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第4話 回想:プロポーズ

 いよいよエルンスト公爵邸への出立を翌日に控えたその日も、オリヴィアは諦め悪くノアを伴って街に出た。


 まだ昼過ぎだというのに、街の露店の多くが既に店じまいを始めていた。人通りが急にまばらになっているのを不審に思いながら、二人が通りを抜けようとした、そのときだった。


「オリヴィア、危ない!」


 ノアの声と同時に、大きな樽が商店の軒先から転がり落ちてきた。運搬中に滑ってしまったらしく、ゴロゴロと大きな音を立てて坂道を下ってくる。オリヴィアは思わず身をすくめるが、次の瞬間、誰かに腕をつかまれて引き寄せられた。


「大丈夫か!?」


 その声に目を上げると、そこにはエドガーが息を切らして立っていた。すんでのところで手を伸ばし、オリヴィアを安全な場所へ引っ張り込んだらしい。樽は大きな音を立てて道端にぶつかり、中の荷物が派手に散らばった。


「エドガー様……!? どうしてこんなところに?」


 オリヴィアは安堵と驚きが入り混じった声を上げた。エドガーは少し照れたように苦笑する。


「……いや、君たちがこっちの方へ来るのを見かけて。なんだか今日の街は人が少ないし、様子が変だったから、気になって追ってきたんだ。まさかこんな事故に巻き込まれそうになるとは思わなかったが」


 頬を赤くしながらも、エドガーの青い目が心配そうにオリヴィアを覗き込む。オリヴィアが無事なのを確認してホッとしたのか、無事でよかった、と微笑んだ。


 その自然な笑顔を見た途端、オリヴィアは胸を締めつけられるほどの幸福感に満たされた。やっと会えたという喜びと、助けてくれたことへの感激だった。


 一方のノアは、複雑な表情で肩を落としていた。またもオリヴィアを守り損ねてしまった。はぐれたことに引き続き、二度目の失態だった。


「……助かりました。エドガー様」


 そう言いながらノアは、深く頭を下げる。


 エドガーが「いいよ」と軽く手を振ると、二人の間には妙な沈黙が落ちた。


 ノアが何か言いたそうに何度も口を開けては閉じている。


「どうしたの?」


 オリヴィアが尋ねると、ノアがすっと背筋を伸ばしてオリヴィアに向き直った。


「オリヴィア、僕は少し家に戻らなくてはいけなくなった。ここで別れてもいいかな?」

「えっ?」


 オリヴィアは瞬きしながら答えに詰まる。これまでの外出中、ノアは一度もオリヴィアから離れたことはなかった。護衛としての役割もあるからだ。


「私、一人で街にいてもいいのかしら」

「もし危ないことがあったら、エドガー様が守ってくれるよ。今もそうだったろう? だから僕がいなくても大丈夫だ。夕方、街の外れの広場で落ち合おう」


 どこか穏やかな微笑みを浮かべるノアに、オリヴィアは戸惑いながらもうなずいた。エドガーがそっとオリヴィアの腰に手を当てて支えてくれる。


「それじゃあ……くれぐれも気をつけてね。――エドガー様、オリヴィアをよろしくお願いします」

「ああ。任せてくれ」


 ノアは静かにきびすを返し、人通りの少ない道の向こうへ消えていった。


 突然一人にされたオリヴィアは、急に心細い気持ちになる。ノアは当然護衛を残しているのだが、オリヴィアがそれを知るよしもない。


 胸の前で拳を握り、じっとノアが去って行った方向を見ていると、エドガーが手を差し出した。


「ちょっと歩こうか。落ち着いたところへ行きたい。ここはまだ人通りがあるし、話もしにくいだろう?」


 その提案に、オリヴィアは緊張しながらもうなずいた。


 人混みを避け、公園のような小さな緑地を目指して足を進める。日はまだ傾き始めた頃で、ノアと約束した夕方までは時間はたっぷりあった。


 細い道を曲がった先、埃っぽい街並みを離れた木々の生い茂る一角に、簡素な石のベンチが置かれた一帯がある。木漏れ日の中をエドガーと並んで歩いていき、やがて人気ひとけのないベンチに腰を下ろした。


