こうして迎えた結婚。
当然のことながらエドガーの両親――特に夫人は猛反対だったが、許してもらえないのなら駆け落ちする、とエドガーが宣言したため、結局は渋々結婚を許す形になった。唯一の跡取りを手放す決断はどうやってもできなかったのだ。
オリヴィアは、家名のないただの「オリヴィア」として子爵家に嫁いだ。派手な式など挙げられるはずもなく、教会で簡単な誓いを交わしただけ。それでもオリヴィアにとっては、それまでの人生で最も幸せな瞬間だった。
屋敷での暮らしは決して明るいものではなかった。特に義母はオリヴィアに目もくれず、夫人の態度を見倣った使用人たちは「子爵家の嫡男をたぶらかした平民」に冷ややかな視線を向ける。
唯一エドガーだけはオリヴィアを気遣ってくれていて、毎日のように「大丈夫か?」と尋ねては、優しい言葉をかけてくれていた。
「少し狭い家で悪いな。母上は派手好きで金遣いが荒いくせに、屋敷の改装にはまったく手を回せないんだよ。何か困ったことがあれば言ってくれ。俺ができるだけ動くから」
「ありがとうございます、エドガー様。私はこれで十分です。むしろ、大きすぎるくらいですから」
元平民を装うためにそう答えたわけではない。幼い頃から公爵家の広大な敷地で過ごしてきたオリヴィアにしてみれば、子爵家の屋敷は各地にある別荘よりも小さい。しかし、不慣れな場所であれば、その狭さがかえって落ち着くように感じた。
公爵家とは格段に落ちた生活基盤も、オリヴィアにとっては何ということもなかった。贅を尽くしたドレスや宝飾品には元々興味がなかったし、食事も量は十分だから不満はない。使用人の質があまり高くないのも、目をつぶれない程ではなかった。質がよくても嫌われていたらどうせ扱いは変わらないのだ。
階級が下がり財政が芳しくないとはいえ、子爵家は立派な貴族。本当に平民となっていたらオリヴィアもやっていけなかったかもしれないが、公爵家と比較しても、そこまでの生活の落差は感じなかった。
なによりも、エドガーと共にいられる幸せが、全てを覆い隠していた。寝室でエドガーの横に寝ているとき、オリヴィアは、これは夢ではないのか、と自分の顔をつねったことが何度もある。エドガーと夫婦として側にいられるというだけで、オリヴィアは幸せだった。
結婚生活が始まって間もないある日、オリヴィアは朝食の席でエドガーにある提案を持ち掛けられた。
「オリヴィア、今度夜会の夜会に、一緒に参加してくれないか」
「夜会……ですか?」
突然言われた言葉に、オリヴィアは戸惑う。
「ああ。付き合いのある伯爵家で開かれるんだ。夫婦同伴で行けるといいんだが」
王都で開かれる伯爵家の夜会――オリヴィアの素性を知る人物がいないとも限らない。
オリヴィアは目を伏せた。
「申し訳ありません……。私は平民出身でマナーも学んでいませんし、それに、着ていくドレスもありません。十分に準備できてからでは駄目でしょうか。今のままでは、エドガー様に恥をかかせてしまいます」
「そうか……。確かに、君の所作が綺麗だから、貴族のマナーにも精通しているといつの間にか思ってしまっていたようだ。今は時期尚早だったな。マナーの講師をつけて、何着かドレスを仕立ててからにしよう」
「はい……」
エドガーはオリヴィアの出席したくないという心情を汲んでくれた。
しかし、いつかは出席しなければならないだろう。いつまでも逃げ続けられるものではない。
そう思うと、気持ちが沈む。
もう勘当されているのだから、堂々と元平民の次期子爵夫人として立てばいいだけだ。そのことに対するこだわりはない。嫌なのは、エドガーに公爵令嬢だった過去を知られてしまうことだった。エドガーにどんな反応をされるのかが怖い。
「気が進まない?」
