その日の夕方、エドガーが久しぶりに早く帰宅した。事態が鎮静化したからだろう。今日ばかりは遊びに行く余裕もなかったのだと思われる。
オリヴィアは玄関ホールでエドガーを迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
エドガーはオリヴィアを
最近はいつもこうだ。ひどい言葉を投げつけられることは減ったが、関心も払われない。煩わしく思われるよりも、無関心の方がよほど応えた。
「今回は本当にもう駄目かと思いました。さすが旦那様です。的確な指示を下さって、本当に頭が下がります」
「俺がいないと業務が回らないようじゃ困るんだがな」
「力及ばないのは恥じ入るばかりですが、これほどの事態を収拾させるには、やはり旦那様でないと」
「まあ、そのために俺がいるんだしな」
口々に賞賛されて、エドガーは鼻が高くなっている。
そこに、義母が現れた。
控えていたオリヴィアを、どん、と突き飛ばして、エドガーの側に寄る。
「まあまあ、よく帰って来たわね。お疲れさま」
「母上、今回のようなことは困ります。大口の契約を結ぶならあらかじめ相談しておいてくれないと。少なくとも契約後でいいので報告だけはしてください」
「ごめんなさいねぇ。でも今までは問題なかったじゃない? 今回だって、エドガーが上手く収めてくれたじゃないの」
事態を引き起こした張本人なのに、義母が悪びれもなく言い放つ。どれだけ深刻な事態だったのか理解できていないようで、オリヴィアは漏らしそうになったため息を飲み込んだ。
「それはそうですが――」
エドガーもさすがに思うところがあるのか、義母を諫めようとしたのだが、その言葉を義母が遮った。
「今回はどうしてこんなに大変になってしまったのかしらねぇ。――あなたたち、もしかして仕事を
「ま、まさか」
「とんでもございません!」
義母がにらみつけると、従業員たちがぶんぶんと首を振る。
「まあ、今回は色々重なって運が悪――」
取りなそうとしたエドガーが、ふとオリヴィアに目を向け、視線がかち合う。
「エドガー? どうしたの?」
「ん? ああ、いや、何でもありません」
言葉を途切れさせた態度を不審に思った義母が話しかけると、エドガーの視線はオリヴィアから外れた。
「とにかく母上は、契約したら報告してください。必ず」
「せっかく大きな契約を取ってきてあげたっていうのに。甲斐のない子ねぇ。もういいわ」
義母はエドガーの忠告をうるさがり、踵を返した。
そして、オリヴィアに目を止める。
「あなたまだいたの?」
真っ赤に塗った長い爪の指で、オリヴィアの顎が乱暴につかまれた。
「夫のエドガーがこんなに大変な思いをして頑張っているっていうのに、何もせずに屋敷の中をうろつくだけ。わたくしのように契約を取ってくるわけでも、社交で人脈を広げるわけでもなく、跡取りさえも産めないなんて、まったく何のためにこの家にいるのかしら!」
どん、と胸を強く押される。
「……っ! 私は――」
オリヴィアは思わず真実を言いそうになった。
この事態を収拾したのは私です、と。
玄関ホールにいた全員の目がオリヴィアに集まる。
エドガーは、自分が第二倉庫で搬出の差配を振るったことで事態が収拾できたと思っているだろう。だが、真に必要だったのは、納品の優先順位をつけることだった。従業員たちはそれをエドガーがやったと思っているが、指示を出したのはオリヴィアだ。オリヴィアがいなければ、事態の収拾はついていなかった。今頃もっと混乱していただろう。
だが、それを表立ってオリヴィアが言うことは許されない。
オリヴィアはぐっと唇を噛み締めて、頭を下げた。
「申し訳ありません」
まあ! と義母が声を上げる。
「謝るだけなら誰にでもできるのよ。本当に役に立たない嫁だこと!」
視線を上げると、その場にいた全員の非難の視線がオリヴィアに突き刺さっていた。
「何なんですか、あの人たち!」
自室に戻ると、様子を見ていたエマが憤慨して叫んだ。
「全部オリヴィア様のお陰なのに!! 奥様も、自分が大変なことをしでかしたってわかってないんじゃないですか!?」
「エマ、お義母さまのことをそんな風に悪く言ってはだめよ」
「だって酷すぎません!?」
「仕方がないわ。私は『元平民の役立たず』なんだから」
「オリヴィア様は役立たずなんかじゃないのに!」
エマが小さな身体でぷりぷりと怒っているのを見ていると、オリヴィアは自分の中のやりきれない思いが薄まっていくような気がした。自分のために誰かが怒ってくれているという事実に、心が温かくなる。
「ありがとう。大丈夫よ、エドガー様もわかって下さっているから」
小言はうるさく思われているが、オリヴィアが夜な夜な商会の仕事をしていることは、エドガーも知っている。それだけは認めてくれていた。
今回のこの事態での働きを知ってもらえなかったとしても、オリヴィアは商会の――そしてエドガーの役に立てたのは事実なのだから、それだけで十分だった。
「今日はあと寝るだけだから、下がっていいわ」
「……わかりました。失礼します」
エマはまだ言いたいことがたくさんありそうだったが、渋々部屋を出ていった。オリヴィアとしては嬉しい気持ちもあるが、雇用主のことをあまり悪く言いすぎるのもよくない。エマのことだから部屋の外で口に出すことはないだろうが、うっかり態度に出てしまったら大変だ。最悪解雇されることにも繋がりかねない。
