エマのお陰でドレスの準備も何とか間に合った。
そして迎えた夜会当日、身支度を整えたオリヴィアが玄関ホールへと階段を降りていくと、エドガーが義母と夜会での振る舞い方について最後の確認をしているところだった。
「お待たせいたしました、エドガー様」
オリヴィアが声をかけると、振り向いたエドガーは額に手を当てて大きくため息をつく。
「なんだその格好は。俺は何度も準備に怠りはないかと聞いただろう。それを大丈夫だと言うから任せたのに……。ドレスも酷い色だ。こんな地味な妻を連れて行かなきゃいけない俺の身にもなってくれよ」
オリヴィアだって、綺麗だと褒めてもらえるとは思っていなかった。だが、仮にも妻に対してあんまりな言い草ではないだろうか。
「本当にひどいわね。子爵夫人とは思えないわ。なんなの、その古ぼけたネックレスは」
オリヴィアはさっと胸元を隠した。
「目立たないようにとのお話だったので、そのようにしました」
「ああそうだな。大成功だよ。誰も君の事なんか眼中にないだろうな」
皮肉を言うように、エドガーが吐き捨てる。
「どうにかしたいところだが、もう時間がない。行くぞ」
そう言って、エドガーはさっさと一人で玄関を出て行ってしまう。
エスコートの一つもしてもらえないことに、オリヴィアの胸が痛んだ。
背中を追いかけようとしたオリヴィアの腕を、義母がぐっとつかむ。
「絶対に粗相をするんじゃないわよ。エドガーの邪魔はせずに、でしゃばらず、壁の前でじっとしているの。いいわね!」
「はい。心得ております」
オリヴィアは微笑みを返すと、エドガーの後を追った。
侯爵邸は噂どおりの壮麗さを誇っていた。
夜も早い時間だというのに、邸の前には貴族たちの馬車がずらりと並び、門の内側は美しい噴水がライトアップされている。広大な庭園には多種多様な花や植栽が夜風にそよいでおり、ここまで甘い香りが漂ってきそうだ。
オリヴィアは馬車の窓越しにその光景を見て、思わず言葉を失った。公爵家を離れて久しい今の彼女には、この華やかさがどこか懐かしくもあり、同時に身のすくむ思いもする。
エドガーが馬車の扉を開けると、侯爵家の使用人が慇懃に挨拶してきた。ここから先、オリヴィアはエドガーのエスコートで、子爵夫妻として会場まで並んで歩かねばならない。
「行くぞ、オリヴィア」
低く抑えた声で、エドガーが促す。突き出された肘にオリヴィアは手をかけた。
久しぶりに感じたエドガーの体温に、オリヴィアの涙腺がじわりと緩んだ。エドガーの態度は相変わらず冷たく、二人の身体は心持ち離れ気味ですらあるというのに、手袋越しのぬくもりだけでも嬉しくなってしまう。
エドガーへの変わらない気持ちを自覚してしまって、自分でも驚くほどだ。
オリヴィアは涙がこぼれないように小さく深呼吸をすると、エドガーと並んで歩き出した。
今宵の夜会は、侯爵家の令嬢カミラ・ローゼンベルクが開いたものだ。彼女は近ごろ社交界の華として名を馳せており、舞踏会や夜会のたびに大勢の貴族が集まるらしい。
建物に入ると、噂通りの華麗な世界が広がっていた。まばゆいシャンデリアが照らすエントランスでは、華やかな衣装を纏った貴族たちが談笑している。溢れ出る香水やワインの香り、絶えず聞こえる笑い声や音楽。すべてが
「お待ちしておりました、クロフォード子爵様。そして奥様も」
会場係と思しき執事にエドガーが招待状を見せると、彼は笑顔で出迎えた。だが、その目がオリヴィアのドレスをとらえ、一瞬だけ微かな驚きを浮かべる。華やかな衣裳があふれる会場で、この地味なドレスがどう映ったのか、想像に難くない。
