桃太郎と潮干狩りをしていたおはるが八天鬼・波羅によって鬼ヶ島に連れ去られたその日から、役小角(えんのおずぬ)による桃太郎の修行は実際に開始されることとなった。
「──それでは、お爺さん、お婆さん、花咲村の皆さん。山ごもり修行、行って参ります」
花咲村の北に建つ裏門の前にて、10歳の桃太郎が老夫婦と見送りに来た村人たちにそう告げると、お婆さんは目に涙を浮かべながら口を開いた。
「……あぁ、男の子ってのはこんなにも早く巣立ってしまうものなんだねぇ……桃太郎や、あんたの御師匠様は、あたしもよぉく知ってる立派な御人だよ。あのとき川で助けてもらった上に、あの桃を食べて生まれてきたあんたの御師匠様になって頂けるとは……はぁ、これがご縁というものなのかねぇ」
お婆さんは桃太郎の隣に立つ役小角の姿を見ながら感慨深げにそう言うと、手にした巾着袋を桃太郎に差し出した。
「──いいかい、桃太郎……御師匠様の言うことをよく聞いて、鬼に負けない立派な男になるんだよ」
「はい」
桃太郎はお婆さんから巾着袋を受け取ると腰に括り付けた。そして、お爺さんとお婆さんは役小角に向けて両手を合わせると、拝みながら口を開いた。
「それでは、行者様。なにとぞ、うちのせがれのことをよろしくお願いたのみます」
「どうか、立派な男に鍛え上げてくだされ……なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
老夫婦の言葉を耳にしながら満面の笑みを浮かべた役小角は、チリン──と黄金の錫杖の金輪を一鳴らしした後、隣に立つ桃太郎を見た。
「──備前の山々を用いた修験道のやり方で鍛えますゆえ、ちぃと手厳しくいかせてもらいますわいの……かかか……ッ──!」
役小角はそう言って高笑いすると、高下駄をカンッ──と大きく打ち鳴らして大跳躍をした。白装束を風になびかせながら北の門を軽々と跳び越える役小角の姿を村の人々が呆気にとられた顔で見届けると、村の外に着地して振り返った。
「──ほれ、桃。いつまでも別れを惜しんどる場合か……もうとっくに修行は始まっておるのだぞ──!」
「……は、はい……! お爺さん、お婆さん、村の皆さん、今までお世話になりました……! ──桃太郎、行って参ります……!」
役小角に急かされた桃太郎は慌てながら、寝具と着替えが入ったたすきを背負い直すと、裏門をくぐって役小角の後を追いかけた。
村の外に出た役小角は桃太郎に振り返ることなく、ウサギが跳び跳ねるかのように高下駄で器用に跳躍していき、草履を履いた桃太郎はその素早さに呆気にとられた。
「──……ッ!」
気を抜けば遠ざかっていく役小角の背中を力強く見やった桃太郎は、気合を入れ直してその背中を追いかけた。そして、花咲山に続く赤い鳥居を走り抜け、まだ三獣の祠が建っていない峠道を駆け抜ける。
あっという間に花咲山の山頂に辿り着くと、ようやく役小角は足を止めた。
「──はぁ……はぁ……はぁ……! 御師匠様……! 待ってください……ちょっと──!」
「…………」
顔を真っ赤にして息を切らした桃太郎が遅れてやってくると、その場に倒れ込むようにして腰をおろした。
「──僕、まだ10歳です……! もうちょっと、ゆっくり、お願いします……!」
「なーにを寝ぼけたことを抜かしとるか桃。古来より修行というは、厳しければ厳しいほど身につくものとされておるのじゃ」
荒い呼吸を繰り返しながら言った桃太郎に対して、役小角は飄々とした態度で北に広がる備前の山々を見回した。
「……見よ、桃。この備前の山々、これすべてが、これから"10年"のおぬしの修行場となるのじゃ」
「ッ、じゅ、十年──!?」
役小角の言葉を受けて、桃太郎は濃桃色の瞳を見開きながら絶叫した。
「……ん? ……短すぎたか……? 別にわしは、20年でもよいが……」
「違いますよッ──! 違いますっ! 長過ぎる……! これから僕、10年も山ごもりするんですか──!?」
桃太郎は初めて知る修行期間に驚愕しながら役小角に尋ねた。
「ったりまえじゃろうが。おぬし、修験道を舐めとりやせんか? 10年は最低限の修行期間じゃ……それでも鬼退治が可能な練度になっているかは定かではない──桃、おぬしの覚悟次第じゃ」
「……僕の……覚悟……」
役小角の言葉を聞いた桃太郎の脳裏に、砂浜で今朝起きたばかりの事件。"桃ちゃん……!"と泣き叫びながら八天鬼に担がれて去っていくおはるの姿が想起された。
「──おはる姉ちゃん……! そうだ……僕は……泣き言を言ってる場合じゃ、ないんだ──!」
「……よいぞ。その気概じゃ、桃。さぁ、行くぞ……! 今日は、"山跳び"一周じゃ──!」
そう声を上げた役小角は備前の雄大な山々に向けて高下駄を鳴らしながら跳躍していく。瞬く間に遠ざかっていくその背中を見ながら立ち上がった桃太郎が呟くように声に漏らした。
「……"山跳び"……?」