「ええ……そうですね……。私がエドガー様の横に立って皆さまの前に出るなんて、気後れしてしまって……きっと、元平民という目で見られるでしょうし……」
「ああ……」
目を伏せて言うと、エドガーも声を沈ませた。
「わかった。なら君は今後も社交はしなくていい」
「え? ですが、社交は夫人の仕事ですよね。エドガー様と結婚したのだから、私がやらないわけにはいきません」
「だが、元平民の君には荷が重すぎるだろう。母上もいるし、俺も頑張るから、君は社交には手を付けなくていい。わざわざ心無い言葉を聞きに行く必要もないさ」
「そう、ですか……」
オリヴィアは複雑な気持ちになった。
社交は好きではないが、得意な方ではある。公爵令嬢としての教育を受けてきたのだから当然だ。お茶会や夜会の主催の経験もあるし、うまく立ち回れる自信はあった。
高位貴族の前に出たくはないが、社交の一切を拒否するつもりもないのだ。男爵や子爵、あるいは平民もいるような小規模な催しであれば、オリヴィアの顔を知る者もいないだろう。
エドガーに元公爵令嬢であることは知られたくないが、その危険性が薄い場であれば、十分に活躍できる。させてほしい。
社交を取り上げられてしまったら、オリヴィアにできることは何もなくなってしまう。貴族の夫人のもう一つの仕事である屋敷の維持は、子爵夫人が取り仕切っており、オリヴィアには手が出せなかった。
「その代わり、商会の仕事を手伝ってくれないか。知っての通り、俺は将来、商会の事業を広げたいと思っているんだ。書類を見て、何か思いついたことがあれば言って欲しい」
「私が口出ししてもいいのですか?」
「構わないさ。むしろ、君の視点が必要だ。ベルトでもらったレポートも、本当に助かった。あれを元に新しい事業を今準備しているところだ。だから、ぜひ手伝って欲しい。……まあ、母上には内緒にしておいてくれ。気に入らないだろうからね」
エドガーの言葉に、オリヴィアは胸が躍った。役に立てないと落ち込んだ直後だったから、頼られたのが余計に嬉しかった。
「はい! ぜひやらせてください。必ずエドガー様のお役に立ってみせます!」
オリヴィアはすぐに商会の事業内容や従業員の名前などを頭に入れ、書類に目を通すようになった。もちろん、堂々と見ると義母に
誰にも知られないように書類を整理し、資金繰りや在庫の把握を丁寧に進めていく。幼少期から、将来の夫の役に立つように、と令嬢教育を超えて身につけさせられていた数字や経営の知識が役に立った。
何とかして、子爵家がうまく回るように支えたい。エドガーの役に立ちたい。それに、そうすれば、いつか義母も認めてくれるかもしれない。
そんな願いを抱きながら、オリヴィアは嫁いだばかりの子爵家で、自分にできることを広げていった。
* * * * *
「どうしてこんなことになってしまったのかしら……」
泣きはらした目のオリヴィアは、布団の中でぽつりと呟いた。
クロフォード子爵家に嫁いで二年と少し。いつからか、エドガーは優しく微笑んでくれなくなった。
かつてのエドガーは、早朝から晩まで仕事に励みながらも、オリヴィアを大切に扱ってくれた。慣れない子爵家の空気の中、彼女が傷つかないよう、気遣いの言葉を欠かさなかったのだ。義母がきつい口調で接したときも「気にするな、俺がいるから」と笑ってくれた。夕食後には二人で協力して書類を整理して、商会の先行きについて真剣に話し合ったこともある。地味なワンピースを着たオリヴィアに「それが君らしい」と言ってくれたエドガーの笑顔は、今でも鮮明に焼き付いている。
しかし今、その笑顔はもう見られない。エドガーは深夜まで遊び歩き、オリヴィアの顔を見れば地味だと蔑む。事業について何か言おうとしても、返ってくるのは「黙れ」「口出しするな」の言葉ばかりだった。