 その瞬間、ワンピースのポケットでカサッと小さな音がして、オリヴィアは中に入っている物の存在を思い出した。


「エドガー様、これ――」


 四つ折りにされた紙の束をポケットから引っ張り出して、エドガーに渡す。


「私なりに考察したものです。貴族の方々の間で流行っている物が庶民の間でも遅れて流行ることが多いようなので、最近の景気の動向と需要やこれまでの傾向から、次に流行りそうな物のリストを作りました。それと、価格を抑える方法と、庶民への宣伝の方法も、自分なりに考えてみました」

「これを……君が?」


 エドガーが書類から目を離さずに尋ねる。


「はい。素人の浅知恵かもしれないですが、エドガー様のお役に立てたら、と思って……」


 言いながら、オリヴィアは顔を赤くさせていった。熱くなった頬を両手で包む。


 急に恥ずかしくなった。エドガーからすれば、きっと稚拙ちせつな考えばかりが並んでいるだろう。


 でしゃばるんじゃなかった、と今さらになって後悔し始める。


「いや……これは、すごい……はあ、そうか。こういう……」


 エドガーは食い入るように書類を読みこんでいる。


「オリヴィア」


 最後まで読み切ったエドガーが、静かに名前を呼んだ。


 その声音があまりに真剣なので、オリヴィアの方も居住まいを正した。


「はい」

「君は、いつも自分のことをあまり語らないよな。いや、それが嫌だってわけじゃない。むしろ俺は、そんな君の控えめなところを好ましく思っている。でしゃばらずに、だけど芯が通っている。それに……聡明だとは思っていたけど、まさかここまでとは思っていなかった」


 オリヴィアは目を瞬かせた。こんなにも率直に褒められると照れくさい。


「実は、このところ君と会えなかったのは、王都に戻っていたからなんだ。両親と話し合うために。結局、説得はできていなくて、まだ反対されたままなんだが……それでも俺は決めた」


 続く言葉を期待して、オリヴィアの喉がごくりと鳴った。


「オリヴィア、俺と結婚して欲しい。ゆくゆくは子爵夫人として、俺を支えてくれないか。君のことが好きなんだ」


 その瞬間、オリヴィアの胸に甘く切ない衝撃が広がった。


 エドガーの言う「反対」とは何を指すのか、オリヴィアにはよくわかっている。子爵家の跡取りが、素性も定かでない平民をめとるなど、普通ならば認められない。平民出身の夫人の前例はあるにせよ、決して簡単なことではないのだ。むろん、オリヴィアの正体を知れば違う方向に転がるかもしれないが、エドガーはそれを知らない。


 それでも私を選んでくれるなんて――。


 思わず目頭が熱くなる。公爵令嬢という肩書のない、素のままのオリヴィア自身を、エドガーは好きになってくれた。それが何よりも嬉しかった。


「すごく、嬉しいです。私も……私も、エドガー様のことをお慕いしています」

「なら――」

「ですが、」


 ぱっと顔を明るくさせたエドガーの言葉を、オリヴィアは遮る。


「申し訳ありません。お受けすることは……できません」

「どうして」

「ご両親の反対を押し切ってというのはよくありません。私の父も何と言うか……。それに、たとえご家族が賛成して下さったとしても、周囲の方が快くは思わないでしょう。エドガー様の立場を悪くしてしまうだけです」


 本当の身分を明かせば解決するかもしれない。だが、平民だと思われているからこそ、エドガーはここまで熱意を示してくれているのだ。真実を打ち明けたとき、エドガーの気持ちはどう変わるのだろう――その不安が大きい。


 そして、「平民のオリヴィア」は歓迎されるはずもないのだ。エドガーの足を引っ張ることになる。


「両親は必ず説得するし、周囲のことなど気にしなくていい。君は知らないかもしれないが、子爵家なら、平民から妻を娶ることも少なくはないんだ。君が側にいてくれれば、どんな苦労でも頑張れる。母親や社交界の連中は家の格や華やかさを大事にしているが、俺はそうは思わない。むしろ、そうじゃない君だからこそ――」


 エドガーは一度言葉を区切り、オリヴィアの手をそっと取った。温かく大きな手の平に包まれる。


「飾らずに、でしゃばらずに、後ろで控えていてくれる――そういう女性がいいんだ。俺には、君みたいな妻が必要なんだよ、オリヴィア」


 その直球の言葉に、オリヴィアは頬を染めながらも嬉しさに震えた。公爵家の令嬢かどうかという身分でなく、自分という存在を求めてくれている――それが、こんなにも心を満たすものだとは知らなかった。


