数日後、クロフォード子爵家の屋敷は、朝から何やら慌ただしかった。
自室の窓から見下ろせば、運送用の馬車が何台も玄関先へ横付けされ、使用人や下働きたちが大声で指示を飛ばし合っている。
「何かあったの?」
オリヴィアは、身支度を整えに来た侍女のエマに尋ねた。
屋敷内で孤立しているオリヴィアにとって、エマは唯一の味方だ。オリヴィアが嫁いだ後に子爵家に雇われた新人なのだが、他の使用人がみなオリヴィアの侍女になりたがらなかったせいで、いきなりオリヴィア付きとなってしまった不憫な娘だ。義母ににらまれれば解雇されてしまうというのに、周りの目から隠れながら、オリヴィアをいつも助けてくれている。
「商会の方でトラブルがあったようです」
「トラブルって、どんな?」
「さあ……調べてきましょうか?」
「そうね、お願い。私も直接行ってみるわ」
オリヴィアは普段よりもさらに地味な服装に着替えると、屋敷から出て、その辺にいた下働きと思われる男に話しかけた。子爵夫人だと気づかれると面倒だから、なるべく見慣れない人物を狙った。オリヴィアは普段引きこもっているから、下働きであれば従業員であってもオリヴィアの顔を知らない者は多い。
「何かあったの?」
「いやね、荷馬車が足りないってんで、急にかき集められてきたはいいんだけど、まだ運ぶ荷が決まってないって話で」
「そうなの……」
どうりで見慣れないわけで、オリヴィアが話しかけたのは商会の従業員ですらなく、臨時で雇われた者のようだ。ここには同じような男たちが数人たむろしている。
荷馬車も足りないし、荷物の仕分けもできていない。
オリヴィアが把握している商会の輸送の計画では、そんなことが起こる兆候はなかった。いつもきちんと余裕をみた搬入出で計画を立てているから、多少の遅れがあっても後の日程には響かないようになっている。少なくとも、臨時で人を雇うようなことにはならないはずだ。
何か不測の事態が起きている――。
さらに詳しい話を聞こうとした時、義母がやって来た。
「何をしているの!」
「お義母さま、おはようございます」
オリヴィアは丁寧にお辞儀をした。
それを見た男がぎょっとする。
義母のけばけばしい身なりから前子爵夫人であると推測し、その女性をオリヴィアが義母と呼んだことで、オリヴィアの身分も察したのだろう。地味な服装から、下級の使用人の一人だろう、ぐらいにしか思っていなかった女性が子爵家の奥様だったと知って、顔を真っ青にしている。もっとも、オリヴィアはそれを見越してこのひどく地味な服装で来たのだが。
「た、大変失礼いたしました。まさか奥様でいらっしゃったとは……。無礼を働いて申し訳ございませんでした」
男はオリヴィアに対する自分の無礼な態度を前子爵夫人に
「何をしているのかと聞いているのよ!」
「騒がしかったので、何かあったのかと思って、尋ねていました」
「聞いたところであなたに何ができるわけでもないでしょう! 何もできない役立たずのくせに! みっともないから人前に出ないで頂戴!」
「申し訳ありません」
みっともないのは、外部の人の前で嫁を侮辱しているあなたの方なのでは、と思わないでもないが、もちろんそれは口にしない。深く体を折って謝罪した。
「作業の邪魔をしてしまって、ごめんなさいね。荷運び、どうかよろしくお願いします」
「とんでもありません」
無視されて所在なさげにしている男に一言声をかけると、義母はまたぎろりとオリヴィアをにらみつけた。安易に平民と言葉を交わすものではない、ましてや頭を下げるなど、と目が言っている。
オリヴィアが公爵家で受けた令嬢教育では、平民と言葉を交わすことは禁じられていないし、
相手がこちらを貴族と認識した上で侮辱してきたならばともかく、オリヴィアを子爵夫人と認めてからは丁寧に接してくれているし、先ほどの無礼な物言いも、オリヴィアが使用人を装って話しかけたのだから非があるはずもない。
だが、きっとこういう部分の価値観のすれ違いの積み重ねが、ろくな教育も受けていない元平民、と評される原因なのだろう。
それに、公爵令嬢でいた頃は、どんな振る舞いをしたとしても、公女が間違うわけがない、という空気があり、何もかもが大目に見られていたのかもしれない。
オリヴィアは小さくため息をつくと、感情的に怒りを露わにしている義母に続いて、屋敷の中へと入って行った。
玄関ホールに入るとすぐに、使用人の一人が、焦った様子で義母に駆け寄ってきた。
「輸送の荷馬車が足りないようです! 予定より荷が増えすぎて……。日没までに人をかき集めないと、今日の納品に間に合いません! ですが、運ぶ荷物もまだ整理できていない状態です!」
先ほど男に聞いた話と一致している。
義母は疲れたようにため息をつき、ちらとオリヴィアを振り返ってから、軽蔑の眼差しを向ける。
「何をこそこそと盗み聞きをしているの! さっさと部屋に戻りなさい! 聞いたところで何もできやしないんだから! ――あなたたちも、そんなことで
「で、ですが、大奥様……!」
「エドガーはどうしたの。商会はエドガーの仕事でしょう!」
「旦那様は敷地外の第二倉庫の方に行っておられます」
商会は、屋敷の敷地内にある倉庫よりももっと大きな倉庫を持っている。そちらの方が混乱が大きく、エドガーはそれを収めるために現地で直接指示をだしているのだろう。