その様子を知ってか知らずか、眉をしかめたエドガーがオリヴィアを連れて中へ進む。そこには紅いカーペットが敷かれ、左右には壮麗な飾り柱が並んでおり、上を見ると見事な天井画が広がっていた。
久しぶりの華やかな雰囲気に圧倒されたオリヴィアに、周囲の話し声が飛び込んでくる。
「あれがクロフォード子爵様? 聞いたわ、最近すごく人気があるらしいわね」
「事業の商会が大成功しているし、なによりあの軽快なトークが魅力だもの。でも奥様は……意外に地味ね」
「これまで社交界に顔を出してこなかったのも頷けるわ。あれじゃあね……」
きらびやかなドレスを身につけた貴婦人たちが、オリヴィアを値踏みするような眼差しを向けてくる。
予想通りではあったが、実際に陰口を囁かれると胸が痛んだ。この程度で怯んではいけないと自分に言い聞かせ、オリヴィアは逃げ出したくなる気持ちをこらえた。
「よう、エドガー。来たんだな」
エドガーの知り合いらしき男性が声をかけてくると、エドガーはくるりと体ごとそちらを向いた。その拍子にオリヴィアの手がエドガーの肘から離れる。
オリヴィアは一瞬、取り残されたような気持ちになった。しかし、むしろ、このまま放っておかれる方が気楽だろうと思い直す。
義母とエドガーに口酸っぱく言い聞かせられた通りに、艶やかなドレスやタキシードを身に纏った貴族たちが談笑する中を素早く通り抜け、オリヴィアは会場の隅の方へ向かった。途中で給仕から飲み物を受け取り、一人でグラスを傾けながら壁際に立つ。
だが、そこでもオリヴィアは数々の視線にさらされた。
せっかく目立たない格好をしてきたのに、エドガー・クロフォードの妻というだけで注目を浴びてしまうらしい。エドガーはオリヴィアが思っていた以上に社交界で人気なようだ。なるほどこれではエドガーが「地味な」オリヴィアの出席を渋る気持ちも、わからないでもない。
「クロフォード子爵様のことだから、もっと派手な女性を連れてくるかと思ったのに」
「まさか子爵様が妻は地味だと言っていたのが、謙遜ではなくて本当だったなんて思わないじゃない?」
そんな会話を聞き流しながら、オリヴィアは「大丈夫、気にしなくていい」と頭の中で繰り返した。
多少の陰口は覚悟していたことだ。誰かにエルンスト公爵家の勘当された娘と見破られさえしなければいい。そのためにわざと地味で印象に残らないメイクと服装で来たのだから。
そう思うのだが、やはり胸が痛いのを抑えられない。
気持ちを落ち着かせようと目を伏せている間にエドガーの姿を見失ったが、またすぐに見つけ出した。エドガーの華やかな容姿は人目を引く。正装した姿であればなおさらだ。
そのエドガーが、話し相手を変えながら少しずつオリヴィアの方へと近づいて来る。
側に来てくれるつもりなのだろうか、と一瞬期待したが、エドガーの目はオリヴィアを全く見ていない。単に知り合いを見つけるたびに移動していたら、偶然近づいてきてしまっているだけのようだった。
会話がわずかながら聞こえてくる程の距離まで近づいた時、エドガーに妖艶な笑みを浮かべる黒髪の美女が話しかけた。
「ごきげんよう、楽しんでいらっしゃいますか?」
オリヴィアはすぐにピンときた。彼女が主催者のカミラ・ローゼンベルクだろう。
カミラの姿は、他の貴族令嬢とは明らかに違う華やかさを放っていた。ウェーブのかかった黒髪には高価そうな髪飾りが揺れ、深い色合いのドレスには大胆な刺繍が施されている。その立ち居振る舞いから滲む自信と気品が、人々の視線を引きつけていた。
話しかけられたエドガーは、明らかに目を輝かせ、笑顔でカミラの手を取る。
「初めまして、ローゼンベルク嬢。エドガー・クロフォードと申します」
