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28.羅刹変化──羅刹刑部

 関ヶ原の北方にそびえる山、石田三成の陣幕が張られた笹尾山の山頂にて──。


「島殿──ちょいと話そうではないか」

「はッ! 石田殿」


 三成の面の皮を被った役小角に呼ばれた西軍の武将、島左近が声を上げながら駆け寄ると、椅子に座った役小角の前で片膝をついた。


「昨晩、たらふく酒を飲んでいたようだが……かかか。二日酔いなどはしておらぬな……?」

「はい。いや、一杯までにしようと心に決めておったのですが、我が兵共々、皆一杯二杯と口が止まらず……さすが越後の高級酒。しかし、我が軍は酒にやられるような軟弱者は一人もおりませぬゆえ、ご安心をば」


 役小角に対して、ガタイの良い島左近はそう言って笑みを浮かべながら頭を下げる。次いで頭を持ち上げた瞬間、眼前に向けられた〈黄金の錫杖〉をその黒い瞳に捉えた。


「──ノウマク──サマンダ──ボダナン──カカカ──ソタド──ソワカ──」


 勝軍地蔵菩薩のマントラを唱えた役小角。〈黄金の錫杖〉を凝視した島左近の黒い瞳がみるみるうちに赤く染まっていくと共に、肌が黒ずんで額からは赤黒い歪んだ鬼の角を生え伸ばした。


「島左近──おぬしとおぬしの部隊には特別な役目を与える……関ヶ原の戦場に転がる死体をかき集め、この山のふもとに積み置け」

「……グゥウウ……グギャウウウ……」


 役小角の言葉を聞き受けた島左近は唸り声を上げて返すと、役小角の後方の陣幕をくぐって道満と晴明がその姿を現した。


「──この無骨な男、役に立つのですかな、御大様」

「かかか。この石田三成にはもったいなき歴戦のツワモノよ」


 晴明が目を細めながら尋ねると、三成の顔をした役小角は笑みを浮かべながら答えて返した。

 次いで坊主頭の道満が役小角の隣で口を開いた。


「御大様、鬼虫の用意が整いました。合図があれば、いつでも関ヶ原に向けて飛ばせます」

「うむ。道満法師よ、ご苦労。では、晴明、道満は島左近とその部隊がかき集める死体を"大顕現陣"に並べる陣頭指揮を頼む──"千年儀式"の総仕上げじゃ、心して取りかかれよ」

「──御意ッ!」

「──御意にッ!」


 役小角の言葉を受けて道満と晴明が拱手して答えて返すと、鬼人と化した島左近と共に笹尾山を降りていった。


「……ふゥむ。いよいよ始まるのじゃのう……今日という日に至るまで、千年の歳月……」


 役小角は感慨深げに呟くと、懐から赤い紐で縛られた初雪のように白く、錦糸のように繊細な一房の白髪を取り出した。


「──悪路王、おぬしの底知れぬ魅力を想えば、一瞬の出来事じゃったよ……くかかかかかかッッ──!!」


 役小角の高笑いの声と共に日ノ本最大の戦、関ヶ原の合戦が幕を開けるのであった。

 関ヶ原の西方、玉城にて大谷吉継が霧がかった空に向かって軍配を振るいながら決起の声を発する。


「これより、大谷軍、出陣いたす──鬼神隊ッ! 鬼影隊ッ! 行者殿より授かりしその"鬼の力"ッ! 悪将家康に大いに見せつけるのだッッ──!!」

「──オオオオオッッ──!!」


 白頭巾を被った吉継が鬼人兵に担がれた御輿(みこし)の上で声を張り上げると、2000を超える鬼人兵の群れが槍や刀を振り上げて地鳴りのような咆哮を張り上げた。

 そして、その中にいる鬼人兵の数十人が"大一、大万、大鬼"と大きく書かれた軍旗を天高く掲げ持った。

 もはや吉継は、自身の兵が"鬼"であることを隠そうとはせず、鬼神隊、鬼影隊と名付けた赤鎧と黒鎧で武装した鬼人兵の二つの大部隊を率いて、関ヶ原の戦場になだれ込ませた。

 そんな西軍の異常事態に最初に気づいたのは関ヶ原の南方の山、松尾山城に陣を構えた小早川秀秋であった。


「……い、異様だっ! 大谷殿の兵はどうなっておる!? あれは……! あれではまるで! "鬼"ではないかッ──! いや、よく見渡せば他の西軍の武将や兵までもが、目が赤く染まり、みな正気を失っている……いったい何が起きている!?」


