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第3話 回想:初恋

 その後オリヴィアは、一週間ほどの間に、ノアを伴って二度も街へ出た。図書館へ行くと言って伯爵邸を抜け出し、メインストリートに向かう。

 あの日ノアとはぐれた場所に通い、明確な理由もなくエドガーの姿を探していた。まるで偶然を手繰り寄せるように、店の商品に目移りをしているふりをして、何度も往復した。

 そして、三回目に街に出たとき、ついにエドガーと鉢合わせした。エドガーの方も同じく、オリヴィアを探していたかのように近づいてくる。

 ノアがかたわらにいるのが少々居心地悪そうだったが、それでも足を止めることなく目の前まで来て、オリヴィアに話しかけてきた。

「やっと会えた。毎日来ているのに、なかなか会えないものだな。君はこの街に住んでいるんじゃないのか?」

「いいえ――あ、ええと、ええ、そうなんです。この街に住んでいるわけではなくて……」

 領主であるベルトラム伯爵の本邸はこの街の一等地にある。しかし、それを言うわけにはいかないし、毎日平民街に来られるわけでもないので、別の場所から来ていると思われた方が都合がよかった。

 嘘は言っていない。オリヴィアはこの街に滞在しているだけで、本当はエルンスト領に住んでいるのだから。

「エドガー様のおうちはこの街にあるんですか?」

「いや、屋敷は王都にある。ここへは商談があって来たんだ」

「そう、ですか……」

 オリヴィアの心は沈んだ。わかっていたことだ。この街に住んでいる貴族は領主のベルトラム伯爵家だけ。商談で滞在しているのなら、それが終わればエドガーは王都に帰ってしまうのだろう。

「本当はそろそろ帰らなくてはいけないんだが、俺には厄介な母親がいてね。贅沢ぜいたくばかりで金遣いが荒いし、父親はあまり口を挟まない。正直、屋敷にいると息苦しくなるんだ。こうして王都の外にいると、誰かに束縛されることなく自由でいられるから、まだだらだらとここに滞在し続けているのさ」

「そうなんですね……」

 オリヴィアはエドガーの言葉に共感を覚えた。自分も貴族社会という枠に縛られた日常に、窮屈さを感じていたからだ。公爵家の令嬢という肩書きは重たく、社交を嫌う自分の性格ともうまく噛み合わない。

 さらに言葉を交わすうちに、オリヴィアは心を弾ませ始めた。エドガーは庶民の暮らしに興味を持ち、新しい事業を模索しているという。この街の商業を観察し、どの分野に可能性があるかを探っているのだ、と言った。

「いずれ家の将来を考えなきゃならない。母の浪費癖をただ見ているだけじゃ、いつか破産するかもしれないし。どうにか家業の商会を盛り立てたいんだ」

「きっと、エドガー様なら上手くいきます」

 思わず言い切った自分に驚く。

「そうかな」

 照れたように笑うエドガーを、オリヴィアはじっと見つめた。

 私たちは似ている。

 今の境遇を窮屈に感じているもところも、抜け出したいと思っているところも。

 だが、やがて爵位を継いで自由に采配を振るうことのできるエドガーとは違って、令嬢であるオリヴィアは、抜け出すことはできない。公爵令嬢でなくなったとしても、どこかの貴族の夫人として、また型にはまった生活を送るしかないのだ。

 やりたいことをキラキラとした目で話すエドガーは、オリヴィアにはとても魅力的に映った。

 そのまま、三人でぶらぶらと歩きながら、他愛もない話をしていく。

 と、エドガーが突然足を止めた。

「あ、ここでちょっと待ってて」

 オリヴィアとノアを出店の間の往来の邪魔にならない所に引っ張っていく。

 なんだろう、と二人で待っていると、戻って来たエドガーが小さな花束を差し出し、照れくさそうに笑った。

「これ、そこの花屋の店先にあったのがオリヴィアに似合うと思って、買ってきた。自分で選んだから、センスが悪かったらごめん」

「嬉しい……! こんな素敵な花束をもらったのは初めてです」

 ひらひらと揺れる可憐な白い花々を見つめ、オリヴィアは感激した。公爵家の庭ではもちろん、今滞在している伯爵家の庭も豪華で、咲き誇る大輪の花々だって見慣れているはずなのに、そしてもっと高価な贈り物もたくさんもらってきたはずなのに、いま手渡された素朴な白い小花が、ひときわ愛おしく感じられた。

