ベルトラム領で最も大きな街、ベルト。
そのメインストリートは活気に満ちていた。
商店や露店が軒を連ね、様々な人が行き交っては買い物をし、どの店先でも賑やかな笑い声が絶えない。ここは金持ちばかりが住む上流地区とは異なり、庶民や旅の商人など、多彩な人々が雑多に入り混じる場所だった。
その中心にある広場の一角で、十七歳のオリヴィア・エルンストは、目をきらきらと輝かせていた。公爵家の令嬢にはとても見えない控えめなワンピースを身に
「わあ、ノア、見て! あんなに大きな果物が売られているわ。先日はあの屋台はなかったわよね。日によって違う物が売られているなんて面白いわ」
嬉々として周囲を見回すオリヴィアに、並んで歩くノア・ベルトラムが苦笑いを浮かべる。
幼馴染であり、ベルトラム伯爵家の嫡男である彼は、オリヴィアよりもほんの少し年上の青年だ。ノアも庶民に溶け込めるよう、擦り切れのある簡素な服装を着ていた。日の光を受けて淡くきらめく銀色の髪は目立つから、少し色をくすませてざっと乱した上に、帽子をかぶっている。
「驚くのはわかるけど、あんまりはしゃぎすぎないでよ、オリヴィア。大通りは人が多いし、危なくないようにね。……護衛も連れずにこんな所に来ているなんて、公爵様に知られたら大目玉だよ」
後半、ぐっと声を落としてノアが言う。
「大丈夫よ、ノア。今日も侍女たちには『ノアと図書館へ行く』って伝えてあるわ。あなたの馬車で出てきたんだし、あなたはみんなからも信頼されているから、こんな所に二人だけで来ているなんて、誰も思いもしないわよ」
オリヴィアが
普段はエルンスト領の公爵邸で暮らしているオリヴィアだったが、誕生日を迎えて成人するまでのわずかな期間、ベルトラム領の伯爵邸に滞在していた。
成人すればすぐに父親が決めた相手と婚約し、自由がきかなくなる。その前に平民街へ行ってみたい、というオリヴィアの希望を叶えるため、こうしてノアが街へと連れてきていた。
実はノアはこっそりと伯爵家の護衛を連れて来ているのだが、それはオリヴィアの知る所ではない。
二人がこうして街へ出てくるのは今回が初めてではなかったが、慣れているとはいえ決して気軽な状況ではなかった。公爵家の令嬢が庶民の地区に出入りするのは、あまり褒められた行動ではないからだ。
それでもオリヴィアは、貴族的な娯楽や退屈な社交よりも、賑やかな王都の市場に
軽快な足取りで行き交う人波を
「わあ、かわいい! ねえ、ノア、見て。あんな革の小物入れがあるわ。刺繍のデザインが凝っていて、使いやすそう」
「オリヴィア、本当に目移りばかりしてるね。さっきも似たようなものを見てなかった?」
「だってどれもかわいいんだもの」
ノアが苦笑まじりに言葉を返すと、オリヴィアはほんの少し頰を染めて反論しようとする。けれど、次の瞬間にはまた別の店先に視線を奪われていて、すぐにノアの発言は忘れてしまった。
そんな彼女の姿を見て、ノアは心底楽しそうに微笑む。
買ってあげようか、という言葉が喉から出かかって、ノアはそれを飲み込んだ。欲しければオリヴィアは自分で買うだろう。金など
こうして楽しそうに笑っているオリヴィアは、公爵家へと戻れば、また令嬢としての仮面を被らなくてはならなくなる。素顔のままでいられるのは、ベルトラム伯爵邸に滞在している間だけだった。
とにかく今を楽しんでもらおう、とノアが思った時だった。どっと人だかりができて、視界の先が混み合い始める。
そして、大通りから小路へと流れ込む人の波に飲み込まれるかたちで、ノアとオリヴィアの間に急に距離ができた。
「えっ、ノア? ……ノア、どこ!?」
慌ててオリヴィアは声を上げるが、雑踏に
