エルンスト公爵家へ戻ってから数日後、オリヴィアは邸宅の廊下を歩いていた。
ふとした拍子に伯爵領で過ごしたあの数週間が思い出され、足取りが重くなる。
背筋を伸ばし、公爵令嬢として恥じぬように振る舞う――以前なら当たり前にできていたことが、今のオリヴィアにはどこか苦しい作業になっていた。
そんなオリヴィアが今向かっているのは、エルンスト公爵、すなわちオリヴィアの父親の執務室だった。
父親とようやく面会することが叶ったのだ。
公爵は実の娘でもあってもなかなか会えないほど多忙を極めていて、それは広大な領地を治める
しかしそれはいずれ解決する。オリヴィアの留学中の兄――次期公爵が帰国すれば、王都での仕事を全て押し付けるつもりでいるからだ。
オリヴィアは重厚な扉の前に立ち、軽くノックした。
「お父様、オリヴィアが参りました」
返事を待ってドアを開ける。
迎え入れられた執務室の空気は張り詰めていた。部下の姿は見えず、公爵が一人で執務机に向かっている。
しばらくカリカリとペンが走る音が続いたあと、公爵はペンを置き、書き終えた書類を脇によけてオリヴィアを見た。
「お帰り、オリヴィア」
「お久しぶりです、お父様」
父親に促され、オリヴィアはソファに座った。立ち上がった公爵も向かいに座る。
どこからともなくメイドが現れ、二人にお茶を淹れて静かに去って行った。
「随分遅かったな。伯爵邸はそんなに居心地がよかったのか」
口調は厳しかったが、これが公爵の通常運転だった。別に怒っているわけではない。
「はい。ゆっくりできました」
「そうか。成人のパーティの準備は順調か?」
「はい。お母様がほとんど進めて下さっていましたので、わたくしは自分のドレスを仕立てたり、すでに届き始めているお祝いの品に返事を書いたりしています」
「そうか」
公爵はうなずくと、しばらく黙り込んだ。
オリヴィアの方も、エドガーのことをどう切り出したものかと逡巡していた。何度も頭の中で作戦を練っていたが、結局のところは出たとこ勝負だ。
「成人後、お前は婚約をすることになるが――」
「そのことなのですが」
公爵の方から話題を振られ、オリヴィアは渡りに船とばかりに飛びついた。
その瞬間、しまった、と内心思う。
相手の言葉を遮るのは、令嬢にあるまじき行動だ。ついベルトラム領にいた時の感覚で口を挟んでしまった。
公爵も眉をひそめている。
「申し訳ありません……。どうぞ続けてください」
「すでに多数の縁談が来ている。お前の婚約を成人後にすることにしたのは、お前の意思を尊重するためだ。自分で判断ができる歳になる前に、親の都合で勝手に婚姻相手を決めることのないように、とあれに言われた」
あれ、と公爵が言っているのは、オリヴィアの母親――つまり公爵夫人のことだった。公爵は夫人のことをそのようにぞんざいに呼ぶが、夫人自身も、そして周囲の人間も、公爵が夫人を心から愛していることを知っていた。
なにせ、公爵が王都ではなく領地で仕事をしているのは、夫人が病弱で、領地で静養する必要があるからなのだ。妻を深く愛している公爵は、多忙な日々と引き換えに、夫人の側にいることを選んだのだった。
「だから、誰にするかはお前が選んでいい。今来ている縁談の中から好きな相手を選びなさい」
オリヴィアは今度こそ公爵が口を閉じてから口を開いた。
「わたくしには、すでに心に決めた方がいらっしゃいます」
「誰だ。ベルトラムの息子か。それも縁談の中に含まれている」
オリヴィアは目を瞬かせる。今の今まで、ノアが結婚相手になりうることに思い至っていなかったからだ。ノアはノアだ。オリヴィアの大切な幼馴染で、それ以上の関係になることなど、考えたこともない。
ノアを選べば、伯爵夫人としてベルトラム領にいられる――。