「君が、あんまり飾らないほうが好きだって言っていたから、これくらいがちょうどいいかなと思って。地味だって笑わないでくれよ?」

「笑うわけありません。本当に素敵です。ありがとうございます。エドガー様」

 にこりとオリヴィアが笑うと、エドガーも嬉しそうに笑った。

 その笑顔の眩しさに、オリヴィアは泣きそうになる。

 そして自覚した。

 ああ、私はこの人のことが好きなんだ――。

 エドガーと会えると思うだけで心が躍るし、会えば幸せで胸がいっぱいになった。人生が鮮やかに彩られていく。

 これはいずれ終わる恋だ。エドガーが王都に戻るまでの、はかない恋。

 その間だけでも、この気持ちを大事にしよう、とオリヴィアは決めた。


 * * * * *


 さらに何度目かの偶然・・の街での出会いを経て、オリヴィアは、もう偶然などではなくなっていることに気がついていた。

 オリヴィアだけでなく、エドガーも少なからずオリヴィアに会いたいと思ってくれていることを感じ始めている。

 ノアがいる前でも、エドガーはオリヴィアに向ける熱い眼差しを隠さなくなり、二人の間にはノアには入り込めない二人だけの空気が流れていた。

 それでもなおオリヴィアについて回っているノアを、エドガーは不審に思っていたが、オリヴィアの父親が厳しくて一人にしてはもらえない、と言うと納得してくれた。まさか公爵令嬢だとは思っていないだろうが、裕福な家の娘くらいには思っているのだろう。

 今も街の外れにある公園まで三人で来ていた。

 エドガーとオリヴィアはベンチに二人だけで座っていて、ノアは離れたところにいる。ノアもできる範囲で二人を気遣ってくれているのだ。

「ずっと言おうと思ってたんだけど……」

 会話が途切れたところで、ふと、エドガーが言葉をこぼす。

「俺は……子爵家の跡継ぎなんだ」

「はい」

 オリヴィアはただ頷いた。

 ノアに聞いていて知っていたし、最初に貴族だとは打ち明けられていたから、特に驚くようなことではない。

「偉そうにしておいて、子爵だなんて笑っちまうよな。しがない下位貴族さ」

「いえ、そんな……」

 確かに、貴族の中には純然たる身分の差がある。公爵家からすれば、子爵は歯牙にもかけない相手だ。伯爵より上の階級になってから、ようやく直接顔を合わせる機会ができる。もちろん、個人的な付き合いがあればまた別だが。

 しかし平民にとっては、男爵だろうが子爵だろうが貴族は貴族だ。自分たちとは隔絶した存在なのだから、その中の階級がどうかなんて関係ないだろう。

 そう思って、オリヴィアはあいまいに笑うだけにとどめた。

 エドガーは、組んだ自分の手をじっと見つめながら続ける。

「実は、その子爵の爵位さえ危くなっているんだ。前に言っただろう。母親の金遣いが荒いって。商会を立て直せなければ、いずれ爵位を返上しなければいけなくなる。そのくせ、もっと家を盛り立てて上流社会に深入りしていけ、ってうるさくてね」

「そうなんですね」

「そんな子爵家の跡取りとしての重圧に押しつぶされそうになる時もあるんだ。だけど――」

 エドガーの瞳がオリヴィアをとらえた。

「君と一緒にいると、そういうプレッシャーから逃れられるような気がするんだ。気持ちが楽になると言うか。義務だからやるんじゃなくて、頑張ろうって前向きになれる」

「そう……ですか」

 今度はオリヴィアが視線を落とした。

 顔に熱が集まっていくのがわかる。

「最初は、これまで貴族の令嬢としか接してこなかったから、新鮮な気持ちというか、嫌な言い方をすると、目新しいっていうのかな。そういう気持ちで君と会っていた。彼女たちは派手なドレスや装飾品を身に着けて、毎晩夜会に参加して、結婚相手を捕まえようといつもギラギラした目をしていたけど、君はそうじゃなかったから。だけど、だんだん、君の、自分をよく見せようとか、家の権力を誇示しようっていうところが一切ない、飾らない所に惹かれていった」

 その言葉を聞いて、オリヴィアは嬉しさがこみ上げると共に、ドキリとした。

 着飾ることや夜会へ参加するのは元々の性格的に好きではないが、公爵令嬢としてのオリヴィアは、家の権力を誇示することはあった。なぜなら、それが公爵家の娘としての務めだからだ。あなどられるような態度を取ってはならず、時には相手よりも優位にいることを示さなければならない。そうでなければ付け入られ、足元をすくわれてしまうからだ。

