王都の一角にあるクロフォード子爵邸は、夜更けの静寂に包まれていた。
屋敷の奥――自室で書類を読んでいたオリヴィア・クロフォードは、書き込んでいたペン先を止め、わずかに眉をひそめる。しんと静まり返っていた空気が変わり、遠くでドアの開閉音や使用人たちの足音があわただしく聞こえ始めたからだ。夫である子爵が帰ってきたのだろう。
オリヴィアは机上の書類をきちんと重ね直すと、椅子を引いて立ち上がった。帰宅したら知らせるようにと伝えてはいるが、きっと今夜も使用人は来ないだろう。
オリヴィアは小さくため息をつくと、薄手のショールを羽織って部屋を出た。
廊下の明かりはだいぶ落とされているが、まだぽつぽつとろうそくが灯っている。手持ちのランプが必要なほどではない。
玄関ホールへと続く階段を降りていく途中で、玄関扉が乱暴に開いた。ふらついた様子で、金髪碧眼の男―――エドガー・クロフォードが姿を現す。
深夜に及ぶ帰宅は決して珍しくないが、今夜のエドガーはひときわ酔っている様子だった。もともと社交界では遊び好きで通っていたらしいエドガーは、オリヴィアと結婚してからは大人しくなっていた。しかし、ここ数か月は、こうして夜遅くに酔って帰ってくることが増えている。
先に玄関先で控えていた執事のトマスが、上着を受け取ろうと進み出た。しかしそれよりも早く、オリヴィアはさっとエドガーの前へ出る。
「お帰りなさいませ、エドガー様」
手を差し出しながら落ち着いた声で告げる彼女に、エドガーは露骨に嫌そうな顔を向けた。オリヴィアではなく、トマスに向かって上着を放る。
「出迎えなくていいと言っているのに、まだ分からないのか? その地味な顔を見ると余計に疲れる」
オリヴィアは化粧が薄めで、豪華なドレスや宝石を身につけることもほとんどない。茶色の髪と瞳も相まって、子爵夫人という立場にしてはひどく地味だというのは、自分でも自覚していた。
「それになんだこの暗さは。主人がまだ帰って来ていなかったんだから、明かりを落とすな。暗い屋敷で出迎えるなんて、みっともないにも程がある。クロフォード子爵家には金があるんだ。ケチくさいことをするな」
「ですが――」
言い訳をしようとすると、エドガーが
「口答えをするのか?」
「いえ……」
オリヴィアは口をつぐんで
子爵を継いだ後、消灯時間を決めたのはエドガーだ。無駄なろうそく代を払う必要はないと笑い、来客のいない夜は明かりを消すことになった。これでも、エドガーの帰宅前だからと最低限の明かりはついている。
「申し訳ありません。トマス、明日からはそのようにして頂戴」
「……」
オリヴィアが指示を出したが、トマスは返答を返さない。
「トマス」
「かしこまりました」
エドガーが言って初めてトマスは返事をした。
オリヴィアが従順に従ったことに機嫌を直したのか、それとも早く休みたいだけなのか、エドガーはそれ以上は何も言わずに、ゆらりと足元をふらつかせ、タイを緩めながら階段を上がっていった。
オリヴィアもその後に続く。
夫婦に割り当てられた部屋に入ると、エドガーはまっすぐにリカーキャビネットへと向かった。深酒をしているにもかかわらず、どうやらさらに酒をあおるつもりらしい。オリヴィアは慌ててエドガーの腕をつかんだ。
「もう随分お酒を召しているようです。今日はこの辺にしておいてはいかがですか。お体に障りますし、事業のこともあります。あまりご自身を――」
言い終わるより早く、エドガーが荒々しく腕を振り払った。オリヴィアは体勢を崩しかけ、それでも必死に踏みとどまる。
「お前はいつもそれだ。俺のやることにいちいち口を出して、説教でもしているつもりか? 事業が問題ないのは俺が一番わかっている。明日の商談だって上手くやるさ」
エドガーの声には苛立ちが多分に含まれており、まっすぐ向けられる視線は険しかった。かつてはオリヴィアの控えめな助言や気遣いを好ましく思ってくれていたはずなのに、いつしかそれを
オリヴィアは悲しみをこらえ、言葉を選びながら努めて冷静な声で答えた。
「今日も書類が山積みでしたし……それに、あの土地の購入の話はもっとよく検討してはどうかとお伝えしていたはずです。これ以上大きなリスクを負うのは危険です。出かける時間があるなら、もう少し検討を――」
「またその話か。貴族のやり方も知らないくせに口出しするな。あの土地だって、侯爵様が間に入って下さっているんだから大丈夫だ。俺は遊びに行っているんじゃない。社交をしているんだ。これが事業にどれだけ貢献していることか! 社交を一切放棄しているお前にはわからないだろうがな」
オリヴィアも社交の必要性は十分理解していた。貴族の世界では、繋がりが何よりも大事だ。没落しかけ、他家にそっぽを向かれていたクロフォード子爵家にとって、社交の場に呼ばれ、話を聞いてもらえるようになったのは大きい。
だが、それとこれとは別だ。
「十分理解しております。ですが、あの土地は――」
「うるさい! 平民上がりのお前なんかに何がわかる!」
「きゃっ」
「あ……」
尻もちをついたオリヴィアを見て、エドガーが一瞬
「お前みたいな元平民が貴族のやり方をとやかく言うな。気分が悪い。夜会で派手に振る舞わなきゃ、笑われるのは俺のほうだ。そもそも社交は夫人の仕事だろう。なのにお前は地味で華やかさの欠片もない。どこに出しても恥ずかしいだけだから、俺がこんなに苦労する羽目になる!」
