桃姫の体に飛び掛かって体内に取り込んだ"大悪路王"は、しばしの間、身を固めた。
物見櫓を粉砕しながら亀のように巨体を丸めたその姿はまるで、桃姫の体を丹念に味わっているかのようであった。
事実、"大悪路王"の胸奥に居る役小角は恍惚の笑みを浮かべていた。
「──ああ、桃の娘よ──おぬしは今、わしと共に"大悪路王"の中におる──こんなにも素晴らしいことが他にあるまいか──」
役小角は漆黒に染まった両眼から"黒液"の涙をしとどに垂れ流しながら、得も言われぬ深い愉悦を噛み締めながら声を漏らした。
そして、巨体を丸めていた"大悪路王"はゆっくりと顔を持ち上げると、真紅の"魔眼"を大きく見開くと同時に、背中から"千本の黒腕"をドバッ──と一斉に生え伸ばした。
その姿はさながら"漆黒のヤマアラシ"のようであった。大小様々な"黒腕"が千本、身を丸めた"大悪路王"の背中から関ヶ原の大地に向けて勢いよく伸びる。
その"黒腕"のうちの一本は、馬に乗って走る東軍の武将の背後に迫りくると、武将の体を掴んで上空に持ち上げた。
乗り手を失った馬は"黒腕"を恐れて、口からよだれを吐き出しながら目をひん剥いて全力で走った。
「──殿ォッ!?」
「ギゃああッッ──!!」
馬に乗って後に続いていた家来が振り返りながら叫んだ。捕まった武将は宙空で悲鳴を発しながらもがくが、"黒腕"は万力の如き剛力で武将の体をキツく締めあげてアバラ骨を粉砕していく。
遂には武将が抵抗をやめると、五本の"黒指"が武将の体を包み込むように大きく広がり、武者鎧をまとったその体をゴクッゴクッ──と"黒腕"の中に飲み込んでいった。
「……ッ!」
その光景はまるで、"黒蛇"が人間を丸呑みにしているかのようであり、家来は絶句しながら目を逸らすと、関ヶ原の外に向けて馬を疾駆させた。
また別の"黒腕"は、迫りくる"黒液"の津波から逃げる足軽の一団の前にドスンッ──と音を立てながら"通せんぼ"するように落とされた。
「──ひぃっ……!?」
突如として眼前に現れた巨大な"黒腕"に慄きながら腰を抜かした足軽たちに向けて、足軽と比すれば大壁のような大きさの"黒腕"がズズズズ──と地面をこすりながら迫ってきた。
「……っ、あァァあッ──!? おっかあァッッ──!!」
後方からは"黒液"の津波が押し寄せ、前方からは"黒腕"の大壁が迫りくる。
若い足軽の一人は、絶望に顔を歪ませながら天に向かって泣き叫ぶと、"黒腕"と"黒液"に体を挟まれ、なす術なく飲み込まれていった。
「──かかか──これよ──これぞ、"真の悪行"──"闇の大空華"よ──」
"大悪路王"の視野を通して、それらの地獄絵図を見やった役小角は満面の笑みを浮かべながら深く頷いた。
背中から千本の"黒腕"を"闇の花びら"のように伸ばした"大悪路王"は、二本足で立ち上がると"黒海"と化した関ヶ原の戦場を闊歩して横断していく。
そして、家康が東軍の本陣を敷いている桃配山の斜面に向けて、高く上げた漆黒の足を勢いよく踏み降ろすと、桃配山に生える緑の木々を足から噴き出した"黒液"で瞬く間に黒く汚染しながら、一歩、また一歩と桃配山を登っていった。
「──かかか──この日ノ本、何処にも逃げ場などありはせぬぞ──家康──」
桃配山の頂上まで登り、無人となった東軍の本陣を踏みつけながら仁王立ちした"大悪路王"の視界を得た役小角は、遥か東の地平線に砂煙を立てながら馬で逃げる一団を見つけながら特徴的なしゃがれ声で告げた。
「──"大悪路王"が開花した今──この日ノ本は、暗黒に染まることが決まりもうしたわいの──かかかかかかッッ──!!」
「──バオォッ──!! ──バオォッ──!! ──バオォッ──!! ──バオォッ──!!」
胸奥で操縦している役小角の高笑いに合わせるように、桃配山の山頂に立った"大悪路王"もまた、両手を大きく広げて顎が裂けるほどの大口を開き、おぞましい爆音で東に向けて盛大な笑い声を吼え放った。
その大気を震わす"大悪路王"の不気味な笑い声は、遥か東の彼方を走る徳川の一団の耳にも届いた。
「ッ、ひぃ……! 終わりじゃあ……! ──日ノ本の終わりじゃあ……!」
白馬に乗って一団の中央を疾駆する東軍総大将・徳川家康が関ヶ原から鳴り響く"大悪路王"の笑い声に対して、血の気の引いた顔で声を漏らすと、一心不乱に馬を江戸へと走らせた。
「──のう、道満、晴明──おぬしらは、この山──"桃配山"の名前の由来を知っておるかのう──」
役小角は不意に"大悪路王"の胸奥に居並んだ道満と晴明に問いかけた。
道満と晴明が互いの顔を呪符越しに見合わせて沈黙して返すと、"大悪路王"の胸奥に広がる暗黒空間にて、二人の一歩後ろに立つ役小角は口を開いた。
「──今より千年前。壬申の乱において天武天皇がこの山で兵らに桃を配って食わせ、勝利を祈願したのよ──かかか。その逸話があるゆえ、家康は験を担いでこの"桃配山"を東軍の本陣としたのじゃろう──」
役小角はそう言うと、"大悪路王"の体からあふれ出る"黒液"で黒く染まっていく桃配山の山肌を見下ろした。
そして、深くため息をついたあと、口を開いた。
「──わしがな──皇(みかど)に桃を配るように進言したのじゃよ──」
「……なんとッ──!」
「……ははぁッ──!」
役小角の言葉に、道満と晴明は感服の声を上げて返した。
「──因果なものじゃろう──"千年善行"を始めたばかりのわしが、ここで皇に桃を配らせ──そして今──その山を黒く染め上げておるのだからのう──」
役小角は感慨深げに言うと、目を閉じてその両眼から静かに"黒液"を垂れ流させた。
「──桃──桃──桃──かかか。思えば、わしの人生は──"桃"、ばかりじゃのう──」
そう言って、静かに目を開いた役小角が特徴的なしゃがれた声で告げる。
「──桃太郎よ──これがおぬしの"御師匠様"じゃ──」
独白するようにそう告げた役小角は、桃配山の頂上に立つ"大悪路王"を関ヶ原に向けて振り返らせた。その瞬間、漆黒の眼をこれ以上ないほどに大きく見開いた。
「──な、んじゃ、あ──ありゃあ──」
「……っッ──!?」
「……ッッ──!?」
"大悪路王"の視界を得た道満と晴明もまた、呪符の下でこれ以上ないほどに大きく眼を見開いた。
関ヶ原を覆い尽くした"黒液"の大海原、空は灰色の雲に分厚く包まれており、まさに地獄の光景──その地獄の中にあって、分厚い雲を割って一筋の黄金色に光り輝く柱が伸びている。
「──も──桃の娘──っっ──!?」
驚愕した役小角が声を漏らして、息を呑んだ。天空から"下界"に向けて伸びる、光の粒子が織りなす一本の"黄金の柱"。
その"黄金の柱"の中を八枚の光の羽衣をなびかせて舞い踊らせながら、"神仏融合体・桃姫"が闇に堕ちた関ヶ原の戦場に降臨するのであった。