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第9話 招待状

 数日かけて、何とか遅れていた納品を全て完了させ、商家は通常業務に戻った。エドガーが納品の優先順位を勝手に変えたりして多少の混乱はあったが、オリヴィアはそんなエドガーの判断を尊重しつつも、周囲への影響が最小限になるように尽力した。

 だが、騒動が鎮静化しても、オリヴィアの心中は複雑なままだ。商会のことを何もわかってないと言われたこと――そして何より、オリヴィアが仕事の手を抜いたと思われたことが、ずっと心に重くのしかかっている。


 連日の激務で寝不足になっていたオリヴィアが朝食をとりに食堂へ行くと、エドガーの他に、珍しく義母の姿があった。

「こんな日が来るなんてねぇ!」

 大きくデザインされた封蝋のついた封書を手に、義母は異様なほどの興奮を見せている。

 オリヴィアが席についたことに気づいていないのか、それとも無視しているのか、義母はオリヴィアには目もくれずに喜色満面で手紙を読み上げた。

 どうやら王都における高位貴族――具体的には侯爵家の一つで、特に権勢を誇る家柄の令嬢が主催する夜会の招待状だという。これまでエドガーが社交を頑張った成果なのか、あるいは義母が顔を売り込んだ結果なのか、侯爵家からクロフォード子爵家に招待状が届いたのはこれが初めてだった。

「母上、少し落ち着いてください」

「これが落ち着いていられるものですか!」

 義母は興奮を収めきれない様子だ。

「返事はどうしますか?」

「参加に決まっているわ! 上の階級の家柄に取り入るチャンスなんだから! それに、侯爵家の令嬢といえば、社交界の華。ここでうまく印象を残せば、私たちの地位もさらに確実なものになるわよ」

「ええ、もちろん承知しています。しかし――」

 エドガーが義母の手から招待状を奪い、それを掲げた。

「ここに、夫婦で、と書いてあります」

「『ご夫婦でのご参加を心よりお待ちしております』……本当だわ」

 二人の視線がオリヴィアに向く。

 他人事だと思って一人で朝食を食べ始めていたオリヴィアは、口に運んでいたフォークの手を止めた。

 夫婦同伴? エドガー様のみの招待ではないの?

 侯爵家主催の夜会。くだんの令嬢との直接の面識はないが、侯爵夫妻とは父親と共に顔を合わせたことがある。父親と関連する部署に息子が配属されたからと、わざわざエルンスト領まで挨拶に来てくれたのだ。

 令嬢主催とはいえ、邸宅での夜会ともなれば、当然両親の夫妻も顔を出すだろう。そうなれば、オリヴィアがエルンスト家の人間だったことが明るみになってしまう。

 いや――息子が役職を得たのを機に、夫妻は王都から離れて領地に住むことにしたと言っていたような気もする。子爵家に嫁いでから、他の家の話は全く耳に入ってこないから、今の状況がわからない。

 しかし、たとえ侯爵夫妻と顔を合せることにはならなかったとしても、他の出席者に、オリヴィアの顔を知る者がいないとも限らない。侯爵家主催なら、高位貴族も多く参加するだろう。オリヴィアが参加するのはリスクが高すぎる。

「オリヴィアを連れて行くわけにはいかないでしょう」

 エドガーが義母に言った言葉を聞いて、オリヴィアはほっとした。

「でも、夫婦同伴と書いてあるのよ」

「だとしてもこのオリヴィアを連れていくのは……」

「こんな地味な娘、どうせ誰からも相手にされないんだから、会場の隅でじっとさせておけばいいのよ。入口さえ同伴で通り抜けてしまえば、後は自由にできるのだから、壁の花にでもさせておけばいいわ」

 エドガーがオリヴィアをしげしげと見る。

「それにしたって……」

「なるべく目立たない格好で静かにしていることくらいできるでしょう。ねぇ? 当然行くわよね?」

 義母はオリヴィアに視線で圧をかけてきた。

「申し訳ありません……私には自信がありません。何か粗相をしてしまうかも……」

「そうですよ。もしも侯爵家に失礼があったら大変です。着ていくドレスもありませんし」

「ドレスならあるでしょう! 何のために買ったと思っているの!? クローゼットの肥やしにするためではないのよ。それに、最初にマナー講師も雇ったじゃない。最低限の振る舞いくらいはできるでしょう」

