役小角が桃太郎の修行を開始してから半年が経った頃、弱音ばかり吐いていた桃太郎の姿は既になく、むしろ自ら率先して厳しい修行に身を投じるようになっていた。
「──…………」
「……ふむ……そろそろかの──」
岩場の上に坐禅をして猛烈に降り注ぐ雪解け水の滝に打たれながら、一心不乱に精神統一を行う桃太郎の姿を見ながら、役小角は目を細めて呟くように言った。
そしておもむろに歩き出すと、備前の山中にポツンと建てられた、廃屋化しつつある小さな鍛刀場(たんとうば)にやってきた。
「……桃と"山跳び"をしている最中に見つけたが……ここらの刀鍛冶と云えば備前長船派……長い間使われておらんようだが──かかかか……ちぃとばかし、使わせてもらうぞ」
鍛刀場に足を踏み入れた役小角は小屋の内部を見回しながら口にすると、火のついたロウソクをそこかしこに置いた。そして、背負っていた風呂敷を作業台の上に置くと、包みを解いて鈍色に輝く玉鋼を顕にする。
「……一等良い刀を打つには、一等良い玉鋼が必要じゃからのう──桃よ、こいつはわしが千年の間に手に入れた値がつけられんほどの一品じゃぞ」
役小角はズシリ──とくる重さの玉鋼を手に持って見回しながら言うと、るつぼの中に落とし入れた。そして、炉の脇に積まれた木炭を炉の中に入れると、役小角は左手の指をパチン──と鳴らして着火する。
「……刀を打つのは初めてだが……まぁ、なんとかなるじゃろ──かかかか……!」
役小角はそう言って笑うと、フゥ──と強く一息炉に向けて息を吹きかける。その瞬間、ゴォオオオ──と瞬く間に炉の火力が上がり、るつぼの中に入れた玉鋼が溶け出した。
「──まだ悪行に手を染めとらんわしのこの体は、千年かけて善行を積み重ねた"功徳"に満ち満ちておる──"仏刀"を打つことなど、造作もないわい」
役小角はそう言って白装束の腕をまくると、るつぼの脇に置かれていた火バサミを手に取って赤々とした鋼の塊となった玉鋼を見やりながら口を開いた。
「──ただ、この"仏刀"は桃のため……老体に鞭打って──ちぃと、本気を出すか──!!」
役小角は大宇宙を内包した両眼を大きく見開くと、打ち捨てられた鍛刀場にて、桃太郎に授けるための"仏刀"造りに精を出した。そして翌朝──。
「……あっ! ──御師匠様……!」
花咲山の山頂に作られた寝床で朝食の山菜汁を飲んでいた桃太郎のもとに黄金の錫杖をチリンチリン──と鳴らしながら役小角がやってくると桃太郎が声を上げた。
「滝行を終えたらどこにも見当たらなかったので、心配していたんですよ……!」
「かかかか……! 弟子に心配されたら師匠も終わりじゃな……ほれ、朝一の修行じゃ。こいつで目を隠せ──"気配斬り"をするぞ」
そう言った役小角は白い手ぬぐいを桃太郎の足元に放り投げると、積まれた薪の前に移動した。
「っ……わかりました! ──"気配斬り"、ですね……!」
桃太郎は慌てて山菜汁を飲み干すと、白い手ぬぐいを目元にキツく巻いて視界を塞ぎ、手近に置かれていた角材を拾い上げて立ち上がった。
「……全力で、どうぞ──!」
「──かかかか、抜かせ──ほッ、ほッ──!」
目隠しをした状態で角材を両手で構える桃太郎に対して、役小角は笑って返すと、積まれた薪を手に取って次々と桃太郎に向かって投げつけた。
「──ハッ──! タァ──! フッ──!」
精神を集中させた桃太郎は、かすかに聞き取れる風切音と迫りくる気配を頼りに角材を縦横無尽に振って薪を弾き落としていく。
「──ほッ、ほッ──ほォッ──!」
対する役小角もまた、手で投げつけるだけではなく、足で蹴り飛ばす、頭突きで飛ばすなど、意表をついた多種多様な方法で桃太郎目掛けて薪を飛ばした。