 秀秋が松尾山城から北西の方角を見ながら震えるように声に出す、その隣に立った小早川の家臣がささやくように声を発した。


「殿……もしや、昨晩三成殿から振る舞われた"祝い酒"……あれに、なにかよからぬものが混じっていたのではござらぬか……?」


 秀秋は顔を引きつらせながらその言葉を聞き受けた。なにか嫌な予感がして、自身や率いる兵に一滴も飲ませなかったあの越後から持ってきたという高級酒。


「……人を鬼に変える酒など……そんなものが、この日ノ本にあってよいものか……」


 秀秋は今にも泣きそうな顔で鬼集団と化して関ヶ原へと攻め込む西軍の姿を松尾山城の城壁の上から見届けているとその時、東方にそびえる桃配山の方角から松尾山に向けて一斉に銃声が鳴り響いた。


「──ひぃッ……!!」


 秀秋が悲鳴を上げながら両手を頭に乗せてしゃがみこんだ。城壁の上にいた小早川軍の兵がざわつくと、その一人が城壁の下を覗き込んで小早川に向けて叫んだ。


「殿ッ! おびただしい数の鉄砲玉が城壁に撃ち込まれておりますッ……!」

「……あ……ああ、家康だ……家康がしびれを切らしたのだ……!」


 青ざめた顔を上げた秀秋は震える声でそう言うと、家臣の手を借りて立ち上がり、腰に差していた軍配を抜き取って白く細い右手に握りしめた。


「……鬼と家康……どちらが怖い……鬼と家康──ううっ……!!」


 顔面蒼白となった秀秋が冷や汗をかきながら呟き続けると、再び桃配山の方角から一斉に銃声が鳴り響いた。その瞬間、小早川は顔を上げ、城下に居並ぶ小早川軍の大群に向けて泣き叫ぶように告げた。


「──こ、これより小早川は東軍となるッッ──!! 我らの真の敵は大谷吉継だッッ──!! 皆の衆! 西軍の"鬼を退治"せよッッ!! 掛かれェェッッ──!!」

「──オオオオオオオオッッ──!!」


 秀秋の宣言に小早川軍一同が野太い鬨の声を張り上げると、松尾山城の城壁に飾られていた巨大な小早川の軍旗が徳川葵紋の軍旗へと取り変えられた。


「……これで……これでよいのだよな……?」


 血の気が失せて、まるで死人のような顔色になった秀秋が老齢の家臣に尋ねると、家臣は静かに頷いて返した。

 大谷吉継率いる鬼神隊と鬼影隊が関ヶ原の平野で東軍と接敵した正にその瞬間、南の松尾山城から小早川の大軍勢が盛大に砂煙を巻き上げながら駆け降りてくる様を吉継は御輿の上から目撃した。


「おおッ──!! 小早川殿ッ──!! ようやっと松尾山から降りてきなすったかッッ──!! それがしが見たかったのは、その心意気よッ──!! 共に悪将家康を打ち倒そうぞッッ──!!」


 吉継が黒光りする"鬼"の文字が浮かんだ黄色い両目を白頭巾の隙間から覗かせて嬉々とした声を張り上げた瞬間、小早川軍の騎馬隊が一斉に弓を引き絞ると上空に向かって撃ち放った。

 百を超える数の矢は、弧を描きながら関ヶ原の戦場を飛ぶと、御輿に担がれる吉継にその矢じりを向けながら落ちてきた。


「……なッ──!? グおっ──!!」


 飛来する矢の大群を見上げながら驚愕の声を発した吉継は、右手で掲げた軍配を振り回して降り注ぐ矢の雨を防ごうとするが、抵抗むなしく、矢は次々と吉継の腕や体に突き刺さった。

 更に、矢の雨は御輿を担ぎ上げていた鬼人兵にも突き刺さっていく。唸り声を上げながら鬼人兵が地面にひざを突くと御輿が大きく傾き、吉継は転げ落ちるようにして地面へと落下した。


「がッ、ンぐっ……!! ……なんだ、何が起きた……小早川殿ッ──!?」


 顔面から地面に激突し、白頭巾を泥まみれにした吉継は混乱しながら立ち上がると、迫りくる小早川の騎馬隊が、小早川の軍旗と共に徳川葵紋の軍旗を掲げているのを見やって絶句した。