 確かに夜会用のドレスは買ってもらった。結婚後に一着だけ。くすんだ水色の、当時すでに流行遅れとなりつつあったデザインのものだ。

 マナー講師もつけてもらった。彼女は初日に、オリヴィアのマナーは完璧だからこれ以上学ぶ必要はない、と太鼓判を押したのだが、それを聞いた義母は、講師のくせに見る目がない、と断じて逆に講師を追い出してしまった。代わりの講師を呼んでもらえるはずもなく、結局オリヴィアが子爵家でマナーを学ぶ機会はなかった。

「いやしかし……」

 エドガーは、地味で平凡な元平民のオリヴィアを隣に置いておきたくないのだ。社交界で披露すれば笑われるのではと恐れている。

 それが如実に伝わってきて、オリヴィアは悲しくなった。

「体が弱くて参加できない、とするのはいかがですか」

 仕方なく、体のいい断り文句を提案する。

 オリヴィアの母親もよくそうやって招待を断っていた。今も病に苦しんでいるだろう母を想うと仮病を使うのは嫌だったが、オリヴィアはどうしても出席するわけにはいかない。

「そうだな。そうしよう。それがいい」

「駄目よ」

 すかさず賛同したエドガーを、義母がぴしゃりと否定する。

「あなたたちは結婚しているのだから、これからも夫婦同伴の招待は来るでしょう。今までは同格か下の家門ばかりだったから断れたけれど、特に高位貴族の開く夜会はパートナー必須のことも多いわ。それを断り続ければ、やがて招待状が届かなくなるのよ。参加できない奥様に悪いからと言ってね」

「でもオリヴィアは――」

「反論は許しません。こうするしかないことは、エドガーもわかっているでしょう。せっかくのチャンスをみすみす逃す気なの? 何のためにこれまで頑張って来たのよ」

「それは、まあ……」

 高位貴族へ顔を売るための絶好のチャンスであることは間違いなく、エドガーはそれ以上は何も言えなくなってしまった。

「あなたも、それでいいわね。いい機会だから、子どもみたいに駄々をこねていないで、いい加減に子爵夫人としての仕事をなさい。いつまでもタダ飯食らいの役立たずでいられては困るのよ。役に立てないのなら、この家を出て行ってもらうしかないわ」

 ひゅっとオリヴィアの喉が鳴った。

「母上……」

「だってそうじゃない。子爵夫人としての仕事を何一つしないのに、何のために結婚したのよ。こんなことなら結婚を許すんじゃなかったわ」

「まあ、それは、そうかもしれませんが……」

 オリヴィアは膝の上の手をぎゅっと握りしめた。

 結婚はエドガー様も望んだことではなかったの? 駆け落ちまでしてくれるって言っていたのに。

 子爵夫人としての仕事は確かにしていないし、商会の仕事は義母には見えていないのだから、何もしていないと言われるのは致し方ない。だが、エドガーだけはオリヴィアが商会になくてはならない存在であることをわかっていてもらえていると思っていた。なのに、その確信も先日のエドガーの言動から揺らいでいる。

 このままでは、本当に離婚されてしまうかもしれない。

 全てを捨ててエドガーとの結婚に飛び込んだオリヴィアは、この家を追い出されてしまったら、路頭に迷うしかない。

 オリヴィアには、出席する以外の選択肢はなかった。

「……わかりました」

 絞り出すようにして答える。

「え?」

「夜会に、出席します」

「そう! よかったわ! じゃあ準備をしなくっちゃね! エドガーの衣装もとびきりの物を用意しなくちゃ!」

「母上、夜会までそんなに時間はありませんから……」

「わかっているわよ。でもできるだけのことはしなくちゃ。そうでしょう?」

 義母が上機嫌で今後のことを話すのを遠くに聞きながら、オリヴィアの心は沈んでいった。

 あの日エドガーが口走っただけのはずだった「離婚」という言葉が、どんどん現実味を帯びていく。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 何度も繰り返した問いがまた浮かんでくるが、答えはなかった。