オリヴィアは執務机に向かうと、エドガーの帰宅の前にやっていた書類仕事を再開させた。今日は乗り切ったが、明日以降の分も段取りを組んでおかなければならない。輸送の手配もそうだが、補償として支払うための現金を準備しなければならないし、謝罪の手紙も送らなければならない。
思いつくままにやるべきことを挙げていると、突然、部屋の扉が乱暴に開けられた。
「オリヴィア!」
入ってきたのはエドガーだった。
この部屋に来るのはいつぶりだろう。
「エドガー様、どうかなさいましたか?」
立ち上がって迎えたオリヴィアに、エドガーは手にしていた紙を突きつけた。
「これはどういうことだ!」
「どういうことというのは……?」
突き出された紙を見ると、エマを通して従業員に渡したメモだった。他の誰かの手によっ書き込みがされているが、元はオリヴィアが書いたもので、追加の書き込みによって、それぞれがきちんと対処されたことが読み取れた。
「俺はこんなもの書いていない! どうしてこんな指示を出したんだ!」
「納品する商品が足りなかったので、優先度をつけました。納期が遅れてしまう契約については補償金を払う必要がありますが、それを最小限に――」
「そういうことじゃない! なぜこの契約が後回しなんだ! 高位貴族との取引だぞ! これもそうだ! 途中まではうちで運んでいるのに、途中から別の商会の荷に交ぜるなんて! うちの商会から納品しないと意味がないだろうが! 彼らとの取引よりも平民との契約を優先するなんて、何を考えている!」
「一つ目の家との取引は長いですし、ある程度融通を利かせて頂けることがわかっています。契約に従って補償金を払いさえすれば大きな問題にはなりません。二つ目の取引は、納期を優先しました。途中の街までは同じ方向でしたのでうちの荷馬車で運べますが、途中から二手に分けなければならかったので、そこから出る他の商会の荷馬車に便乗させて頂きました。荷馬車が不足している中、両方とも納期に間に合わせるために最も適した手段をとりました。高位貴族よりも平民との契約を優先させたのは、彼らにとっては納期の遅れが死活問題だからです。余裕のある日程を組むことができないので、私たちの納品が遅れれば後ろの全ての工程に影響し、収入減に直結します」
「御託はいい! せっかく苦労して高位貴族から契約を取って来たのに、これじゃ
「立場って……」
言いたいことはわかる。
何を優先するか、という問題なのだから。オリヴィアは商会と取引相手の被害を最小限にすることを優先したが、エドガーにとっては、高位貴族との契約を守り、自分の面子を潰さないことが、何よりも優先すべきことだったのだろう。
「申し訳ありません」
オリヴィアは頭を下げた。自分では正しいことをしたと思っているが、それが商会主であるエドガーの意に反していたのなら、謝るしかない。
「君は商会のことを何もわかっていないな」
エドガーが首を振った。
「商会がここまで大きくなったのは、俺が社交界で信頼を得て、契約を多数取ってきているからだ。今回だって、俺だけで上手くやれた。それを何もわかっていない君が、横から口を出すからこんなことになる」
「そんなことは……!」
何もわかっていない――それだけは聞き捨てならなかった。
商会のことを最も把握しているのはオリヴィアだ。エドガーでも、従業員の誰かでもない。オリヴィアはそう自負している。全ての書類に目を通し、流通と在庫の管理をしているのはオリヴィアなのだから。
新たな契約を開拓するのは確かに必要なことだ。だが、その契約を確実に実行する段取りを整えているのはオリヴィアで、それが長年積み重なっているからこそ、商会は信用を得られている。
「そもそも、今回の事態の発端は、君が手を抜いたからなんじゃないか?」
「えっ?」
思いもよらない言葉に、オリヴィアは間抜けな声を上げた。
「これまでは母親が無茶な取引をしても、なんとかなっていた。それが今回に限ってこんなことになったのは、君がわざとチェックの手を抜いたからだろう。俺に対する当てつけにしても、少々悪質なんじゃないか」
「なっ」
オリヴィアが、仕事の手を抜いた? エドガーへの当てつけで? わざと?
あまりの言い草に、オリヴィアは言葉を失った。
「この前の夜のことは謝ったじゃないか。それをいつまでもぐちぐちと根に持って。君にできるのはそのくらいしかないんだから、しっかりやってくれよ。でなきゃ本当にこの家にいる意味がないだろ」
この家にいる意味が、ない……?
オリヴィアの全身を震えが襲った。
怒りからなのか、悲しみからなのかわからない。とにかく制御不能な感情で心が黒く塗りつぶされていく。
オリヴィアは、エドガーと結婚をしたからここにいるのだ。商会の仕事をするためにいるわけではない。エドガーが、一緒にいたいと望んでくれたから、その手を取ったのに。
あまりの衝撃に、オリヴィアは手など抜いていないと抗弁することもできなかった。
「じゃあ、そういうわけだから。今後は余計な口出しをせずに、契約のチェックをきちんとやることに集中してくれ」
オリヴィアの様子がおかしいことに気づきもせずに、エドガーは部屋を出ていった。