29年前、鬼ヶ島にて──。
桃太郎による鬼退治の虐殺を経て、役小角は幼い巌鬼が広場で黒毛牛をむさぼり喰う様子を満面の笑みで眺め見た後、おもむろに振り返ると鬼ノ城へと入っていった。
そして、城内の各所に転がる鬼女たちの亡骸に一瞥をくれると、左手を上げた片合掌で供養しながら、右手に携える〈黄金の錫杖〉の金輪をチリンチリン──と鳴らして"奥の間"へと歩んでいく。
「──かかか。桃……ようやりおった──わしは実に誇らしいぞ──」
役小角は仏刀によって斬り伏せられた鬼女と子鬼が散らばった"奥の間"の惨状を見渡して、弟子の鬼退治の出来に満足気に頷くと、鬼ヶ島が描かれた黄金の屏風の前に敷かれた布団を見やった。
「──のう、鬼の子よ。いつまでそこに隠れておるつもりじゃ……桃太郎はもうおらんぞ──」
「……ッ」
役小角の問い掛けに黒い血で染まった布団がモゾッ──と動くと、役小角は〈黄金の錫杖〉をつきながら布団の前まで移動した。
そして、三つの金輪が並んだ〈黄金の錫杖〉の頭を布団の下にグイッ──と差し込むと、持ち上げてみせる。
「……ひっ──!」
弱々しい悲鳴を発して、ほんの一瞬だけ顔をのぞかせた朱色の肌をした子鬼が、持ち上げられた布団の端を両手で掴んで、くるまるようにうずくまった。
そして、布団の上からでもわかるほどにガタガタと震えながら、ゆっくりと布団の隙間から役小角の顔色を窺うようにのぞき見る。
「──おぬし、"八天鬼・荒羅"の息子だな……?」
役小角が子鬼の顔を見て看破すると、子鬼は驚いたように黄色い目を見開いてから、怖ず怖ずと身を包んでいた布団をほどいて立ち上がった。
役小角に自身の姿を見せた子鬼は、赤子同然の巌鬼よりもだいぶ成長している見た目で、齢にして10歳の少年鬼といったところであった。
「人間……お前……トト様のこと……知ってるのか……?」
燃えるような赤い髪を持ち、黄色い三本角を額から生やした少年鬼は怯えながらも尋ね聞くと、役小角は静かに頷いてから口を開いた。
「……よぉく知っとる──"八天鬼・荒羅"。特級鬼で構成された八天鬼の中でも、とりわけ強く……そして、とりわけ悪い鬼だのう──かかか」
「……そ、そうだ! トト様は、どんな鬼よりも強くて悪いんだっ……! だから、鬼ヶ島の首領にふさわしいのは、温羅様じゃなくて……ほんとは、トト様なんだっ……!」
役小角の言葉を受けて、朱肌の少年鬼は鬼の目を爛々と輝かせながら小さな鬼の牙を剥き出して自慢するように胸を張りながら言った。
「ほう、そうかそうか……しかし、温羅と荒羅は、そのどちらもが桃太郎によって退治されましたわいの──今や鬼ヶ島に残されたのは、"温羅の息子"と"荒羅の息子"の二体だけ……さぁて、どちらが鬼ヶ島の首領に相応しいのかのう──かかか──」
「──そんなの俺だっ! 俺に決まってるだろっ! なぜなら俺のほうが巌鬼より断然に強い! ──巌鬼はどこだッ! 今すぐぶん殴って、俺の手下にしてやるッ──!」
朱肌の少年鬼は威勢よく叫ぶと役小角の横を突っ走って"奥の間"を出ていこうとする。しかしすかさず、役小角は〈黄金の錫杖〉をその足元にスッ──と伸ばして少年鬼をすっ転ばした。
盛大に転倒した少年鬼は鬼女の亡骸の上に倒れ込むと、引きつった顔で息絶えた鬼女と目を合わせてから、役小角に向けて振り返った。
「ッ……何だあッ! 何すンだッ、人間ッ──! 俺は刃刃鬼様だぞ! 八天鬼最強、荒羅の息子ッ──! 荒羅刃刃鬼(あらはばき)様なンだぞッッ──!!」
荒羅刃刃鬼と名乗った少年鬼は、まだ幼さが残るものの恐ろしい"鬼の睨み"を効かせながら、役小角に向けて吼えるように叫んだ。
役小角はそんな刃刃鬼の顔を見やりながら、白い顎ヒゲを左手で撫でつけると漆黒の眼を細めて思案した。
──……荒羅の息子……刃刃鬼か……こいつは、ちと厄介だのう……。
──荒羅ゆずりの凶暴性もあるが……何より育ち過ぎてるがゆえに、ここから手懐けるのは難儀しそうじゃ……。
──……うむ……後々の火種となり得ることを考えれば……ここで、始末しておくべきか……?