「とにかく、なんとかしなさい!」
それだけ言い放つと、義母は部屋へ向かってしまった。指示もないままに取り残された使用人は困り果てている。対策が何も思い浮かばないのだ。
何か声をかけてやりたいが、オリヴィアが何を言ったところで、義母と使用人たちは「平民上がりの役立たず」の一言で退けるだろう。エドガーからも「黙っていろ」と叱責されてしまうのは目に見えている。
しかし、だからといって手をこまねいていられるはずもなかった。
なぜオリヴィアの把握していない輸送が発生しているのか。まずはそこから調べる必要がある。
オリヴィアはぶらぶらと屋敷内を徘徊するようにして、漏れ聞こえてくる話を拾っていった。関連書類を確認できれば一発なのだが、真っ昼間の今はできない。オリヴィアが商会の事務室に出向いたとしても、すぐに邪魔だと追い出されてしまうのがオチだ。
聞き耳を立ててだいたいの概要をつかみ、部屋に戻ると、エマが書類を抱えて待っていた。
「ご入用かと思い、お持ちしました!」
「まあ、よく持ち出せたわね」
エマから渡されたのは、今まさに問題になっている取引の見積書だった。大きくバツがついていて、下方に書き損じの跡がある。清書に失敗して書き直す前の書類だろう。正式なものではないが、状況を把握するには十分だ。
他にも、会議の議事メモやら、下働きへの指示を出すためのメモやらが、ごっそり手に入った。焼却する用に積んであった山から拝借してきたのだと思われた。
「インクの補充だと言って潜入してきました」
むん、と胸を張るエマに、オリヴィアは苦笑した。商会の心臓部にそんな簡単に部外者が入れてしまうのは困るのだが……お手柄ではある。セキュリティの見直しは後ですることにして、オリヴィアはまず目の前の問題に集中した。
オリヴィアが聞き集めた情報と、エマが持ち出した書類の情報を総合すると、今回の事態は、義母が勝手に新しい大口の取引を請け負ったことが理由だった。実際の搬出手配やスケジュール管理など全く考えずに契約を結んでしまったのだ。
「そんなことだろうと思ったわ……」
これまでも、こういった義母による無茶な取引はあった。それをオリヴィアはこっそり調整していたのだ。夜のうちにエドガーの筆跡を真似て書類に指示を書き残し、翌日以降の運搬に響かないようにしていた。
しかし今回の契約は通常のものとは別管理となっていたために、書類がオリヴィアの目に触れないままとなってしまった。急に割り込んできた大口の契約のせいで他の輸送の予定が狂ってしまい、ばたばたとドミノ倒しのように多くの契約に影響が波及している。
このままでは、日没を過ぎても荷物の搬出が終わらず、納品が遅れてしまうだろう。信用を失うことにもなるし、遅延に対する補償金を払わねばならない契約もあった。せっかくの好調な商会が打撃を受けることになる。それだけはオリヴィアも避けたい。
オリヴィアは自分用にとまとめていた輸送に関するデータ――契約先や商品別の在庫量、そして馬車や人員の予約情報などが細かく記されている書類――を引っ張り出した。
それに今回の取引の商品と輸送の情報を書き加えて、最新化する。
やはり、絶対的に荷馬車が不足している。だがそれよりも、肝心の荷が足りない。在庫がないのだ。このままでは、馬車を集めたとしても、運ぶ荷物がないということになる。
そして、その荷が追加搬入されるのはもっと後の日程だった。もっと早くにわかっていれば、昨日や朝一で出発した荷を止めてやりくりすることもできた。だが、時すでに遅し。現状、商品が不足している。
であるならば、全てを予定通りに納品するのを諦めて、優先度をつける必要があった。納期に余裕のある輸送は後回しにして、急ぎや重要な納品を優先させるのだ。場合によっては、補償金を払うこともやむなしとする。
オリヴィアは素早く優先度を判断していった。在庫と輸送力、距離や方角も考慮して、最も損害が少なくなるようにリストを作る。
「エマ、追加で何台の荷馬車が来ているかわかる?」
「調べてきます!」
エマを待つ間も、オリヴィアは紙に指示を書きつけていく。
戻って来たエマは、屋敷に来ている荷馬車だけでなく、第二倉庫の方に集まっている荷馬車の台数も報告してくれた。どうやったのかは聞かないでおく。また潜入して書類を盗みみたのかもしれないし、単に臨時で雇われた男たちに聞いただけなのかもしれない。
調べてもらった荷馬車の数を踏まえた指示を書き加え、エマにメモを渡す。
「これを、エドガー様からの指示だと言って渡してきて」
エドガーの筆跡に似せて書いてあるから、従業員は疑うことなく指示を実行するだろう。
「わかりました!」
エマが部屋を出ていくと、オリヴィアはぐったりとソファにもたれた。
難しい判断を迫られる契約もあった。正しい判断ができたかどうかわからない。だが、何もしないよりはいいだろう。あのままでは、全ての納品が共倒れになってしまうところだったのだから。
「お疲れ様でございました」
戻って来たエマが、ハーブティを淹れてくれる。
するとにわかに外が騒がしくなった。荷物が動き始めたのだろう。
結果がどうなるかはわからない。だが、ひとまずできることはやった。あとは事態が好転するのを待つしかない。
オリヴィアは静かに目を閉じた。