「私はそんな風に言ってもらえるような人間ではありません」

「いいや、君は素晴らしい人だ」

 謙遜したオリヴィアの言葉を、エドガーは否定した。

「まだ知り合って日も浅いけど、君が素敵な人だということはわかる。話しやすいし、聡明だし、何より一緒にいて心が穏やかになる」

 まっすぐな言葉がオリヴィアの耳を打った。

 ふわりと体温が上がり、胸がドキドキして苦しいほどだ。エドガーの瞳に見つめられて、呼吸が止まりそうだった。

「だけど、私は――」

 公爵家の娘なのに。

 本当のことを言ってしまおうか、とオリヴィアは思った。

 公爵令嬢だとわかっても、エドガー様は今まで通りに接してくれる……?

 オリヴィアは逡巡した後、意を決して口を開いた。

 だが、言葉を発するよりも前に、ノアが近づいて来た。

「オリヴィア、そろそろ帰らないと」

「あ、うん……」

 結局、その日は何も言えないまま、オリヴィアはベルトラム伯爵邸へと戻った。


 伯爵邸へ戻ると、父親のエルンスト公爵から手紙が届いていた。

 そろそろ領地に戻って来なさい、という内容だ。

 これまでも何度か届いていたが、オリヴィアはそれをなんだかんだとかわし続けていた。

 だが、それももう限界だ。

 どんなに引き延ばしたとしても、あと数週間。二か月後にはオリヴィアの成人を祝うパーティがあるから、その準備が始まるまでには、絶対に帰らなくてはならない。

 エドガーは王都へ戻るよりも先に、自分がエルンスト領に帰る方が先になるとは思わなかった。

「言わなくて正解よね……」

 オリヴィアは小さくつぶやいた。

 自分が公爵家の人間だと告げたところで、どうせすぐに会えなくなる。

 子爵家のエドガーとは結ばれない運命だ。父親である公爵が許すはずもない。

 もしもオリヴィアが、エドガーの思っているように、本当に平民だったのなら――。

 最近オリヴィアはそんなことばかりを考えていた。そうすれば、エドガーと結ばれる道もあったからだ。珍しくはあるが、子爵夫人であれば、平民出身の前例がないわけではない。

 もちろん、エドガーもオリヴィアのことを想ってくれていれば、という前提があっての話なのだが。

「やめやめ」

 意味のない妄想を、頭を軽く振って追い出す。

「そんなことより、今はこっちよね」

 オリヴィアは、羽根ペンを握って腕まくりをした。

 このところ、街を歩いていて自分なりに気がついたことをまとめていた。何かエドガーの事業のヒントになるのではないかと思って。

 オリヴィアが公爵令嬢の立場を使えば支援は簡単にできるだろう。父親に取引先に加えて欲しいと頼むなり、どこかの高位貴族に仲介するなり。だが自分の力でやり遂げようとしているエドガーに、水を差すような真似はしたくなかった。

 家に帰りたくないからだらだらとしている、と口では言っていたが、エドガーが街の様子を観察したり、繁盛している店を研究したり、取引先の開拓をしたりして、真摯に努力しているのをオリヴィアは知っていた。

 どうにかベルトラム伯爵邸での滞在を終える前に書き上げて、エドガーに渡したい。喜んでもらえるか、そして役に立つのかはわからないが、それがオリヴィアがエドガーにしてあげられる精一杯のことだった。


 ――そう思っていたのに、それからオリヴィアは、エドガーに会うことができなくなった。

 何度街に出ても、エドガーの姿を見つけられない。

 オリヴィアも毎日街に出られるわけではないから、行き違っているのだろうと思った。しかしそれなら、今までも同じはずだった。こんなに会えないのは、だからつまり、エドガーがオリヴィアに会う気がないからなのだろう。

 ノアに調べてもらえばエドガーの所在がわかるのかもしれない。貴族ならそれなりの宿に泊まっているだろうし、ノアのことだから、すでに把握している可能性すらある。

 だが、オリヴィアはそうしなかった。

 知ったところでどうにもならない。宿まで押しかけて行ったとして、どうするというのだ。相手はオリヴィアに会いたいと思ってくれていないのに。

 領地に戻る日を引き延ばした意味がなくなって、オリヴィアはただ無為に日々を過ごしていた。

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