オリヴィアが陰ながら支えたクロフォード商会は、この数年で大成功を収めていた。もちろん公爵家の伝手は使っていない。オリヴィアは自分の力だけで貢献していた。今では高位貴族にも劣らないほど潤沢な収益を得られるようになっている。
自分がいなければ、この成功はあり得なかった。そう、オリヴィアは自負している。
新しい商品の開発や取引先の開拓といった表立った仕事はできないが、資金繰りを調整し、需要予測に基づいた在庫管理など、商会の根底はオリヴィアが支えていた。誰にも知られずに、ひっそりと。その結果、子爵家の財政も改善され、生活も潤った。
だが、成功するほど、エドガーは派手な夜会に興じ、家を空ける時間が増えていく。
エドガーの父親が亡くなってエドガーが子爵を継ぎ、オリヴィアが子爵夫人となった今でも、義母や使用人からのオリヴィアの扱いは変わらない。相変わらず元平民と見られていて、女主人としての屋敷の仕事は何もさせてもらえていない。むしろ、オリヴィアが社交をしていないことと、跡継ぎが生まれないことで、より冷遇されるようになった。
社交に関しては、オリヴィアは何度かエドガーに提案したのだ。子爵令息の妻だった頃はともかく、エドガーが爵位を継いだからには、子爵夫人となったオリヴィアが社交の一切合切を拒否することなどさすがに許されない。招待してくれた相手にも失礼だろう。
だが、それはエドガーにことごとく却下されていた。始めは元平民であるオリヴィアの負担を案じてだったが、次第にオリヴィアを人前に出すのは恥ずかしいという理由に変わっていった。
跡継ぎに関しては、寝室が別な以上、望むべくもない。
それも最初は、夜遅くまで書類を見ているエドガーが、自分につき合わせるわけにはいかない、と部屋を別にしたのが始まりだ。時折エドガーがオリヴィアの部屋に通ってきていたのだが、その足が遠のいていった結果、完全に別室での就寝になってしまった。
公爵家を捨ててエドガーと共にある人生を選ぶ――あの決断は、たしかに自分を心から満たしてくれた。あの頃は本当に幸せだったのだ。隣で優しく微笑む夫がいて、一緒に未来を語り合い、そのために仕事を頑張ろうという意欲が湧いていた。
今は、そんなエドガーの冷たさに苦しめられている。派手な夜会で新しい友人を得るにつれ、エドガーは一層、オリヴィアの地味さを疎ましく思っていくようだった。そして社交ができないオリヴィアが商会の仕事に熱を入れるほど、口うるさい存在として嫌われてしまう。
疎まれるのが嫌で、最近のオリヴィアは何も言わないようにしていた。今までよりも一層、陰の仕事に徹していたのだ。
だが今日ばかりは言わずにはいられなかった。エドガーが莫大な資金をつぎ込もうとしているあの土地は、どうやっても利益を回収できる見込みがないからだ。条件を変えて何度も試算を重ねた結果の結論だった。
エドガーは、そういったオリヴィアの聡明さや判断力を認めてくれていたはずだった。
それとも――エドガーに本当に必要だったのは、着飾って社交界に咲き誇る美しい妻だったのだろうか。もしもあの時のオリヴィアが、公爵令嬢としてエドガーに嫁ぐことができたのなら……。
詮のないことを考え始めたところで、オリヴィアの意識は限界に達し、まどろみの中に落ちていった。
翌朝、エドガーは朝食の場に現れなかった。起きてすぐに出かけたらしい。土地については再考する、というメモだけが残されていた。
顔を合わせないのはよくあることだ。昨夜あんなことがあって気まずいから、というわけではない。考え直してくれるならよかったではないか。暴言を吐かれた甲斐がある。
オリヴィアは努めて平気なふりをして、書類へと向き合った。
子爵夫人としての責務だけが、今のオリヴィアを辛うじて支えていた。