役小角は内心で自問自答しながら、鬼女の亡骸に寄りかかった刃刃鬼を静かに見定める。
刃刃鬼は、沈黙したまま見つめてくる役小角から得も言われぬ不穏な気配を感じ取りながらも、"鬼の睨み"を向け続けた。
──殺すか。
結論を出した役小角は〈黄金の錫杖〉の頭をスッ──と持ち上げて刃刃鬼に差し向ける。その瞬間、殺されることを直感で理解した刃刃鬼は"鬼の睨み"を解くと、一転怯えた表情になって背後の鬼女の亡骸にすがりついた。
「──ああ、カカぁっっ!! カカ様ぁっっ──!! 俺ぁ、まだ死にたくねぇよぉっっ──”!」
刃刃鬼は鬼女の物言わぬ体を両手で揺さぶりながら懸命に叫んだ。その光景を見た役小角は白い眉毛を眉間に寄せると、差し向けていた〈黄金の錫杖〉の頭をわずかに下げる。
それを横目で見やった刃刃鬼はニヤリとした笑みを浮かべながら素早く体をひねった。そして勢いそのまま、床を蹴り上げると、役小角に向けて咆哮しながら飛び掛かる。
「──グルラァァアアアッッ──!!」
「──滑稽──」
片眉を持ち上げながら告げた役小角は、両手の黒い爪を伸ばして迫りくる刃刃鬼に向けて鼻で笑うと、手にした〈黄金の錫杖〉を軽く振り払って、刃刃鬼の側頭部をカァン──と殴りつけた。
「ッ、ぐぎィッッ──!?」
その軽い動作に対して、あまりにも大きすぎる衝撃に激しいうめき声を発した刃刃鬼は、鬼の目をひん剥きながら床の上を転がった。
「──滑稽、滑稽、烏骨鶏(うこっけい)──かかか。おぬし、中々に面白い子鬼だわいの──考えが変わった。おぬしは温羅坊の"予備"として生かす──」
満面の笑みを浮かべた役小角は、舌を伸ばしてよだれを垂らしながら床に倒れ伏した刃刃鬼に向かってそう告げると、白装束の懐から呪札の束をスッ──と取り出して、"奥の間"に呪札門を開いた。
「──しかし、巌鬼の近くにおられると中々に厄介でな──刃刃鬼、おぬしには"四国"に飛んでもらうぞ──オン──」
役小角は〈黄金の錫杖〉の頭を刃刃鬼に向けてそう告げると、ふわりと宙空に浮かばせたその体を呪札門の先に見える四万十川の河原に向けて、放り投げるように飛ばした。
「ッ、うぎッ……!」
四万十川の砂利の上に雑に落とされた刃刃鬼はうめき声を漏らすと、河原に倒れ伏したまま、呪札門の向こう側に見える役小角の顔を睨みつけた。
「──刃刃鬼、せいぜい"予備"としての務めを果たすのじゃぞ……くかかかかかッッ──!!」
役小角はそう言って高笑いしながら呪札門を閉じると、刃刃鬼だけが見知らぬ四国の土地に残された。
「……ぐぅッ──! 俺はっ……"予備"、なんかじゃ──ねェッ……」
両腕に力を入れて起き上がろうとした刃刃鬼。しかし、力が入らず仰向けに寝転んだ刃刃鬼は、真っ赤に染まっていく四国の夕焼け空を憎々しげに睨みつけると、気を失って目を閉じた。
そんな刃刃鬼の様子を四万十川西岸の鬱蒼と生い茂った森の中から、妖しく光った妖怪たちの青い眼がジッ──と見ていたのであった。