厳しい語気に、オリヴィアは胸が切り裂かれるように痛んだ。かつては平民だと思われながらも、そんな自分を選んでくれたはずだった。しかし、今や地味で平凡という言葉が繰り返され、エドガーはオリヴィアを見下している。
「私が地味だというのは否定しません。ですが、エドガー様が大きな損失を負わないようにすることは、子爵家のためでもあります。取引先からの信用を失うことにも――」
「もう聞きたくない! お前の地味な顔を見るたびに、俺はうんざりするんだよ! 何もできない役立たずのくせに、これ以上口出しをするな!」
怒声が部屋を震わせる。オリヴィアは自分の手が小刻みに震えるのを感じ、何とか耐えようとした。このままでは話にならないとわかっていても、言わないわけにはいかない。
「それでもどうかあの土地だけは考え直してください」
「うるさい! お前の意味のない助言なんて必要ないと言っているだろう。俺が投資しようが失敗しようが、お前には関係ない!」
関係がないわけはないのだ。オリヴィアは子爵夫人なのだから。クロフォード子爵家を、そして商会を守る義務がある。
「エドガー様!」
「うるさい! それ以上言うなら離婚する!」
吐き捨てるように言われた言葉に、オリヴィアは言葉を失った。ざっと血の気が引いていく。
「離婚……?」
耳の奥で血が脈打ち、頭がクラクラした。これまでの罵倒の数々とは一線を画す強い言葉だ。
オリヴィアの蒼白になった顔を見て、エドガーははっと我に返った。
「いや……離婚は言い過ぎた……酔った勢いだ……取り消す」
あからさまに
「……もう寝る。お前も早く寝ろ」
「エ――」
オリヴィアが呼び止めようとしたが、エドガーは続き部屋となっている寝室へと入って行ってしまった。決して乱暴に閉められたわけではないが、扉の閉まる音が、エドガーからの拒絶に思えた。
オリヴィアはその場に座り込んだまま、呆然としていた。心なく投げつけられた離婚という言葉が耳を離れない。
「離婚、だなんて……」
深夜の子爵邸はしんと静まり返っている。オリヴィアは震える手を握りしめた。自分の置かれた現実に頭が追いついていかない。
思わず、といったようにこぼれた言葉だった。取り消すと言っていたし、エドガーも本心ではなかったのだろう。
だが、全てを捨ててエドガーとの結婚に踏み切ったオリヴィアにとっては、重すぎる一言だった。たとえ本心でなかったにせよ、その言葉がエドガーの口から滑り出たことが信じられない。
――地味で平凡、恥ずかしい、役立たず。
自分なりにエドガーを陰で支えているつもりだったのに、何一つわかってもらえていなかった。オリヴィアは心の底が抜け落ちるような喪失感に襲われた。
「あの頃は、あんなに優しかったのに……」
脳裏に浮かぶのは、街で初めて出会ったエドガーの笑顔だった。彼女を平民だと思いながらも、いや、素朴な平民だからこそいい、と一途に求めてくれた。
だというのに、いつしかエドガーは、華やかな社交界に溺れるようになり、オリヴィアを「元平民の役立たず」としか見なくなってしまった。もともと地味を好むのは彼女自身の性分だが、それを望んでいたのはエドガーも同じだったはずだ。
エドガーが去っていった扉をじっと見る。あの先は夫婦の寝室なのに、オリヴィアはもう立ち入ることができない。今はエドガーが一人で使っている。
こうして待っていれば、戻ってきてくれるのではないか、と
だが、そんなことが起こるはずもなく、視線の先の扉は、いつになっても開く気配はなかった。
床から伝わってくる冷たさに耐えられなくなり、オリヴィアはようやくよろよろと立ち上がる。
ふらふらと廊下に出ると、すでに明かりは全て消されていた。窓から差し込む月明かりだけを頼りに、自室へと向かう。
気持ちが乱れて足下がおぼつかない。
扉を開け、自室に入った途端、オリヴィアは嗚咽を漏らした。寝台に倒れ込み、枕に顔を押し付ける。深く息を吸っても、震えが止まらない。
机の上には先ほどまで見ていた子爵家の商会に関する書類が積まれ、オリヴィアが書いたメモが挟まれている。すべては、エドガーのためにしてきたことだ。オリヴィアの進言をうるさく思っていたのは知っていたが、思わず離婚を口走ってしまうほどだったとは。
エドガーがオリヴィアに投げつける言葉が次第にひどくなってきていたことには気がついていた。初めは小言を
だとしても、自分たち二人の間に「離婚」という言葉が降りかかってくるなど、夢にも思っていなかった。エドガーに強く望まれたからこそ、オリヴィアは思い切って結婚に踏み切ったのに、それをエドガーは一瞬でもなかったことにしようとしたのだ。
離婚の言葉を取り消されはしたが、いつまたエドガーの気が変わるかはわからない。そう思うと、胸の奥がぎりぎりと締めつけられるように痛んだ。あの冷たい瞳と硬い声色を知らなかった頃にはもう戻れない。これからずっと離婚の不安に怯えなければならないのだろうか。
止めようもなく流れる涙が、枕に吸い込まれていった。布団を深く被っても、冷え切った体は一向に温まらない。
オリヴィアは声を押し殺して胸の痛みを耐えようとした。どうしてこんなことになってしまったのだろう、と思いながら。