「クロフォードというと、最近盛況だというあの商会の? うちとも取引がありますわよね?」
「よくご存じで。侯爵様には常日頃から大変お世話になっています」
そのうち、二人の周囲には人だかりができ、カミラを中心に軽快な会話が弾んでいった。
その様子を見ていたオリヴィアは胸が締めつけられるような思いにさらされた。オリヴィアはエドガーの笑顔を久しく向けられていない。今、あの眩しい笑顔は、オリヴィアではなく、別の女性であるカミラに向けられている。
周囲の女性たちは「まあ、エドガー様とカミラ様、絵になるわ」「あの地味な夫人はどこにいったのかしら?」などと囁き合っている。どの言葉もオリヴィアの胸に鋭く刺さるが、それでも人前で表情を崩すわけにはいかない。じっと唇を噛みしめて、オリヴィアはただ耐えた。
と、突然ホールの入口の方にいた貴族たちがざわめき始めた。一部の人間が軽く頭を下げる仕草をしている。
何かしら……。
オリヴィアが不思議に思って視線を巡らせると、黒髪の男性が目に留まった。高身長の体躯を際立たせるシンプルな礼装――そこには、王家の紋章があしらわれている。
王族で黒髪の若い男性といえば一人しかいない。間違いなく、この国の王太子、アレクシス・ヴァイスブルクだ。
「王太子殿下がいらしたの? 信じられない……」
「さすがはカミラ様だわ」
誰かがつぶやく声が耳に入る。
王太子アレクシスは、冷徹な実利主義と噂され、よほどの事がなければ大きな夜会にも顔を出さないと言われている。だからこそ、主催のカミラに称賛が集まっていた。
広々としたホールに自然と道ができ、貴族たちが恭しく頭を下げているが、アレクシスは無言のまま歩みを進め、特定の者に話しかけることもなく視線を滑らせている。
「あ……」
思わず声が出たのは、アレクシスの視線がオリヴィアで止まったからだ。オリヴィアは壁際で静かに
王太子は貴族がひしめくホールの中央を離れ、まっすぐこちらへ向かってくる。その迷いのない足取りに周囲の人々がざわついた。
「まさか、あの地味な夫人に興味がおありなの?」
「何かの間違いだわ、きっと。だって……」
無視できぬほどの緊張感が走る中、アレクシスはオリヴィアの近くで立ち止まる。そして低く落ち着いた声で話しかけた。
「ご一緒してもよろしいか?」
王太子殿下が、自分に話しかけている……?
オリヴィアは一瞬目を見開くが、すぐに深く礼を取った。
「は、はい、どうぞ……。オリヴィア・クロフォードと申します。王太子殿下にお目にかかれて光栄です」
とっさに、身に染み付いた元平民らしからぬ完璧な所作で挨拶してしまったことで、オリヴィアは内心ひやりとした。だが、相手が王太子ともなれば、元平民のふりでわざと無礼な態度を取るわけにもいかない。振る舞い方を考える時間があったとしても、どちらが正解なのか迷うだけだったかもしれなかった。
アレクシスは少しだけ目を細めてオリヴィアを不思議そうに見た。
「クロフォード……聞いたことがないな」
「王都に居を構えるしがない子爵家でございます。領地も賜っておりませんので、殿下のお耳に入らないのも当然のことかと」
「そうか。失礼した。立ち姿が印象的だったものだから、どこかの名家のご令嬢かと思った」
「とんでもございません」
なるべく顔を上げないようにしながら、オリヴィアはアレクシスの興味が削がれてくれるのを強く願った。エルンスト公爵令嬢だった頃に王太子とは面識はなかったから、王太子自身には顔を見られても問題はない。だが、こんな風に注目を浴びてしまったら、オリヴィアに気づく者がいてもおかしくない。
そこに、すっと近づいて来た者がいた。
「王太子殿下。お初にお目にかかります。エドガー・クロフォードと申します。妻に何かございましたでしょうか」