そこまで考えて、オリヴィアは頭を振った。その先に思い描いたのはエドガーの姿だったからだ。エドガーはいずれ王都に帰るのだから、オリヴィアがベルトラム領に行けても意味がない。
それに、いくら理解のあるノアが相手でも、エドガーと会えるからという理由での結婚はさすがに許されないだろう。
「ノアではありません」
「では誰だ。王太子殿下か? あの方の見た目と能力が高いのは認めるが、どうも性格が……。まあ、殿下との縁談も来ているから、お前がお受けしたいなら好きしなさい」
「まあ。王太子様との縁談もあるのですか?」
オリヴィアは目を丸くした。
「お前は王国唯一の公女なのだから、望まれて当然だろう」
「そう、なのですね……」
王太子はオリヴィアよりも年上だから、もうとっくに婚約者が決まっているものと思っていたが、確かに婚約式などはなかったように思う。オリヴィアはどうせ父親の決めた相手に嫁ぐのだから、と大して関心を払っていなかった。
「ですが、王太子殿下でもありません」
「では誰だ。もしも縁談が来ていないのなら、こちらから話を持ち掛けることも
「いいえ――」
オリヴィアは口をつぐんだ。
口がからからに乾いている。公爵から投げかけられる視線が痛い。
だが言わなければならない。ここで言えなければ、エドガーとの未来はあり得ない。
「エド……エドガー・クロフォード様です」
一度つっかえたが、なんとか言うことができた。
「クロフォード?」
公爵が眉を寄せる。
「クロフォード……クロフォード……どこかで聞いたことがあるな。クロフォード……いや、待て、クロフォード子爵家か?」
「はい。クロフォード子爵家のご長男です」
「子爵!」
はっ、と公爵が鼻で笑った。
「お前、自分の身分がわかっているのか? 公女なのだぞ? それが子爵家の跡取りと結婚したい? だいたい、どこで子爵の息子なんぞを
「ノアとベルトに出ている時に出会いました。何度かお会いして、素敵な方だと――」
「黙れ!」
その声に思わず身を縮めながら、オリヴィアは言葉を失う。
公爵の表情には怒りがはっきりと浮かんでいるが、その奥には何か別の感情があるようにも見えた。驚き、それから失望――そんな色が混じっている。
「わたしはお前を、良家との縁組に備えて――それこそ王族に嫁いでも恥ずかしくないように、ときちんと育ててきた。お前が社交を嫌うからといって、適当に放任してきたわけではない。それなのに……子爵? 公爵家の娘が下位貴族に嫁ぐなど言語道断だ!」
ガンッとテーブルに公爵の拳が落ちる。
「身分など、なんだというのですか。エドガー様はまっすぐな方です。公女としてではなく、素のわたくしのことを好きだとおっしゃって下さいました。わたくしの意思を尊重して下さると言うのなら、どうかエドガー様との婚姻をお許しください」
「ならん! 大体なんだその素のお前というのは。そのエドガーとかいう男だって、お前の公女としての身分と公爵家の後ろ盾が欲しいだけだろう」
「違います!」
はぁ……と公爵は深いため息をついた。
世間知らずの娘を諭すように言う。
「貴族同士の結婚というのは、すなわち家同士の結びつきだ。どうあってもお前は公爵家の娘だ。お前がその立場を窮屈に思っているのは知っているが、お前を構成する要素の一つであることは揺るがない。切り離すことはできないのだ。今来ている他の縁談も、当然みなそういう目でお前を見た結果だ。そのエドガーという男だって同じだろう」
「違います」
オリヴィアは首を振った。エドガーは、そうじゃない。
「違わない」
「違います。なぜなら、エドガー様は、わたくしを……平民だと思っていらっしゃるのですから」
「平民? なぜそんなことになる」