 だが、だからといって、やはり簡単にうなずいていい問題ではなかった。


「私が……エドガー様の思っているような人間でなかったら、どうしますか?」

「構わない。君がどんな人間であろうとも、俺は俺の見たオリヴィアを信じる。今目の前にいる君と、生涯を共にしたいと思っている」


 そのまっすぐすぎる眼差しに、オリヴィアは言葉を失った。もし今この場で「私、実は公爵の娘なんです」と白状したら、エドガーはどう受け止めるのだろうか。「最高だ、ますます嬉しい」となるのか、それとも逆に「今まで隠していたのか」と失望されるのか――想像すればするほど怖い。


 ただ、エドガーが本当に自分を求めてくれているのだという事実が、オリヴィアの胸を温めていく。エドガーの覚悟を目の前にして、オリヴィアは自分も覚悟を決めようと思った。


「わかりました……父に、話してみます。少しお時間を頂けますか?」

「もちろんだ。俺もお父上に挨拶を――」

「いいえ!」


 オリヴィアは叫んだ。


「いきなりエドガー様がいらしたら父も驚いてしまいます。まずは私から説明します」


 エドガーは相手はしがない平民の男だと思っているだろうが、本当は公爵なのだ。


「そうか? だけど、誠意は見せないと。大事な娘さんをもらおうとしているのだし」

「それは、いずれお願いします」

「わかった」


 エドガーが頷くと、オリヴィアの頬に手を当てて、顔を近づけてきた。


 まさか――。


 キスされる、と思い、オリヴィアはギュっと目を閉じた。


 しかし、こつんとぶつかったのは額だった。


「嬉しいよ。君が俺と同じ気持ちでいてくれていたなんて。俺も必ず両親を説得して、君を迎える準備を整えるから、オリヴィアもお父上の説得を頼んだ」

「は、はい……」


 キスではなかったが、エドガーの吐息が唇に当たってくすぐったい。急に縮まった距離に、胸の鼓動が鳴りやまなかった。




 * * * * *




 一方、二人の元を離れたノアは、人気ひとけのないところで伯爵家の馬車に乗り込んだあと、馬車を動かすことなくそのままそこにいた。険しい表情を浮かべながら、静かに車内から街角を見下ろす。


 ノアはベルトラム伯爵家の嫡男として、エルンスト公爵家との付き合いも長く、将来的にはオリヴィアとの縁談も考えられている身だ。ノア自身も、密かにオリヴィアとの婚姻を夢見ていた。だからこそ、領地に引きこもっているオリヴィアに合わせて自分も王都の学園には行かず、長年遊び相手として側にいたのだ。


 しかし今、オリヴィアの瞳に映っているのは、ノアではなくエドガーだった。


「あんなに嬉しそうな顔、初めて見たな……」


 馬車の窓から外を見つめながら、ノアは一人ごちる。オリヴィアが笑っているところはこれまで何度も見てきたが、エドガーの前で浮かべる笑顔はひときわ輝いていた。ノアには決して与えられない幸せを、エドガーはオリヴィアに与えている。


 ノアは王都に送った密偵から、クロフォード子爵の息子が平民を娶ろうとして子爵夫妻と大喧嘩をした、という情報を得ていた。その平民というのは、もちろんオリヴィアのことだろう。


 そして今日、エドガーの顔を見て、オリヴィアに想いを伝えるつもりなのだと悟った。


 いいんだ。オリヴィアが幸せになれるなら、僕は身を引こう。オリヴィアの幸せが、僕の幸せなんだから。


 ノアは苦しげな微笑を浮かべる。伯爵家の嫡男として、幼馴染として、長年抱いてきた恋心に幕を下ろすときが来たのだ。


 公爵家が二人の恋を許すはずがないと分かっていても、オリヴィアがそれで幸せを掴めるのなら、ノアは全面的に支えようと決めていた。




 * * * * *




 夕方になって公園を出る頃、オリヴィアはまだ夢心地のままだった。エドガーが妻にと望んでくれたこと、そして自分もエドガーを好きだと伝えられたこと――どちらも信じられないほど大きな一歩であり、幸せな出来事だった。