オリヴィアは軽く背伸びをしてキョロキョロと見回したが、背の高い男性たちが壁のように視界を塞いでいて、前方をうかがうことさえ容易ではない。
仕方なく、少しでも人の波が少ない路地に入ろうと一歩を足を踏み出すと、何かに勢いよくぶつかってしまった。
「あっ……すみません!」
思わず上げた声の先、ぶつかった相手は金髪碧眼の若い男性だった。オリヴィアが慌てて謝ると、相手のほうからも声が飛んでくる。
「こっちこそ悪かった。大丈夫か?」
その男は、紺色の軽い上着にブーツ姿というラフな装いをしている。貴族然とした雰囲気も漂うが、どこか庶民的な軽快さも
「ごめん、ちょっと急いでいたんだ。あまりにも目立たない所に立っているから、気づかなかった。ケガはない?」
目立たない、という言葉に少し引っかかりながらも、オリヴィアはうなずいた。確かに、オリヴィアの髪色は茶色だし、地味な色合いの服を着ているのだから、派手な服装の人々の中に埋もれていてもおかしくない。
「私こそごめんなさい。急に人が増えて、友人とはぐれてしまったんです。それで少し端に寄ろうと思ったら……」
「なるほど。なら、なおさら申し訳ないな。――あれ、ひょっとして君、貴族か?」
何かに気がついたように言われて、ドキリとオリヴィアの心臓がはねる。
だが、青年はまだ半信半疑のような表情をしていた。
立ち居振る舞いを見てオリヴィアから貴族の匂いを感じ取ったものの、まだ確信は持てていない、といったところか。
オリヴィアは内心で少しほっとした。自分の正体――公爵令嬢であることまでは見抜かれていない。
そもそも普通の貴族令嬢がこんな雑踏にいるわけはないのだから、勘違いで押し切れるかもしれない。
「まさか! 私がお貴族様だなんて、そんなわけないじゃないですか」
大げさなほどに豪快に笑い飛ばすと、青年は興味深そうに笑んだ。
「そうか。俺は――実は、貴族なんだ」
「へえ、そうなんですね」
青年はオリヴィアの顔を知らないようだし、オリヴィアも青年の顔は見たことがなかった。
高位貴族とは公女として多少なりとも付き合いがあるから、面識がないということは、下位貴族なのだろう。
何でもないという顔で答えたオリヴィアに、青年は
「君、驚かないんだね。こんな格好だから、嘘だと思ってる?」
「えっ? あ、いいえ、そういうわけじゃ……」
平民ならば、目の前に貴族がいて、そしてその相手に自分が体当たりしてしまったのだとわかれば、
「すみません。素敵な方だったので、見とれてしまって……」
「そう」
誉め言葉に気をよくしたのか、青年がにこりと笑う。
「あの、もしよければ、一緒に友人を探していただけませんか。私、こういう人混みに慣れていなくて……」
気づけばオリヴィアは、その金髪の青年に助けを求めていた。自然と口をついて出た言葉に、自分でも少し驚く。どうやら、この青年に対して不思議な安心感を抱いているようだ。
「あ、でも、急いでいるんですよね……? それに、貴族の方にこんなこと――」
先ほどぶつかったときに言われた言葉を思い出す。
それと、平民が貴族相手に頼みごとをするのがおかしいということも。
「いいよ。そんな大した用じゃない。君の人探しにつき合おうじゃないか」
青年は柔らかく微笑むと、周囲をきょろりと見渡した。
「友人の特徴は?」
「茶色の帽子を被っていて、背が高く……紫色の瞳が印象的です」
「なるほど。いい目印になりそうだな。よし、行こうか」
そうして二人は人混みの中を探し始めた。オリヴィアが「ノア」と呼びかける声に合わせ、彼も「銀髪の青年を見なかったか?」と近くの露店の人や通りすがりに尋ねてくれる。もしかしたら一人でも探せたかもしれないと思ったが、どうしたって雑踏の中では途方に暮れてしまったに違いない、と思い直す。青年の存在は心強かった。