オリヴィアは、ノアと出掛けていたのは、エルンの街の中でも、裕福な平民や貴族が訪れるような場所ではなく、下町の方であったことを説明した。そこでオリヴィアが平民として振る舞い、その姿でエドガーと会っていたことも。
「なんてことだ……公女が庶民にまぎれて下町で買い物などと……」
公爵が頭を抱えてうめいた。
「お前に人をつけるべきだった。お前とノア・ベルトラムを信用しすぎた」
「ノアは悪くありません。わたくしが無理を言ったのです」
「わかっている。だが、連れて行ったのはあいつだろう。お前にそこまでできる知識も無謀さもないだろうから」
「ですが、ノアはわたしくしの
「その話はもういい!」
ピシャリと言われて、オリヴィアは口を閉じた。
確かにこれは本題ではない。
「とは言え、もうこの話も終わりだ。子爵家との縁談は認めない。それが全てだ」
「お願いします、お父様。エドガー様との婚姻をお許しください」
「ならん!」
「お父様!」
「公爵として、認めるわけにはいかん。お前があくまでその子爵の息子を望むというのなら……今後、お前は娘ではない。いっそ平民として嫁ぐといい」
「どうか一度だけでいいので、エドガー様と会ってお話を――」
「聞きたくもない! それでもなお行きたいというのなら勝手にしろ。オリヴィア、お前を勘当する。今日限りでここから出ていけ。この家の門を二度とくぐるな!」
「そんな……!」
オリヴィアは
「話は終わりだ」
それ以上の反論を許さないというように、公爵はソファから立ち上がり、執務机へと戻って行った。
オリヴィアもよろよろと立ち上がり、扉の方へと歩いていく。
「失礼いたしました……」
オリヴィアは胸元で震える手を握りしめ、小さく礼をして執務室を出た。
うつむいたまま廊下を歩く。
父親の説得は失敗に終わってしまった。
公爵家かエドガーか。二者択一を迫られている。
公爵は、当然オリヴィアは公爵家を選ぶと思っていた。一瞬でも平民に身をやつすなど、普通の貴族では考えられない。ましてや王国内で最大の贅沢を享受している公女ならなおさらだ。
だが、オリヴィアは公爵令嬢の身分を窮屈に思っていたし、なによりエドガーに恋をしていた。手にしていたものを全てをかなぐり捨ててでも、エドガーと共にいたいと思ってしまっている。
エドガーは、オリヴィアが公爵令嬢であることを知らない。むしろ平民としてのオリヴィアを望んでくれている。このまま真実を告げずに、平民としてクロフォード子爵家に嫁いでしまえば――。
オリヴィアは覚悟を決めた。
その日の夜、オリヴィアは公爵邸を
両親宛にはこれまで育ててくれた感謝と親不孝な娘であることの謝罪の、ノア宛には迷惑をかけた謝罪と感謝の手紙を残して。
持ち出したわずかな宝飾品と鞄一つで王都まで数日間かけて移動し、直接クロフォード子爵邸を訪れる。
使用人に名前を告げるとすぐにエドガーに取り次いでもらえ、応接室へと通された。
「オリヴィア……! 手紙をくれると言っていたから、まさか直接来てくれるとは思わなかった。急にどうしたんだい?」
エドガーが驚きながらも笑顔で迎えてくれた。
その喜びようを見てほっとする。
「父を説得することができませんでした。だから……家を出てきました」
「そうなのか……。君はそれで、大丈夫なのか?」
肩を抱えながら、オリヴィアをソファへといざなう。
「はい。私はエドガー様と一緒にいたいです」
「そうか……お父上のことは残念だけれど、嬉しいよ」
膝の上の手を握られ、オリヴィアは握り返した。
「なら、俺と結婚してくれるか?」
「はい。よろしくお願いします」
「ありがとう。これからは俺が君を守るよ。必ず幸せにすると誓う」
エドガーがきつくオリヴィアを抱きしめると、オリヴィアもそれに応えて背中に腕を回した。
これでいいの。私はエドガー様と生きていくわ。
エドガーのぬくもりに包まれて、オリヴィアは幸せを夢見た。