「もう次の約束をしてもいいか?」


 これまで二人は「偶然」の出会いを積み重ねてきた。それをエドガーはついに必然にしようとしている。


「俺はまた一度王都に戻るから、次は十日後の――」

「あっ」


 ここでオリヴィアは大切なことに気がついた。


「エドガー様、申し訳ありません。実は私、明日からしばらくこの街を離れなければならないんです」

「それは……どうして? プロポーズを断るための言葉なんだったら――」

「いいえ、違います! これは、その、前から決まっていた予定で……」


 明日、オリヴィアはエルンスト公爵家に戻らなければならない。そしてしばらくは身動きがとれなくなる。


「必ず父を説得して、ご連絡します。それまでお待ちいただけますか? 王都のクロフォード子爵様のお屋敷宛にお手紙を送ります」

「本当に? このまま終わりだなんてことは……」

「ありません! 私も……私も、エドガー様との結婚を望んでいますから」

「わかった。君を信じるよ。待っている」


 エドガーは優しく微笑むと、そっとオリヴィアの肩に手を置いた。


「必ず、手紙を出します」


 名残惜しそうな笑顔を交わして、オリヴィアは遠くで手を振っているノアの方へと向かった。


 二人で脇道にそれると、伯爵家の馬車が待っている。


 オリヴィアに続いて乗り込んだノアが、わざと明るい声で話しかけた。


「楽しかった?」

「ノア、二人だけにしてくれて本当にありがとう。あなたには迷惑ばかりかけているわね……」


 素直に感謝を示すと、ノアは困ったように微笑んで、「気にしなくていいさ」とだけ答えた。


「それで……ちゃんとお別れは言えた?」

「あ……それが……」


 オリヴィアは膝の上で組んだ手をじっと見ながら、もじもじと動かす。


「エドガー様に……プロポーズされたわ」

「そう」

「驚かないの?」


 ノアが淡々と答えたので、オリヴィアは逆に聞き返した。


「そろそろかなと思ってた」

「そうなの!?」

「あの目を見ればわかるよ。どう見てもオリヴィアのことが好きだったでしょ。それに……オリヴィアも」

「えぇー……そんなにわかりやすかったかしら」


 気持ちを言い当てられたオリヴィアが、恥ずかしさに自分の顔を手で挟む。


「それで、どうするの?」

「お父様にお願いしてみるわ。エドガー様と結婚したいって」

「そう」

「反対しないの?」


 ノアなら絶対に反対すると思っていた。オリヴィアが公爵令嬢らしく振舞えるようになったのは、なんだかんだでノアがそうあれと口を酸っぱくして言ってくれていたからだ。こうやって自由にさせてくれる大らかさもある一方で、厳しいところは厳しい。


「しないよ」


 ノアはオリヴィアに微笑んだ。


「オリヴィアがそうしたいなら、応援するよ。僕はどんな時でもオリヴィアの味方だから」

「っ!」


 オリヴィアは感激のあまり、ノアに抱きついた。


「ノア、ありがとう……!」


 変装用の少しごわつく生地越しにオリヴィアの体温を感じて、ノアは複雑な気持ちになる。こんな風に何のてらいもなく抱きついてくるのは、ノアがオリヴィアに全く男として意識されていないからだ。


「オリヴィア」


 ノアがあえて硬い口調で名前を呼ぶ。


 しかし、オリヴィアはノアを抱きしめる腕に力を込めた。


「ごめんなさい。こういうのはもう最後にする。明日からは、ちゃんと公爵令嬢に戻る。約束するわ。だから今だけは、大切な幼馴染への親愛の表れとして、許してくれないかしら」

「仕方ないな……」


 ノアはオリヴィアに応えて抱き締め返した。


 柔らかな茶色の髪から、甘い香りが漂ってくる。


「ノア、本当にありがとう。屋敷に滞在させてくれたことも、エドガー様に会うのを手伝ってくれたことも。ううん、最近のことだけじゃなくて、これまでずっと側にいてくれたことも。あなたは私にとって大切な人よ。もし困ったことがあったら言ってね。必ず助けるから」

「当然の事をしただけだよ。僕にとっても――オリヴィアは大切な人なんだから」


 オリヴィアが口にした以上の気持ちを乗せて、ノアは言った。これが今のノアが言える精一杯の言葉だ。


「公爵様への説得、うまくいくといいね」


 ノアは自身の気持ちにふたをするようにして、努めて明るく言った。


「ええ、頑張るわ」


 最後にぎゅっと強くオリヴィアを抱きしめてから、ノアはオリヴィアから身を離した。


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