やがて、大通りの中央付近にノアの姿を見つけた。周囲を不安げに見回しているノアの肩をオリヴィアが叩くと、振り向いたノアは大きく
「オリヴィア……無事だったんだね。よかった……本当に心配したよ……」
密かにつけていた護衛たちでさえもオリヴィアを見失い、ノアは大変なことになってしまったと青ざめていたのだ。もう少しで屋敷へと連絡を入れるところだった。
「ええ、あなたを見失ったときはどうしようかと思ったけれど、こちらの方が手伝ってくださったの」
オリヴィアが視線を向けた先、金髪の青年が優雅にノアへと一礼をする。その動作からは、やはり貴族的な気品が感じられるが、同時に庶民の雑踏にも馴染んでいる様子があった。ノアは困惑しながらも礼儀正しく挨拶を返す。
「ありがとうございます。彼女は、少し好奇心が
「いや、大したことはしていない。君たちが無事再会できて何よりだよ。俺はエドガー・クロフォードだ。よろしく」
「僕はノアと言います」
エドガーと名乗った青年が、ノアと握手をしながら照れくさそうに笑った。その表情に、オリヴィアの胸がふっと温かくなる。ついさっき出会ったばかりなのに、もう随分と親しくなったような錯覚に
「それで……君はオリヴィア、でいいのかな?」
エドガーがオリヴィアの方を振り向く。
「あ、はい。そうです。すみません。名乗っていなくて」
「いや、俺も名乗るのを忘れていた」
ははっ、ふふっと二人で笑い合う。
それからの数分間は、自然と三人で言葉を交わした。軽い自己紹介や、こんなところで何をしているのかという話をした。互いに深く踏み込まない程度のやり取りではあったが、エドガーが庶民的な空気を好んで歩き回っていることや、平民街の雑踏が好きだという点では、オリヴィアと共通しているようだった。
「街にはいろんな人がいるから面白いだろう? 俺もこうして歩くと、いろいろ発見があって楽しいんだ」
どこか少年らしささえ感じさせる笑顔を見せるエドガーに、オリヴィアは自然と心惹かれていた。
「なあ、俺たち、また会えるかな?」
別れ際、エドガーがそう申し出たとき、オリヴィアは頬をかすかに染めながらも「タイミングが合えば」と答えた。オリヴィアにできる精一杯の返事だったが、それほどエドガーには不思議な魅力があった。
エドガーと別れ、
「あの男、クロフォードと言っていたね。子爵の息子だ」
「ああ、子爵家だったのね」
「貴族だって知ってたの?」
「ええ。最初に言われたもの」
ノアは呆れたように両目を片手で覆った。
「貴族とわかっていたのならなんで一緒にいたりしたんだ。正体がバレたらどうするつもりだったの?」
「最初にバレなかったからよ。お互い顔を知らないってことは、高位貴族でもないし、お父様との繋がりもないってことでしょう? それならバレようがないじゃない。本当は知っているのに黙っていて、こっそりお父様に告げ口をするような人にも見えなかったし」
「僕が家名を名乗っていたら?」
「ノアはそんなヘマはしないでしょ」
その通りだ、とノアは思った。
相手の雰囲気と家名から貴族だと悟ったからこそ、ノアはあえて自分の家名を名乗らなかった。そして、もしもエドガーが家名を名乗っていなければ、やはりノアは家名を名乗らなかっただろう。平民相手に、わざわざ自分がここの領主の息子だなんて言う必要はない。
「また会う気なの?」
「まあ……偶然会うことがあれば」
オリヴィアは少し口をとがらせて、目をきょろきょろとさ迷わせながら答えた。
どこの誰なのかは名乗れないから、約束はできない。だから、偶然出会う以外の方法はない。
そんなオリヴィアの様子を見て、ノアは複雑な表情を浮かべていた。