「──んめッ……んめッ……!!」
四万十川西岸の森の中にある洞穴の奥深く、並ぶ燭台によって明るく照らし出されたその開けた空間にて、朱肌の少年鬼・刃刃鬼がザルに盛られた新鮮な川魚に手を伸ばしては、休むことなく喰らい続けていた。
鬼の牙を晒しながら豪快に食事をするその様子をカワウソに似た妖怪であるカボソの集団が距離を取りながら恐る恐る青い目で見ていた。
「……こりゃぁ、間違いなく鬼子(おにご)だべ……本当に連れ帰って大丈夫だったんだべか……?」
「……けんども、あのまま置いとくわけにもいかんでしょ……日が暮れたら"猿猴(えんこ)"が対岸から出てくるんぞ……」
「……猿猴に取られるか、カボソが取るか……そういう話だんべな……」
洞穴の壁際に身を寄せあったカボソたちがひそひそ声で話し合っていると、あぐらをかいて川魚を喰らっていた刃刃鬼が黄色い鬼の目をギロリと向けた。
「ひっ……し、四万十の魚は……お、お口に、おあいになりました、でごぜぇますか……?」
紺色の前掛けを付けたカボソの一匹が、もみ手をしながら刃刃鬼に声をかけると、刃刃鬼は口から魚の骨をペッ──と吐き出しながら口を開いた。
「──お前ら、何をそんなに怯えている……俺がそんなに恐ろしいのかよ?」
刃刃鬼はまだ幼さの残る鬼の声でそういうと、メガネを掛けたカボソが引きつった笑みを浮かべながら口を開いた。
「あ、あっしらカボソは、四国のしがない田舎妖怪でやんして……本物の"鬼様"を見るのが初めてなのでやんす。もちろんその、お噂はかねがね聞いてやんす、へぇ……なんでも、人間どもに臆さずに立ち向かうという……へぇ、そのようなお噂を……」
「わしらなんてぇのは、せいぜいが釣りしてる人間を驚かしたり、いたずらしたりするのが関の山で……人間の村を襲って殺す……なんてぇことをやってのける鬼様の存在には、わしら強い憧れを抱いておりましたのでごぜぇます……」
「──ふーん、そうかい」
メガネのカボソの言葉に前掛けのカボソが同調して答えると、刃刃鬼は満足気に頷いたあとに、たらふく喰った川魚で膨れた腹を撫でた。
「──んで、俺になんかしてほしいことがあんだろ? こそこそ話してないで、はっきり言えよ」
「……っ!?」
刃刃鬼の言葉にカボソの集団はギョッとしながら互いに顔を見合わせる。そして怖ず怖ずと前掛けが刃刃鬼に近づくと、地面に落ちていた棒を拾い上げながら口を開いた。
「お見通しでごぜぇましたか……その、実はでごぜぇますね……わしら四万十の西岸に棲むカボソは、東岸に棲む猿猴という猿に似た河童どもと長年にわたって、縄張り争いをしておりまして……」
前掛けは、四万十川の両岸にいるカボソと猿猴の絵を棒で地面に描きながら刃刃鬼に説明した。
「それが最近になって、児啼爺(こなきじじい)という名の頭の回る妖怪を猿猴どもは仲間に引き入れまして……夜な夜な対岸まで渡ってきては、わしらカボソを四万十から追い出そうとするのでごぜぇますよ……」
そう言いながら前掛けは、猿猴の側に赤ん坊の格好をした老人の絵を描いて記した。
「──なるほどな……それで、"鬼の力"が借りたいってか」
「……その通りでごぜぇます……カボソの側に拾われたのは何かの"ご縁"と思って……わしらに、その"鬼の力"をどうかお貸し頂けねぇでしょうか……?」
前掛けがそう言って毛深い頭を下げると、刃刃鬼の右腕が伸びて、茶色い頭をガシッ──と掴んだ。
「──俺はよォ、"ご縁"って言葉が嫌いなんだ……生きていくのに、"ご縁"なんてもンは必要ねぇ──すべては、"自力"で掴み取ンだよッッ……!!」
「──あ、あがっ……あががっっ……!」
刃刃鬼は前掛けの頭を握り潰そうと力を込めたもののカボソの頭蓋骨も相当に硬く、今の己の力では粉砕できないと理解して、掴んでいた頭を解放した。
