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3.三日天下の末路

「……こんなはずではッッ──! こんなはずではッッ──!!」


 20年前の夏──雨降る竹藪の中を明智光秀は泣きわめきながら亡者のようにさまよい続けていた。

 本能寺の変を引き起こし、主君である織田信長を打ち倒したまでは順調だったものの、光秀に賛同する武将の数は想定より遥かに少なく、朝廷からも"天下人"ではなく"謀反人"として扱われ、瞬く間に窮地へと追いやられた。

 結果として、大義を掲げた羽柴秀吉の大軍勢との戦いに無惨に敗れ、家臣もすべて失い"三日天下の末路"として何処とも知れぬ、じめじめとした薄暗い竹藪の中を一人でさまようこととなった。


「……はぁ……はぁ……! ちくしょう……! ちくしょう……! みな信長が憎いと影で言っておったではないか……! わしはみなの期待を一身に背負って天誅を下しただけ──なのになぜ、わしが逆賊にならねばならんのだ……! わしは、第六天魔王を誅殺した日ノ本の英雄であるのにッッ──!!」


 光秀は、まげのほどけたみすぼらしい白髪交じりの長い髪を振り乱しながら、汗と泥とで汚れた顔を憎悪と怨嗟で歪めながら、訴えるように声を発した。


「──甚さんっ! 本当にここらで明智の姿を見ただか……!?」

「わしゃ見とらんよ! んだが、おまつがこの竹藪んなかにくたびれた男がもぐり込んだのを見たっつー話だっ……!」

「こげな雨んなか竹藪に入るような酔狂者はおらん……! そいつぁ、間違いなく明智だべ! わしらで首取って一攫千金だっ──!」

「──んだなっ! 手分けしてよぉく探すべ……!」


 鎌と鍬と竹槍を手にした百姓姿の男三人が互いに声を掛け合う中、光秀は濡れた地面に身を伏せて息を殺した。


「……なにゆえ……なにゆえ、わしはこんな目に合わんといかんのだ──わしは……天下人……天下人であるぞ……」


 光秀は冷たい地面につっぷして泥まみれになった顔から涙を流して静かに嗚咽を漏らすと、ガサッ──という足音と共に草履を履いた汚い足が眼の前に置かれた。


「──見つけたでぇ……逆賊、明智光秀──」

「──ひ……」


 光秀が顔を上げると、無骨な竹槍の尖った先端が向けられ、歯抜けの口で笑みを見せた中年の百姓の男が嬉々とした声を上げた。


「──天下人の首、頂きじゃぁッッ──!!」

「──う、うわぁっ……ああッッ!!」


 光秀は上ずった叫び声を発しながら、すがりつくように百姓の脚に飛びつくと、そのまま地面に引き倒した。


「──がぁッ! 暴れるでねぇ! 大人しく死ぬだぁよッッ──!!」

「──死んでなるものかぁ! こんなところで、死んでなるものかァッッ──!!」


 倒れた中年の百姓の体を両手で掴んだ光秀は、泥にまみれながら鬼気迫る顔で叫んだ。その騒ぎを聞きつけて、鎌と鍬を持った二人の若い百姓が駆けつけてくる。


「っ……!? 甚さんっっ……!!」

「──こいつが明智で間違いねぇだっっ!! 掛かれっっ……!! 殺せぇっっ──!!」

「う、うぉおおおっっ──!!」


 倒れた中年の百姓は光秀の体を逆に掴んで拘束しながら叫ぶと、鎌と鍬を持った若い百姓二人が雄叫びを上げながら光秀目掛けて迫った。


「ぐッ……ぎいいいッッ──!!」


 光秀は決死の形相で歯を食いしばりながら、中年の百姓の体を持ち上げて形勢を逆転させると、若い百姓が両手で握りしめて振り下ろした渾身の鍬の一撃をその百姓の背中で防いだ。


「んギャアあっッ──!!」

「──ああっ!? 甚さんっっ!!」


 猛烈な鍬の一撃を背中に食らった中年の百姓は、野太い断末魔の声を発しながら白目をひん剥いて絶命すると、若い百姓は恐れ慄きながら鍬から両手を放して後ずさった。


「な、なにしとるだバカたれッッ……!! おめっ、甚さん殺してどないするだッッ……!!」


 鎌を握った若い百姓が動揺した若い百姓に追いついて罵ると、光秀はその隙に百姓の死体を蹴り飛ばして這いつくばるように立ち上がったあと、ふらふらとした足取りで逃げ出した。

 逃げ出したといっても疲労困憊している光秀である、すぐに鎌を振り上げながら追いかけてきた若い百姓に追いつかれ、その背中目掛けて錆びついた鎌による一太刀を浴びせかけられた。


「──逃げんじゃねぇッッ、明智ッッ……!!」

「──がぁっっ!!」


 背中に鎌の刃が突き刺さった光秀はうめきながら倒れ込むと、前方に広がった泥の水たまりの中に突っ伏した。

 うつ伏せになった光秀の背中に馬乗りになった若い百姓は鎌を背中から抜き取ると、鮮血の軌道で弧を描きながら、再び光秀の背中に容赦なく振り下ろした。


「──死ねぇッッ!! 死ぬだぁよッッ!! はよぅ死ねぇッッ──!!」

「──おぼッ、ごぼぼッ……!!」


 致命傷を与えられるほどの威力はない小ぶりかつ切れ味の悪くなった草刈り鎌の刃で幾度も背中を突き刺されながら、若い百姓に馬乗りになられた光秀は、泥の水たまりに顔面を押し付けられて溺れ苦しんだ。