 オリヴィアはただ、目の前のことをとにかくこなすしかないのだ。

 まずは、どうにかして夜会を乗り切らなくてはならない。


「華やかな夜会で隣に立っても恥ずかしくない格好をしつつ、地味で目立たずに隅でじっとしていろ!? 何を無茶なことを!!」

 自室に戻ったオリヴィアが夜会の準備が必要なことを告げると、エマはオリヴィアが出席できることに大喜びしたあと、エドガーたちの要求を聞いて憤慨した。

 オリヴィアも自分で矛盾していると思いながら説明していたから、聞いた側がそう思うのも当然である。

「ドレスは一着しかないから、それでどうにかするしかないの。それに、私もなるべく目立たないようにしたいと思っているわ。最低限品位を損なわない程度に整えて、あとはできる限り地味にして欲しいの」

「でもこのドレスじゃあ、逆に悪目立ちしてしまいますよ」

 エマが引っ張りだしてきたドレスを見て、オリヴィアはため息をつく。

 二年前でさえ流行遅れに片足を突っ込んでいた型なのだ。今となっては完全に過去のデザインとなってしまっているだろう。

「どうにかして今風に直せないかしら」

 そう言ってはみたものの、社交界から離れて久しいオリヴィアは、「今風」がどんなものなのかもよくわからない。

「まずはリサーチが必要ですね。仕立て屋も押さえておきます」

「なるべく費用は安くなるようにお願いね。手持ちが少ないから……」

「お任せください」

 オリヴィアには収入がない。子爵家の家計はいまだに義母が握っており、オリヴィアに個人的に割り当てられた予算はないし、正式な従業員ではないから商会の給金も支払われていない。結局オリヴィアは、公爵家を出る時に持ち出した宝飾品を売り払い、そのお金を少しずつ取り崩していた。

「オリヴィア様は華やかな格好の方が絶対に似合うのに……」

 髪型や化粧はどうしよう、とドレスをオリヴィアに当てながら、エマが呟く。

「そうかしら。似合わないと思うわよ。髪と瞳の色も茶色で地味だし」

 公爵家でも、高級なドレスや宝飾品を身に着けてはいたが、あまり華やかな服装はしていなかった。地味なのは自覚している。

「とんでもない! この艶やかな髪は結って髪飾りをつければ絶対に映えますし、瞳は柔らかな印象がありますから、派手なドレスを着てもきつい印象になりません。絶対お美しいですよ。いつかお金に糸目をつけず、オリヴィア様に完璧に似合うコーディネイトをしてみたいです!」

「ふふふ……。そうね。いつかそんな機会があったら、お願いするわ」

「絶対ですよ! 絶っっ対ですからね!」

「ええ、もちろんよ」

 沈んでいた気持ちが、エマの明るさにつられて、幾分か浮上してくる。

「でも今は、逆に地味にしろというご要望なので、どうにかやってみますね」

「お願い」

 エマはオリヴィアの肩にケープを掛けた。

「地味というのが難しいですよね。華やかなみなさんの中にいると、単に地味なだけだと浮いてしまうと思うんです」

「印象に残らないような、ぼんやりとした顔にはできないかしら。話しかけられたとしても、すぐに忘れてもらえるような。なるべく素顔の私とは違う系統になるとなおいいわ」

 埋没して誰にも話しかけられないのが理想だが、万が一知り合いと顔を合わせたとしても、勘当されたエルンストの娘だと悟られないようにしたい。

「そうですねぇ……なら、オリヴィア様は知的な印象が強いので、眉をぼかして、目元も少し下げて……」

 エマがオリヴィアのメイクを直していく。

「――どうでしょう?」

 ああでもないこうでもない、と言っていたエマは、ようやく納得がいったのか、オリヴィアに鏡を渡した。

「まあっ」

 鏡を覗き込んだオリヴィアが目を丸くする。

「すごいわ。全然印象が変わるのね」

 むふ、とエマが胸を張る。

「オリヴィア様の美しさを損ねるのは本当に残念ですが、ご要望通り、ぼんやりとした顔にできたと思います」

 そう言って、エマはドレスをオリヴィアに当て直した。

「ドレスの色に合わせるなら、もう少しアイシャドウを暗めにした方がいいかもしれないですね。肩の開き具合からして、輪郭ももうちょっと……」

 エマが手直しをした後、できました、と言われて改めて鏡を渡されても、オリヴィアにはどこがどう変わったかは判別がつかなかったが、とにかく記憶に残りにくい顔になっているのは自分でもわかった。

