その年の夏は暑くなるのが遅かった。
夏休みが始まるまでは半袖じゃ肌寒く、学校でも無理に夏服にしなくていいと言われたくらいだ。
そのくせ、いざ暑くなり始めると一気に40度超えの日が連日続いていた。
エアコンをつけていないと、座っているだけでも汗が流れ落ちる。
そんな日が続くと、何もやる気が起きなかった。
だから夏休みをいいことに、ダラダラと寝て過ごしていた。
まあ、暑くなくても毎年夏休みはダラダラと過ごすのだが。
そんなオレの部屋に当たり前のように、毎日入り浸る佳穂。
驚くべきことに、オレが起きる前からいたり、逆に寝る頃になっても帰ろうとしなかった。
本人は何時間かは自分の家に帰ってると言っているが、泊った日もあったはずだ。
そんなふうにだらけ切った生活を続けているうちに、夏休みも残り3日なっていた。
「せっかくの夏休みなんだぜ? もっとやることあるだろ」
「けーちゃんには言われたくないかなー」
ベッドの上で寝転がりながら漫画を読んでるオレと、オレの机で何やら魔法陣みたいなものをノートに書いている佳穂。
どっちも暇だった。
有意義さでいえば、やや佳穂の方が上かもしれない。
このところ、ずっと真剣にノートと怪しげな本と向き合っている。
「今回はどんな黒魔術なんだ?」
「異世界に行く方法」
「あー、エレベーターを使ったり、紙を枕の下に入れて寝たりとかするやつだっけか?」
「あははは。それは都市伝説だよ。嘘くさいよね」
「お前のはどういう方法なんだよ?」
「黒魔術で宇宙と繋いで道を作って、その道を通って異世界に行くっていう方法だよ」
「お前のも十分、嘘くせぇぞ」
「んん? そうかなー? 結構、現実的な方法だと思うけど」
「お前の中のその現実は空想世界だ」
佳穂は手を止め、椅子を回転させてオレの方に体を向けた。
「ねえ、けーちゃん」
「ん?」
「もし、さ。道が開いたら、一緒に行こうね。異世界」
「いやだね」
「え? なんで!?」
目を丸くして驚いている。
オレからしたらなんで異世界に行くことを否定することに、そんなに驚けるのかの方が驚く。
「楽しいじゃん、異世界」
「いや、楽しいだろ」
「ん?」
「この世界も」
目をパチパチと瞬かせ、キョトンとした顔をする佳穂。
そうしたかと思うと、今度はにっこりと笑った。
「そっか。それならよかった」
なにがそんなに嬉しいのか、佳穂はニヤニヤしながら、また机に向かって怪しげな魔法陣を書き始める。
……続けるのかよ。
今、異世界には行かないって話してただろうが。
なんて思っていたら、オレはあることを思い出した。
そして起き上がってベッドから降り、佳穂の横に立つ。
「佳穂。やっぱ、行くぞ、異世界」
「どうしたの、急に?」
「夏休みの宿題、なんもやってねえ」
おかしい。
毎日少しずつやって、夏休みが終わる3日前には完全に終わっている計画だったのに。
1ページもやってねえ。
なぜだ?
どうしてここまで計画が狂ったんだ?