 慕っていた中年の百姓を誤って殺害してしまった若い百姓が雨に打たれながら呆然とその凄惨な光景を眺め見ていると、不意にチリン──という場違いな美しい音色を耳にした。


「……っ──?」


 若い百姓が背後を振り返った瞬間、満面の笑みを浮かべた役小角と目があった。

 そして、役小角が手にした〈黄金の錫杖〉の三つ金輪が並んだ頭が百姓の左胸にスッ──と当てられる。


「──オン」


 満面の笑みを浮かべた役小角が静かに声を発する。そして、左手で片合掌しながら右手に持った〈黄金の錫杖〉をトン──と軽く押し出すと、若い百姓の左胸にぽっかりと丸い穴が空いた。


「……え──?」


 自分の身に何が起きたのかわからないまま困惑の声を漏らした若い百姓は次の瞬間、ドサッ──と地面に倒れ伏して目を見開いたまま絶命した。

 役小角は若い百姓の死体をゆっくりとまたいで歩き、雨降る竹藪の中をチリンチリン──と〈黄金の錫杖〉の金輪を鳴らしながら歩いていく。


「……死んだかッッ──!? ……死んだだか、明智ッッ──!?」

「……ごぶっ……ごぼぶ……」

「ったく……しっぶてぇだなぁッッ──!! こいつぁッッ──!!」

「──のう、その者。わしの知り合いなんじゃが。そのくらいで勘弁してやってはくれんかのう──」


 光秀に馬乗りになった若い百姓に向けて、投げかけられた特徴的なしゃがれ声。鎌を振り上げた百姓がその声の主を見た瞬間、その頭がポォン──と竹藪の奥に吹き飛んだ。

 そして、首から上を失った百姓の死体が光秀の背中の上から転がり落ちるようにして、ドチャッ──と音を立てながら泥の水たまりの中に倒れ込んだ。


「──おーい、光秀殿。まだ生きとるかのう──」


 満面の笑みを浮かべた役小角が声をかけながら近づいてくると、水たまりの前にしゃがみ込んで、〈黄金の錫杖〉の頭で水たまりに沈んだ光秀の顔を泥水の中からグイッ──と持ち上げた。


「……ぐぼっ……! ごばっ……!」


 泥にまみれた苦悶の表情を浮かべる光秀は、その口内から血と泥が混じった液体をゴボゴボ──と吐き出した。


「──かかか。すまんのう、もちっとはよう来てやればよかった。しかし、おぬしが逃げ回ったせいでもあるのじゃぞ……? くかかかかか──」


 そう言った役小角は左手で白装束の懐に手を差し入れると、"愚羅"と赤い筆文字で書かれた灰色に輝く液体が入った小瓶を取り出した。


「──本能寺の件は見事じゃった。そそのかしたわしが言うのもなんじゃが……かかか。よもや、本当に実行に移すとは思わんかったでな──その覚悟、なかなか気に入りましたわいの」


 漆黒の眼を細めた役小角は感心しようにそう告げると、"愚羅"の小瓶の蓋を親指でキュポンッ──と外して飛ばした。


「──しかし、"三日天下"……くかかかか。のう、光秀殿。おぬしの人望が低いことは、わしの責任ではないよな──?」

「……がはぁ……ばはぁ……」


 役小角はからかうように光秀に声をかけたが、泥が詰まった光秀の耳にはほとんどその言葉は聞こえておらず、背中に受けた鎌の裂傷も酷く、目は虚ろで既に虫の息であった。


「──まぁつまるところ、おぬしは"天下人"の器ではなかったということだのう……だが、わしはおぬしの勇気ある行動に敬意を評したい。強引にでも歴史を突き動かそうとするその野心に対しては、なにがしかの"褒美"を与える必要がありますわいの──」


 役小角はそう言うと、〈黄金の錫杖〉を手元に引き寄せながら傾けて、近づけた光秀の口をガバッ──と大きく開かせる。

 そして、左手に持った"愚羅"の小瓶を差し出すと、鈍い光を放つ灰色の液体を光秀の泥と血で汚れた口の中にドロドロ──と流し込んだ。


「──ごっ……ごくっ……ごクッ」


 液体を流し込まれた光秀の喉が受動的に動いて、この世のものとは思えぬおぞましい味の粘液をすべて嚥下すると、役小角は〈黄金の錫杖〉を光秀の頭から引き抜いた。

 支えを失った頭がバチャ──と泥水の中に落ちると、役小角は立ち上がって〈黄金の錫杖〉で地面を突き、金輪をチリン──とひときわ大きく鳴らした。


「──"愚羅の八天鬼人"……その"鬼の力"、どう使うかはおぬしの自由──あとは好きにせい、光秀殿──」


 役小角は満面の笑みで泥の中に突っ伏す光秀の背中にそう告げると、くるりと振り返って雨脚が強くなってきた竹藪を見やった。

 そして、軽く息をはきながら、白い眉毛を眉間に寄せて、小さく口を開いた。


「──うーむ。これがバレたら鬼蝶殿に相当怒られるかのう……まあ、よいか。くかかかかかッッ──!!」


 役小角はそう呟いてから一転、開き直ったように高笑いして歩き出すと、煙雨の中に姿を消していく。そんな役小角の笑い声をかすかに耳に入れた光秀の後頭部、そのうなじの辺りから黒く短い鬼の一本角がズズズ──と伸び生える。

 それと同時に、鎌で幾度も斬り裂かれた背中の裂傷が瞬く間に塞がって治癒していくと、遂には泥水の中に両手を突いてザバッ──とその上体を起こした。


「ッ、かッ……! ぜぇッ……! ぜはーッ……! ぜはーッ……!」


 肩を揺らしながら荒い呼吸を繰り返す明智光秀。その黄色く染まった鬼の瞳には、灰色の"鬼"の文字が鈍く光り輝くのであった。

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