを信用してもらいたいのだと思います。わたしはただ、花お嬢様には平和な新しい日本で健やかに生きていただきたい。そう思っているのです」
「そうですか。私はあなたより多少長く生きていますから、一つ助言をいたしましょう」
佐崎は偉そうに聞こえるかもしれないが、と前置きする。
「私たち大人は、主義主張はどうあれ、良い世の中で子供たちが生きて欲しいと考えるものですよ」
「ですから、わたしも……」
「私からすれば、津賀野さん。あなたも子供たちの一人です」
津賀野の言葉を止め、佐崎は立ち止まった。
「大人になりたいのであれば、目的のために自分の手を汚すことを躊躇うのはやめなさい。でなければ、あなたはいつまでも“守られる側”です」
佐崎が言う内容に、津賀野は心当たりがある。
先ほど使った、下げ緒で鍔を固定したままの刀が、彼女の左手にあった。
「それが信念であるなら、それでも良いでしょう。後悔しないならば」
「人を殺すのは……」
「殺せなど、そんなことは言っていません。殺さずに済むのであれば、私もそうします」
「言っている意味が、よくわかりません」
津賀野はそう返事して、佐崎は嘆息して返す。
「わからずに済む世の中であれば、それが良いのです」
「……ん。一つ気になるのですが」
再び歩き出そうとした佐崎を、津賀野の視線が見上げる。
「屋敷でのこと。あの時はわたしを殺すつもりでしたか」
「さて。どうでしょう」
佐崎はニッコリと笑って、薄く開いた目に怪しい光を浮かべた。
「殺す価値があれば、そうしたかも知れませんね」
絶句した津賀野は、再び歩き始めた佐崎に置いていかれそうになって、慌てて速足で追う。
「わたしは、そんなに未熟ですか」
「そうですね。その通りです。……ただ、熟達した技術があるか否かは重要ではありません。今のあなたは光の当たる場所にいます。まだ踏みとどまれる」
こちらに来てはいけません、と佐崎は続けた。
「お嬢様も同じです。こちらの世界に踏み入れてはいけない人です。今ならまだ間に合う。あなたも」
「わたしには、ちゃんと覚悟があります。今の仕事を始めるときには……」
「荒事に手を染める覚悟があるだけなら、引き返した方が良いでしょう。気づいたときには、もう後戻りできないところに立っていることになる」
津賀野は問い返さなかったが、佐崎はそんな場所に居た人物なのだろうと彼女には察することができた。
これ以上話を続けていくと、本当に仄暗い闇から伸びた手に捕まれてしまうような予感がしたのだ。
「雉峰という男も、戻れない場所に入り込み、幕末の中でも特に血の臭いが強い場所から離れられなくなった奴です」
雉峰は、幕末の混乱期にあって尊王攘夷思想に染まった一団に属していた。
思想の近い連中から後ろ暗い仕事を請け負う中で、その一団は次第に敵を増やしていった。佐幕派だけでなく、同じ尊王派に対しても、多少の思想の違いで襲撃をするようになった。
当然、一方的に攻撃するばかりではない。逆に襲撃を受けることもある。
「印象としては、手あたり次第、袖すれ合う相手を斬っている。そういう連中でしたね」
「では、あの襲撃犯どもはその時の残党ですか」
「いいえ。雉峰以外は全て死にました。そもそも、あの頃に人斬りをしていた連中であれば、あのような無様を晒すことはないでしょう」
死んだ、と言い切る理由は何か。
津賀野は問うかどうか迷った。
「いずれにしても、雉峰は組織をまとめるような頭も統率力もありません。その集団も、頭目は別の男でしたからね」
剣の腕では団でも随一であったのは間違いないが、雉峰では周囲の者たちをまとめることはできなかったようだ。
戦いに明け暮れた日々に溺れて、いずれ仲間を相手にしても殺し合いをしていただろう。
「だからこそ、私はあの警官が言っていた言葉には疑問があるのですよ。幕末の生き残りとしてはそれなりに名が知れている男ですが……」
「お嬢様を誘拐するような真似はしない、というわけですか」
「今回の襲撃、明らかに用意されたものです。緑小路家の状況を調べ、六座家とのやり取りを知り、その機会を伺う。あの男にできるようなことではありません」
いずれにせよ、事実はこれからわかる、と佐崎は足を止めた。
そこは住宅街へ入る角地。一等地の武家屋敷であったが、塀のあちこちは土がはがれて竹の骨組みが見えている。放棄された建物だ。
「広い庭があり、多少の物音があっても周囲には聞こえない。ここは幕末の混乱期に、当主と跡取りが死亡した武家の屋敷ですね。奥方は病死し、娘がいたはずですが、今はどこにいるか……」
余談でしたね、と佐崎はそれ以上言わず、津賀野に最後通告を行う。
「ここから先に踏み込みますか。戻れない場所になるかも知れません。手先連中はいざ知らず、本当に雉峰がここに居るのであれば、甘い相手ではありませんよ」
津賀野の返事は決まっていた。
「もちろんです。わたしはお嬢様をお救いするためにこの場所にいます」
二人は夜を待ち、揃って危地へと踏み込む。