どう考えてもあと3日じゃ終わらない。
去年は白紙で出して、酷い目に遭ったんだった。
これはもう最後の手段、逃げるという手を打つしかない。
「ぷっ! あははははははは」
佳穂が足をバタバタと動かして笑い出す。
「笑いごとじゃねえ! オレにとっては死活問題だ! もう異世界に逃げるしかねえ!」
「ふっふっふ。恵介くん、まだまだ甘いね」
人差し指を横に振り、得意げな顔をしている。
そんな佳穂の顔がちょっとイラっとした。
「確かにあの宿題の量を自力で解くのは、3日じゃ終わらないね」
「だろ?」
「だけど、写すだけなら終わるんじゃない?」
「お前は女神なのか!?」
こうして、オレは佳穂に宿題を見せてもらうことにした。
「じゃあ、宿題持ってくるね」
「悪いな」
自転車に乗り、颯爽と走っていく佳穂の後ろ姿を見送った。
オレはこの後、何度も何度も後悔することになる。
オレが佳穂の家に行けばよかったと。
そうすれば、あの会話が最後になんかならなかったはずだ。
「はっくしゅ!」
自分のくしゃみで目を覚ます。
ベッドに寝転がって佳穂を待っていたら、ウトウトしていたらしい。
「なんか寒ぃな」
起き上がってエアコンを切る。
それでもまだ寒かったので、薄手の長シャツを羽織った。
時計を見ると18時だった。
まだまだ外は明るい。
それなのに妙に冷えている。
今年の夏は始まるのが遅く、終わるのが早いんだろうか。
そんなどうでもいいことを考えながらも、妙な胸騒ぎを覚える。
「佳穂、遅いな」
家に宿題を取りに行ったのが15時。
もう3時間も経っている。
徒歩だったとしても、佳穂の家からオレん家まで1時間もかからない。
「まさか、宿題を失くしたとかないだろうな?」
そんなわけないと思いながらも、オレは佳穂の家へと向かった。
外は肌寒く、10月くらいの温度だった。
今年は異常気象だな。
もう一枚羽織ってくればよかった。
けど、30分くらいだからいいか。
佳穂の家に到着する。
ここに来たのは2年ぶりくらいか。
チャイムを押そうとする指が、緊張で少しだけ震える。
意を決してチャイムを押すと、中からおばさんが出てくる。
「あら、恵介くん。久しぶり。大きくなったわね」
「はは。ご無沙汰してます。で、佳穂、います?」
「ごめんね。あの子、ほとんど家にいないのよ。どこで何をしてるんだか」
どうやら、佳穂はオレの家に入り浸っていることをおばさんに言ってないみたいだ。
「まあ、あの子のことだから、変なことはしないと思うけどね」
ある意味変なことはしてるけどな。
なんて心の中で軽口を叩いているが、胸の中の不安がドンドンと膨れ上がっていく。
「3時間前くらいに、一回家に戻ってきたんだけど。またすぐに出てっちゃったのよ」
「っ!?」
嫌な形で不安が的中してしまった。
「おばさん、すぐに警察に電話して! 捜索願!」
「え? どういうこと?」
オレはその言葉に返答することなく、すぐに来た道を走って戻る。
佳穂がオレとの約束を後回しにすることはない。
それは断言できる。
それなのに、オレの家に来ていない。
となれば考えられることは1つ。
――何かあった。
全力で走り、オレの家まで戻る。
当たり前だが、途中で佳穂に会うことはなかった。
違うルートを使ったのか?
オレは頭の中で地図を広げる。
そして考えうるパターンで通り道に行き、佳穂を探す。
一応、その辺にいる人に女の子を見なかったかと聞いたが、3時間前のことなので大した情報は得られない。
そもそもこの場にいなかっただろうし。
それにしても、何かあったとしたら何かしらの形跡があるはずだ。
それさえも見当たらない。
じゃあ、このルートでもないってことか?
なにか遠回りした、とかか?
……何のために?
そこでオレはある可能性に辿り着く。
まさかアイスでも買おうとしたとか?
佳穂が家に帰るときはまだまだ暑かった。
それに佳穂はアイスが好きだから、買ってこようと思うのは自然だ。
とにかく近くのコンビニまで走る。
その途中。
オレは見つけた。
道路の脇に倒れている、ひしゃげた佳穂の自転車を。
警察の捜査で、すぐに佳穂を轢いたトラックの運転手が見つかった。
だが、奇妙なことに、運転手は「女の子は轢いていない。轢いたのは自転車だけだ」と証言した。
運転手の話では道路に飛び出してきた佳穂を轢きそうになったとき、パッと消えたらしいのだ。
まるで瞬間移動したかのように。
だから轢いたのは自転車だけだ。
自転車を壊した弁償をしようと思ったが、当の本人がいないのでどうしようもなかった。
仕事も詰まっていたし、あとで警察には行こうと思っていた。
それが運転手の言い分だ。
もちろん、警察はその証言を信じることはなかった。
運転手のことを重点的に調べた。
だが、肝心の佳穂の死体が出てこない。
そしてなにより、佳穂が轢かれたという証拠を見つけられなかった。
血痕の1滴さえも。
そのことで捜査は難航した。
そのうち佳穂のことはうやむやになった。
そして佳穂は失踪したことになってしまった。