「──デヤッ──! ──エイッ──! ──ヤエエエッ──!」
桃太郎はあらゆる角度から飛来する薪を的確に弾き落としていくと、不意に薪が飛んでくるのが止まった。
普段なら、まだまだ薪が飛んでくるのが"気配斬り"の修行である。桃太郎は油断せず、耳をそばだてて、注意深く気配を探った。
「──よろしい」
桃太郎の背後から特徴的なしゃがれ声が発せられると、桃太郎は驚愕しながら振り返ってその場に尻餅をついた。
そして、慌てて目元を覆っていた白い手ぬぐいを下ろすと満面の笑みを浮かべた役小角が桃太郎を見下ろしていた。
「──かかかか……! 鬼を退治するには、まだまだ修行が足りぬが、そこいらの腑抜けた侍よりはよほど腕が立っておるよ──10歳にしては、大した仕上がりじゃ」
「……あ、ありがとうございます」
これまで役小角から褒められることなどなかった桃太郎は、まさかの言葉に困惑しながら立ち上がると、頭を下げて感謝の言葉を述べた。
「──して、今日より更に本格的な修行に入ろうと思う──本物の刀を用いた、命のやり取りを大いに学ぶのじゃ……」
「……本物の、刀……」
役小角の言葉に桃太郎は息を呑みながら言うと、足元に落ちている半年の間愛用してきた角材をちらりと見てから再び役小角を見た。
「桃よ──わしが特別に打ち鍛えた"刀"を授けよう」
役小角はそう言うと、後方に回していた両手を前に持ってきて、左右の手に握りしめた二振りの白鞘を桃太郎の前に掲げた。
「……っ!?」
桃太郎は濃桃色の瞳を大きく見開くと、満面の笑みを浮かべた役小角の顔を見た。
「──抜いてみぃ、桃──」
役小角が告げると、桃太郎は怖ず怖ずと両手を伸ばし、役小角が両手に持つ白鞘から伸びる白い柄を左右の手でしっかりと握りしめた。
桃太郎が役小角の顔を確認するように伺い見ると、役小角は静かに頷いて桃太郎に促す。それを見て意を決した桃太郎は二振りの刀を左右の手で勢いよく引き抜いた。
「──ッッ──!!」
スラァッ──という小気味よい音と共に白鞘から引き抜かれた二振りの刀──爽快な朝の光を浴びて、神秘的な銀桃色に輝かせたその刃を頭上に交差させて掲げながら、あまりの美しさに桃太郎は深くため息を吐いた。
「……名を〈桃源郷〉と〈桃月〉という──桃太郎。わしが拵えたおぬしのための刀──鬼を退治をするための"仏刀"じゃ──」
「──……"仏刀"……──」
師匠である役小角の言葉を聞き受けた桃太郎は、鬼退治のために授けられた二振りの刀──"仏刀"の銀桃色の刃に心を打ち震わせながら声を漏らした。
役小角は、その希望に満ち溢れた眩く光り輝く桃太郎の凛々しい顔を見ながら、おもわず眼を細めた。
──桃……おぬしはそのまま光の道を歩め……──わしには歩めなかった、光の道を……のう──。
役小角が細めた眼を完全に閉じたその時──鬼蝶の声が投げかけられた。
「──行者様……」
「……む?」
過去の追憶していた役小角が目を見開くと、眼前には鬼ノ城の裏庭から望む赤い大海原が広がっていた。
「お休みのところ申し訳ございません……ですがそろそろ……堺に血の雨を降らすのに、よい頃合いではございませぬか……?」
鬼蝶は妖艶な笑みを浮かべながらそう言って役小角の隣に立つと、役小角は白い眉を寄せながら鬼蝶を見やって口を開いた。
「うむ……そうじゃのう……では、温羅坊が略奪から戻ってき次第、準備に取り掛かるとするか──」
「──行者様」
そう言って返した役小角に向けて、鬼蝶は冷たい声で呼びかけた。
「──此度は、私ひとりでお行かせくださいませ……──察しのよい行者様ならば、お気づきでありましょう? ──巌鬼には、桃太郎の娘を殺すつもりなど、毛頭ないのだと──」
「…………」