 そして、小早川の騎馬隊は鬼神隊と鬼影隊を寸断するように横断すると、東軍の井伊直政、福島正則、藤堂高虎らの軍勢に合流して加勢した。


「──……こんなことが」


 事ここに至って、小早川の裏切りを理解した吉継は、乱戦状態となっている関ヶ原の戦場にひとり立ち尽くしながら、静かに声に漏らす。


「──大谷吉継ッッ!! 討ち取ったりィィッッ──!!」


 そんな吉継に向けて、雄叫びを張り上げながら地面を蹴り上げて天高く跳躍し、その手に握りしめる長槍を突き出した東軍の名うての槍使い"笹の才蔵"こと可児才蔵。


「──……許されるわけがあるまい」


 吉継は迫りくる才蔵の姿を見やりながら呟くように低い声を発すると、泥にまみれた自身の白頭巾を頭から剥ぎ取って、額の左右から伸びる二本のドス黒い鬼の角を顕にした。


「……ッッ──!!」


 大谷吉継のその"鬼姿"を見た才蔵は宙空で息を呑む、がしかし飛びかかった勢いそのまま研ぎ澄まされた長槍による渾身の一突きを吉継の胸の中央目掛けてお見舞いした。

 ズンッ──と鈍い音を発しながら、刃を超えて持ち手の中程まで胸奥に刺さり込んだ長槍。着地した才蔵は満足気に笑みを浮かべると、"致命の一撃"を受けた吉継の顔を見やった。


「──ひッ……!?」


 その瞬間、才蔵の顔が笑みから戦慄に変わる。眼前に立つは"鬼の形相"をした吉継──その黄色い両目の中央に浮かんだ"鬼"の文字が憤怒によって黒く発光しながら揺らめいていた。

 長年の戦場での経験から命の危険を感じ取った才蔵は咄嗟に長槍を引き抜こうとしたが抜けず、そんな才蔵に対して、吉継は黒い爪が伸びる両手を上げると白い鉢巻を巻いた才蔵の頭をがっしと掴んで力を込めた。


「──ッ、がッ!? ──がッ、ぎゃあッ──!!」

「──ふン、ぬッッ──!!」


 "鬼"の文字をひときわ輝かせた吉継が一声唸るように野太く発すると、才蔵の頭は瞬く間に粉砕され、頭蓋骨の破片と脳の肉片とがボトボトと地面に落ちた。

 鬼人兵の群れと戦いながらその光景を垣間見ていた東軍の武将や兵たちが愕然としながら吉継の異様に息を呑んだ。


「──許されるわけがあるまい──裏切りなど、言語道断──」


 吉継は言いながら両手を離して才蔵を解放すると、ドチャッ──と嫌な音を立てながら才蔵の体は血溜まりの中に崩折れた。


「──八天鬼人──大谷吉継──」


 吉継は自身の胸奥に突き刺さった長槍を両手で掴んでズズズ──と引き抜きながら、鬼の牙を剥き出しにして、憤怒の形相で告げる。

 そして、抜き取った長槍を両手に握りしめて高く掲げると、バキッ──とへし折りながら東軍に向けて宣言するように叫んだ。


「──羅刹変化ッッ──!! ──羅刹刑部(らせつぎょうぶ)ッッ──!!」


 黄色い瞳に黒光りする"鬼"の文字を"羅"の文字に切り替えた大谷吉継。後戻り不可能の"超常なる鬼の力"を体内から解き放った吉継は、関ヶ原の空に向けて大気を揺るがす壮絶な咆哮を吼え放った


「──バオオオオォォォォォオオオオオッッ──!!」


 咆哮を発しながら、吉継の体が凄まじい勢いで巨大化していくと、着ていた着物と陣羽織が破れ、筋肉がはち切れんばかりに膨れ上がり、肌は漆黒に染まっていく。

 そして、爬虫類のような長い尻尾が伸びると、背中からは逆刃のような漆黒のヒレが生えた。


 "羅"の文字が浮かぶ目は赤く染まって、額の二本の鬼の角は長く太く伸びて後ろに反り返った。顔は凶悪な牙が生えた上下の顎が前方に向けて伸び、鰐(わに)のそれに似た顔つきとなった。