それから6時間後──"山跳び"を終えて、花咲山に戻ってきた役小角と桃太郎は焚き火を挟んで座り、木の枝に刺したヤマメを焼いていた。
「──あぐっ! あむ……! んむ、ごくん……!」
「──どうだ、うまいか……? 川魚は骨ごと喰らうが体のためじゃからな……かかか……!」
一心不乱に焼き魚に喰らいつく桃太郎に向けて、役小角は小刀を使ってテキパキとヤマメの内蔵を処理して木の枝に通すと、焚き火で調理していった。
「……備前の山は環境がいいでな……水は綺麗で飲み放題、川から魚は取り放題……おまけにビワまで生っとるわいの──あぐん、んむ──」
役小角はそう言って、丸々と実った黄色いビワにがぶりと喰らいついて、笑みを浮かべながらうまそうに咀嚼した。
「──……御師匠様……」
「……ん──?」
ヤマメを食べ終え、木の枝を手にした桃太郎が焚き火で顔を橙色に照らしながら声をかけると、役小角は残りのビワを口の中に押し入れてから答えて返した。
「……なぜ御師匠様は、僕をこんなに厳しく鍛えるのですか……今日は初日だっていうのに、何度も死にかけて──」
「──でも死んでおらんだろ……?」
桃太郎は眉根を寄せながら言うと、役小角は指についたビワの果汁を舐め取りながら言って返した。
「ッ、本当に死にかけたんですよッ……! こんなに厳しいのはおかしい……! 僕はまだ10歳なんです……! 加減ってものが……!」
「桃──わしの体を見てみろ……100歳を言い訳に修行を止めると思うか……? あーんしんせい。心の臓がピタリと止まったら、わしが法術にて何度でも復活させるでな。かかかか……!」
役小角はそう言って笑うと、ちょうどよく焼けたヤマメを桃太郎に差し出した。桃太郎は手に持っていた木の枝を焚き火に放り投げてから受け取ると、骨ごとバリバリ──と咀嚼して食べながら口を開いた。
「──あぐ──僕は……んぐ──鬼より恐ろしい人を、御師匠様に選んでしまったんですね……もぐ──」
「かかかか……! 今頃気づいても、もう遅いわいの──桃。おぬしには鬼ヶ島で鬼退治をさせる。そのためには鬼より強くなってもらわないかんのだ」
「──でも、僕は……ただの子供ですよ……!」
桃太郎の言葉を受けて、役小角は満面の笑みを崩し、神妙な面持ちとなった。
「──桃よ。おぬし、自分のことをただの"がきんちょ"だと──そう考えとるわけじゃな……?」
「……もちろん! ……僕は"お爺さん"、"お婆さん"と呼ばなければいけないほどの老夫婦から生まれた哀れな子供ですよ……!」
低い声で告げた役小角に対して、桃太郎は大きく濃桃色の瞳を見開きながら言って返した。
「村を歩けばちらちら見られながらひそひそ話をされるんです……! 一度でも考えたことありますか、自分の親を"お爺さん"、"お婆さん"と呼ばなければいけない子供の気持ちを……!」
「──かかか……! 知ったこっちゃないわい、んなこと……それより、そうか……自分のことを……そんな風にのう──」
役小角は白い髭を手で撫でながらヤマメを食べ終えた桃太郎の顔を眺め見た。そして、おもむろに口内で舌を動かすと桃太郎に向けて口を尖らせた。
「──ぷッ、ぷッ、ぷッ──!」
突然、ビワの種を三連続で口から飛ばした役小角。ビワの種は桃太郎の顔に向かって飛んでくると、桃太郎は手にしていた木の枝を振るってビワの種を空中ですべて弾き落とした。
「──なにするんですかッ! ──やめてくださいッ──!」
「──ぷッ、ぷッ、ぷッ、ぷッ、ぷッ──!」
声を荒げた桃太郎に対して、間髪入れずに五連続で放たれたビワの種。
「──やめてください! 汚い……! このッ──!」
桃太郎は声を上げながら木の枝を素早く振るうと、顔に向かって飛んでくるビワの種を的確に空中で弾き落とした。
「──なにするんですかッ! こんな嫌がらせするなら、もう僕は一人で修行します──!」
「……のう、桃よ──ほんに今の芸当がそこいらの"がきんちょ"に出来ると思うとるのか……?」
「……は……?」
役小角は顔を赤くして怒る桃太郎を見ながら焚き火の中に落ちて焼かれていく八個のビワの種を見た。
「……かかか……もうよい。今日は寝るぞ。明日は"山跳び"しながらウサギを捕まえよう……──ぷッ──!」
言いながら横になった役小角が不意打ちでビワの種を口から飛ばした。
「あ……ッ、くぅ……」
ビワの種は、油断していた桃太郎の頬にピシッ──と当たってから焚き火の中に落ちると、桃太郎は歯噛みした。
「──かかか……おやすみや、桃」
「……ッ、おやすみなさい……御師匠様……」
桃太郎は苛立ちながらも、役小角に対して答えて返すと焚き火の前で横になった。
二人並んで花咲山の頂上で寝ていると、役小角が夜空を見ながら口を開いた。
「……桃や──備前の月は、きれいじゃのう──」
「──……そうですね……──」
「──……かかかか……──」
不機嫌そうに返した桃太郎に笑う役小角。
黄色い満月に照らされた師匠と弟子は、秋の虫の音を耳にしながら修行一日目を終えた。