鬼蝶は"鬼"の文字が浮かんだ瞳を細めながらそう告げると、役小角は一瞬、沈黙してから高笑いをした。
「──かかかか……! 教育係である鬼蝶殿には巌鬼の行動などすべてお見通しか……! いやはや、恐ろしや恐ろしや……かかかか──!」
鬼蝶はそう言って高らかに笑う役小角を横目で見たあと、赤い海原に視線を移してから口を開いた。
「……これまで幾度も堺を襲撃する機会はあったのに……巌鬼は理由をつけて先延ばしにしておりました──桃太郎の血を現世から絶やすには、私ひとりで堺に赴くより他にないかと──」
「──む……? その言い草……わしの助けすらも、必要ないと……?」
鬼蝶の言葉を受けて、役小角は尋ねると、鬼蝶は役小角の顔を見て冷たい視線を向けた。
「行者様……正直に申し上げますれば──私は、あなた様のことも少しばかり"疑って"おります──行者様は、桃太郎と何か過去に"因縁"がおありでございますか──?」
「…………」
鬼蝶は役小角の漆黒の眼の奥を覗き見るようにしながらそう告げると、役小角は満面の笑みのまま硬直したように沈黙した。
「……失礼ながら先程も、物思いに耽けったような顔つきで、"もも"──と呟かれているのを拝見いたしました──行者様……桃太郎の娘を殺すことを躊躇するほど、桃太郎と何か深い"因縁"が──」
「──くかかかかッ──!! ──いやはや参った参った──!! マムシの娘ともなると、こうまで疑り深いものかと──!! かかかかッッ──!! 信長公が惚れ込むわけですわいの──!! いやはや心底、感服しましたわいの──!! ──かははははッ──!!」
「…………」
詰め寄りながら言った鬼蝶に対して、突如堰を切ったように大笑いしだした役小角は、眉をひそめた鬼蝶の顔を見ながら変わらずの満面の笑みを浮かべた。
「なぁに、かの有名な鬼退治の英雄──その娘となれば、少しばかり情が湧いたに過ぎぬ。よもやわしともあろう者が、温羅坊に感化されたのやもしれぬなぁ……? ──かかかかッ──!」
随分と饒舌になった役小角の顔を黙って見つめていた鬼蝶は、鼻から深く息を吐いたあと、静かに口を開いた。
「……では、桃太郎の娘──"桃姫ちゃん"……私が今から殺してきてもよろしいのですね……?」
「よかろう──とはいえじゃの、桃の娘には厄介な三獣の化身がお供に付いているのはおぬしも知っておろう? ──いかな八天鬼人の鬼蝶殿といえど、ひとりで行かすのは気が引けますわいの──」
役小角は言うと、白装束の懐に手を差し入れて黒い箱をスッ──と取り出した。
「──"虫箱"じゃ──活きのよい子を選んでおいたでな……堺で使うがよろしい」
「あらぁ──ありがたく、頂戴させていただきますわ……ふふふ──」
鬼蝶は陰惨な笑みを浮かべながら役小角から"虫箱"を受け取ると胸元を開いた自身の着物の中に入れた。
そして、役小角が堺の路地裏に繋がる呪殺門を作り上げると、門の向こう側に見える景色に向かって片脚を踏み入れた鬼蝶がおもむろに振り返った。
「行者様……あなた様の"愛する"桃太郎の娘──これより"退治"して参りますわね……あははは♪」
「…………」
鬼蝶は赤い唇を開き、いたずらっぽい笑みを浮かべながらそう告げると、呪殺門をくぐり抜けて堺に消えていった。役小角は鬼蝶を転移させた呪殺門を手早く片付けると首を横に振りながら口を開いた。
「……やれやれ、肝が冷えた……女の勘というのは恐ろしいものだの──」
役小角は赤土の上に落ちた呪札の束を黄金の錫杖で突いて燃やしながら呟く。
「──桃の娘よ……これで鬼蝶ごときに殺されるのならば……おぬしの命はそれまでだったということ……わしは助け舟など、出さぬからな──」
そう言って潮風に吹かれて赤い海原に向かって飛んでいく呪殺の群れを役小角は黙って見届けた。