「──ひ、ひぎぃっ……ひぎぃぃっっ!!」
完全に怯えきった前掛けは、甲高い悲鳴を発しながら地面を這いずるようにしてカボソの集団の元まで戻っていった。
「……まぁ、いいや。魚は美味かったし、児啼爺ってのも名前からして気に食わねぇ……それに俺はサルが大嫌いだからよ──いいぜ、殺してきてやるよ」
「い、今からでやんすか──!?」
「──たりめぇだろッッ!!」
刃刃鬼に対して、メガネが慌てたように尋ねると、刃刃鬼は"鬼の睨み"を効かせながら吼えて返した。
その恐ろしい声を耳にしたカボソ全員が壁際で身を寄せ合いながら震え上がると、洞穴を出ていく刃刃鬼の背中を戦慄の眼差しで見送るのであった。
一方その頃、四万十川東岸の猿猴の砦にて──。
「今宵、あの醜いカワウソどもを一匹残らず始末する。準備はよろしいな──?」
東岸の森の中に木材で組まれた砦の上で、武装した猿猴の集団を見下ろしながら児啼爺が確認の声を発した。
「──ヴォオオオオッッ!!」
頭に鉢巻を締め、竹槍や斧、火のついた松明など、思い思いの武装をした猿猴たちが咆哮を上げて呼応すると、入り組んだ木製の砦のそこかしこで体を揺らした。
「そもそもにして、サルがカワウソ相手に縄張り争いをしていること事態がおかしいのだ……まったく、情けないのう」
児啼爺は黒い眼を細めると、やれやれと首を横に振りながらため息をはいた。
「しかし、わしが来たからにはサルが勝つ。この児啼爺、奥州妖怪頭目ぬらりひょんの旧友にして、百戦錬磨の知恵者じゃ。大船に乗ったつもりで──」
「──グルラァァアアアッッ──!!」
猿猴の集団に向けて演説をする児啼爺の背後に広がった真っ暗な夜の森から、この世のものとは思えぬ恐ろしい雄叫びが鳴り響いた。
次の瞬間、黄色い鬼の目を光らせ、両手から伸びる黒い爪を長く伸ばした刃刃鬼が森の中から児啼爺目掛けて襲い掛かった。
「──ぬんッ──!!」
驚愕しながら振り返った児啼爺は、咄嗟に両手を合わせて念を込めると、石化妖術を使って瞬時に全身を硬石へと転じた。
石化した児啼爺は、刃刃鬼が振り抜いた両手の鬼の爪による攻撃をガリッ──と硬い音を立てながら防いだが、そのハゲ頭の左右にはくっきりと斬り裂かれた痕跡が残された。
「──鬼ダッ──!! ──鬼ダァッッ──!!」
猿猴の一匹が赤い目をひん剥きながら、突如として現れた朱肌の少年鬼に向けて叫ぶと、砦に居た猿猴たちが一斉に吼えながら刃刃鬼に向かって飛び掛かってくる。
そして、刃刃鬼から遅れること10分──猿猴の砦に到着した武装したカボソたちは、その光景を見て愕然とした。
「……な、なんだぁ……こりゃぁ……」
「──遅かったなぁ、もう終わっちまったぞ……?」
猿猴の返り血を浴びて、朱色の体を真っ赤に染め上げた刃刃鬼が、手に握った瀕死の猿猴の頭を握り潰しながら言う。
「──俺が強過ぎるのか、この猿どもが弱過ぎるのか……まるで歯ごたえがなかったぜ」
「……ううっ」
カボソたちは刃刃鬼の言葉を耳にしながら、凄惨な状態が広がっている猿猴の砦を見て回った。
森の木々の間に組まれた猿猴の砦──その端々に物言わぬ猿猴の残骸が飛び散ってぶらさがっているのを見たカボソは嫌悪感に眉をひそめた。
「──残りは悲鳴を上げながら森の奥に逃げていっちまった……ったく、こんなのがのさばってるなんて、よほど平和なんだな、四国ってのはよ」
刃刃鬼はそう言って、握りしめた猿猴の死骸を口元に運ぶと、ぼたぼたと垂れる鮮血を喉を鳴らして飲み始めた。
「──んぐんぐッ……! ぷはァっ──かはは、悪くねぇ、悪くねぇ……! ──あぐッ、がぶッッ──!!」