「次は髪ですね」

 そう言って、エマは簡素に結っていたオリヴィアの髪をほどき、改めて結い直していく。

「凝ると目立ってしまうので、大きな髪飾りをつけなくても失礼のない程度には華やかにしつつ、オーソドックスな型からは外れないようにします」

 下ろされていた髪の束がみるみるうちに少なくなっていき、エマはあっという間にオリヴィアの髪を結いあげた。まるで魔法のようだ。

「まあ、素敵だわ」

 合わせ鏡にして、後ろも確認する。

「横のところを、少し編み込んでいます。オリヴィア様の艶のある髪が光を反射するので、髪飾りをつけなくても気にならないかと。後ろには……そうですね、これなんかはいかがでしょう」

 宝石箱から小さな髪飾りを取り出して、オリヴィアに見せる。

 ダイヤがあしらわれているが小粒で、決して華美ではない。

「挿してみてくれる? ……ああ、いいわね」

 注目を集めるほどでもなく、何もつけていないよりは目立たない。

「あとは、装飾品ですけど――」

 エマがよさそうな物を取り出して並べていく。

「耳飾りはなくてもいいですが、首飾りくらいはしないと、見栄えが悪いと思います。ドレスの首元もあっさりとしすぎていますし。お直しで刺繍を入れとしても……やっぱり装飾品はあった方がよいかと」

「そうね……あ、これはどうかしら」

 オリヴィアが選んだのは、土台は真鍮しんちゅうでできているが、そこに真珠があしらわれている古びたネックレスだった。

「真珠ですか……お似合いにはなると思いますが、少々高価なのでは」

「目立ってしまうかしら」

「ただの真珠であればともかく、アンティークですからね。地金が金でないとはいえ、見る人が見たら目に留まってしまうかと思います」

「そう……」

 オリヴィアはそっとそれを宝石箱に戻した。

「何か思い入れが?」

「昔母がくれたものなの」

 幼い頃の誕生日に、あなたが素敵なレディになったらつけてね、と言われてもらったのだ。母もそうして、祖母からもらったのだと言う。だが、公爵家で着ていたドレスには合わなくて、今までつけたことはなかった。

「お母様が!? ならつけましょう! ええ、つけましょう! その分、顔とドレスをもっと地味にすればいいんです!」

 エマは戻したばかりのネックレスを取り出して、オリヴィアに着けた。

「ほら、お似合いですよ」

「大丈夫? 目立たないかしら」

いわくのあるような有名な物ではないのですよね? であれば大丈夫です。聞かれたとしても、子爵家なら代々持っていてもおかしくないですし、誤魔化せますよ」

「そう? なら、これにするわ」

 オリヴィアはもう一度首元を鏡で確認して決めた。

「ドレスを直したら、念のためもう一度ヘアメイクをして確認しましょう。でも、今のお顔に合わせたデザインにしてもらうつもりなので、そんなに大きく変えることはないと思います」

「ありがとう。お願いね」

「直す前に、デザインの確認はしますか?」

「……ううん、いいわ。私が見ても流行はわからないもの。エマに任せるわ」

「わかりました。素敵な……と言いたいところですけど、ご要望通り、地味で目立たないドレスにしてもらいます」

「ええ、よろしくね」

 どうにかなりそうだとわかり、オリヴィアはほっとする。

「さあ、ではオリヴィア様は、今から少しお休みになってください」

「えっ?」

 エマがオリヴィアのメイクを落とし始める。

「まだ昼前よ?」

「駄目です。ドレスを着るのは体力勝負なんですから、体調は万全にしないと。倒れでもしたら目立つなんてものじゃないですよ。この隈もかなり目立ちます」

「隈はさっきメイクで隠せてたじゃない」

「それでも駄目です。これから夜会までの間、オリヴィア様にはゆったりと過ごしていただきます。夜のお仕事が削れないなら、昼間に寝て頂くしかないじゃないですか」

 髪もほどかれ、寝間着に着替えさせられて、寝台へと追いやられた。

「こんな昼間からなんて、絶対に眠れないわ……」

 布団をかぶって呟いたオリヴィアは、しかし連日の睡眠不足がたたって、すぐに眠りに落ちていった。


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