 両手の鬼の爪は闇よりも黒く染まり、人の命を刈り取る為だけに長く鋭く伸びていく。憤怒を宿した羅刹刑部のその姿はまるで──西洋の書物が描く"悪魔"のようであった。


「……あ……ああ……あああッ……!!」


 居並んだ東軍の武将や兵たちが、"悪魔"と化した大谷吉継の姿を目にしながら悲鳴のような声を上げた。その体躯は、人間の倍以上である。

 羅刹刑部は地獄の底から届いたような低い唸り声を発しながら、目があっただけで呪われそうなほどに赤い両目を東軍の武将に差し向けた。


「……た、退却……退却ッッ──!!」


 赤備えを着込んだ井伊直政が叫びながら背を向けて走り出すと、羅刹刑部は筋肉質な両脚をバネのように使って瞬時に跳躍し、長い鬼の黒爪を振り降ろす。

 重厚な武者鎧ごと背中を大きく抉られ、地面に倒れ伏して絶命した井伊直政の姿を戦慄の面持ちで見やった福島正則と藤堂高虎。


「──う、ウォオオオッッ──!!」

「──こンの悪鬼めがぁぁああッッ──!!」


 怯える自身の心を奮い立たせるようにして雄叫びを張り上げながら二人は刀で斬り掛かったが、羅刹刑部は軽々と両手の鬼の爪を振るって重厚な武者鎧を引きちぎりながら歴戦の二人の武将を難なく殺害した。


「──グゥウウウウッッ!! グォォオオオオオオッッ──!!」


 そして、赤い目を光らせながらいまだ収まらぬ憤怒の咆哮を天に向かって張り上げた羅刹刑部は、"裏切り者"小早川秀秋がいる松尾山の頂上を睨みつけた。


「──ヴァオオォォォオオオッッ──!!」


 獣のように吼えた羅刹刑部は前かがみになって両手を地面につけると、手足を使って関ヶ原の大地を蹴り上げながら尋常ならざる速度で疾駆を開始した。

 羅刹刑部の進行方向に立つ兵たちは皆虫けらの如く次々と弾き飛ばされて宙空に打ち上げられていく。


「嗚呼ああッッ!! 大谷殿が完全に悪鬼となったッッ──!! こっちに来るではないかッッ!! う嗚呼ああッッ──!!」


 松尾山城の城壁の上から戦場を見下ろしていた秀秋が絶叫しながら、松尾山の斜面を猛然と駆け上がってくる羅刹刑部の恐ろしい姿に震え上がった。


「殿……! 兵を総動員してあの悪鬼めを討ち滅ぼしましょうぞ……!」

「で、できるわけがあるまい……! おぬしも東軍の武将がやられる様を見たであろうッッ!? それに大谷殿が狙っているのは、間違いなく西軍を裏切ったこの私ではないかよッッ──!! う嗚呼ああッッ──!!」


 秀秋はこの世の終わりだというように両手で頭を抱えて城壁の上でひざまづいてしまった。


「そ、そうだ……! こうなれば、西軍に戻るより他にない……! 大谷殿に誠心誠意詫びて、今からでも西軍につこう……そうするべきだ……!」

「殿、ご乱心なされるな……! それこそ家康公に殺されるでござろう……!」

「──では、もう終わりではないかっっ──嗚呼ああああっっ!!」


 秀秋が白目を向いて天に向かって叫んだ次の瞬間、松尾山の斜面から天高く跳躍した漆黒の巨影がその頭上を飛んだ。


「──グルルルルルッッ!!」

「……ひいっっ──!!」


 羅刹刑部が小早川の家臣を踏み潰しながら松尾山城の城壁に着地すると、喉を唸らせながらゆっくりと振り返って小早川秀秋と視線を合わせた。


「お、大谷殿ぉ……! 聞いてくだされぇ……! 私は……私は、脅されたのだあ……! ……家康に西軍を裏切れと、幾度も脅されたのだぁ……! 今から東軍を裏切る……! だから……だからどうか……どうにか、私の命だけは……!」

「──グゥルルルルッッ!!」


 羅刹刑部は、号泣しながら両手を合わせて命乞いする秀秋の姿を憤怒の赤い眼で見下ろしながら喉を激しく唸らせ、見た者の肝が冷えるどころか凍りつくような恐ろしい威嚇を発し続けた。

 そして、武者鎧ごと人肉を斬り裂く鋭い鬼の爪が伸びた両手を見せつけながら、一歩、また一歩と秀秋に近づいていく。


「……ひィッ! ──うひィッ……意思、疎通、不可能……!!」


 秀秋は迫りくる羅刹刑部のあまりの恐ろしさに嗚咽混じりの悲鳴を漏らしながら、尻もちをついた状態で城壁の上を後ずさっていく。

 そして遂には城壁の端へと辿り着き、もうこれ以上引き下がることが出来ないとなった秀秋は顔を横に向けると、救いを求めて城壁の下を覗き見た。


「……うぅ……ううっ──!!」


 しかし、ここは松尾山の山頂に築かれた山城である。そそり立った城壁の下は断崖絶壁となっており、そこに救いなどなければ、例え飛び降りたとしても命がないことはもう疑いようがなかった。

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