そして、遂には猿猴の肩に喰らいついてその赤い肉を噛みちぎっては咀嚼して飲み込んでいく刃刃鬼。
カボソたちはその狂気の光景を目にすると、戦慄しながら小さく口を開いた。
「……妖怪の肉を……喰ってるでやんす……」
「……鬼様からしたら……妖怪も魚も……変わらんのだべ……」
「……わしら……とんでもねぇバケモンを拾っちまったんでねぇのか……」
「……今更どうすることもできねぇ……鬼様に従って……カボソが生き残ることを第一に考えるしかねぇべ……」
カボソたちがひそひそ声で話し合っていると、刃刃鬼が食べかけの猿猴の死骸を放り投げて歩き出した。
「──おいッッ!! 残ったのはてめぇだけだッッ!! さっさと変化を解けよジジイッッ──!!」
刃刃鬼は両手を合わせた状態で石化したままの児啼爺に向けて吼えるように告げた。
「──それともなんだッッ!? 俺と力比べしてぇってのかァ──!? ああン──!?」
そう叫んだ刃刃鬼は、両手を広げて児啼爺の石化した頭を掴もうとする。
「ひぃぃッッ!! 参ったッ、参ったぁッッ──! わしの負けじゃ! わしの負けぇっ──!!」
悲鳴を上げながら石化を解いた児啼爺が、半べそをかきながら尻もちをついて両手を上げた。
そのハゲ頭の左右には、刃刃鬼が振るった鬼の爪によって出来た痛々しい裂傷が十本走っていた。
「──降参する! ──すぐに四国から出ていく! だから、許してくれぇっっ──!!」
「鬼様っ、騙されないでくださいませ……! そいつは平気で嘘をつきます……!」
「──っ、余計なことを言うなカワウソっっ……!!」
両手を合わせて命乞いをする児啼爺に対してカボソの一匹が声を上げると、児啼爺はハゲ頭に血管を浮かばせながら激昂した。
「……俺はジジイに嫌な思いをさせられててな、お前みたいなジジイは端から生かしちゃおけねンだ──」
刃刃鬼は、自身を"四国送り"にした役小角の顔を思い浮かべながらそう言うと、鋭い鬼の爪が伸びる両手を児啼爺に向けた。
「ま、待てぇッッ……!! わしはおぬしに、"知恵"を貸そうではないかッッ──!!」
「──あン……?」
児啼爺は血走った目を大きく見開きながら、わめくように声を張り上げた。
「おぬしの"鬼の力"と、わしの"知恵"があれば、もはやその勢いを止められる者はこの四国にはおらぬッッ──!! さすればおぬしは、"四国の鬼大王"に君臨するのじゃッッ──!!」
「──……"四国の鬼大王"……」
刃刃鬼は児啼爺から放たれたその言葉を吟味するように口にすると、目を閉じて鬼の両手で腕を組んだ。
「鬼様……! そんな胡散臭いジジイの言うことを、信じちゃいけねぇでやんすよ……!」
「……誰が胡散臭いだッ……」
メガネが刃刃鬼に訴えると、児啼爺が水を差すなとでも言いたげにキッと睨みつけて小さく声を上げた。
「……俺はこいつの言うことを信じたわけじゃねぇ……俺は俺の"自力"のみを信じている……それなら確かに……ああ、俺は"四国の鬼大王"に君臨するだろうよ──」
「──だが、わしの"知恵"があれば、"もっと早く"、おぬしを鬼大王にできる……違うか──?」
刃刃鬼の言葉を受けた児啼爺は立ち上がりながらそう告げると、まだ年若く、成熟してない鬼である刃刃鬼の顔を見上げた。
「──いいねぇ……"もっと早く"か──」
刃刃鬼はニヤリと笑いながら児啼爺の言葉に納得したように頷いた。そして、児啼爺もまた刃刃鬼に対して頷いて返す。
──い、命拾いした……! まったく、子鬼風情がわしの肝を冷やしおって……!
──利用してやる……こうなれば、徹底的に利用してやるぞ、鬼の小僧め……ひひひ!
児啼爺は刃刃鬼に対して服従するような笑みを浮かべながらその内心では、"鬼の力"を利用して"四国妖怪頭目"として成り上がることを目論むのであった。