オリヴィアと王太子が話しているのを見て、慌ててやってきたのだろう。
エドガーの声は、王太子に目通りが叶ったという興奮でわずかに上擦っていた。
「いや、何でもない。失礼した」
「あっ、殿下、もしよろしければお話を――」
千載一遇のチャンスとばかりに、エドガーは飛びついて来たのだろうが、アレクシスはオリヴィアの願った通りに興味をなくしたらしかった。すぐにその場から立ち去り、一度は追いすがったエドガーも、それ以上は近寄ることはできずに取り残されてしまう。
人々の関心も、王太子の移動に伴ってそちらに移っていった。
オリヴィアは張りつめていた息を、ふーっと静かに漏らす。
動悸が収まらない。
大丈夫。大丈夫よ。絶対にバレていないから。殿下は私に気づいていなかったもの。会ったことがないのだから当然よね。他の人だって気づいていない。大丈夫。バレたりしないわ。
オリヴィアは内心の動揺を隠しきれず、自分が王族と言葉を交わした感激に震える下位貴族に見えていることを、ただ祈るばかりだった。
* * * * *
アレクシスはホールの中央へと戻りながら、先ほどのオリヴィアとのやり取りを脳裏で
到着し、広い会場内を見回していたら、なぜかオリヴィアの所だけスポットライトを浴びているかのように目を惹いた。
近づいて話しかけてみれば、意外にも見た目は地味で、なぜ目が留まったのかわからない。すでに顔も思い出せないほどだ。
しかし、見た目の地味さに反し、奥ゆかしさや整った所作、さほど卑屈にならない物腰――それらがどうにも印象に残った。それに、あの知的な目だ。地味な装いに不釣り合いなほどの知性をたたえていた。
振り返ってオリヴィアの姿を改めて見れば、やはり妙に目を惹きつける。
遠目で見れば印象的で、近づけば顔も覚えられない程に地味。しかし纏う雰囲気は強く印象に残る。ちぐはぐで面白い人物だ。
子爵夫人と名乗っていたが、もしかすると高位貴族の出身なのかもしれない。
立太子して久しいが、アレクシスはまだ自身の立場を固めきれていなかった。優秀な人材であるならば、ぜひとも取り込みたい。
少し、部下に探らせてみるか……。
アレクシスは一瞬だけ笑みを浮かべ、人々の歓迎を受け流すように歩みを再開した。
* * * * *
オリヴィアは、王太子との会話の後、さらに人目を忍ぶように壁際でやり過ごしていた。時折通りかかる給仕から飲み物を受け取りながら、一人でグラスを傾ける。その視線の先には、再びカミラやその他の貴族に取り巻かれているエドガーがいた。
エドガーはにこやかな笑顔を振りまきながら、しきりにカミラに話しかけていた。他の女性陣も、エドガーの話を聞いて弾けるような笑い声を立てている。周りの貴族たちも盛り上がっていて、本来なら傍らにいるはずの子爵夫人の存在など欠片も気にされていない。
胸が痛むが、先ほど予定外の注目を浴びてしまったオリヴィアとしては、こうして放置されている方が安全だった。
音楽が高まると、中央の舞踏スペースで踊りが始まる。きらめく衣装を纏った男女が軽やかにステップを踏み、笑い声がホール全体に満ちていく。その華やかさは、オリヴィアから見ても息を呑むほど美しく、壁際の花とはまるで別世界のように思えた。
そこにはエドガーとカミラの姿もあった。エドガーはこの手の舞踏が得意で、社交界では優雅なダンスをする子爵として人気があることを、オリヴィアは今日、女性陣の囁きを漏れ聞いて知った。カミラは彼にうっとりと寄り添い、遠目にも絵になるペアとして人々の注目を集めている。
華やかな彼らとは一線を画し、オリヴィアはただ静かに視線を伏せた。