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第13話 隠しきれない素性

 オリヴィアはアレクシスに手を引かれるまま、ホールを横切った。


「殿下、もし――」


 数人がアレクシスの関心を引こうと話しかけたが、アレクシスはそれを一睨ひとにらみで制す。


 ただならぬ二人の様子に、何事かと周囲が注目しており、公女として視線を受け流すことの多かったオリヴィアでも、ここまで好奇心のこもった視線を意識外に押しやるのは難しいのだが、やはりアレクシスは意に介していなかった。


 アレクシスとオリヴィアは、ホールを出ると、休憩室へと向かった。


「王太子殿下、ここまでありがとうございました」


 部屋の前で、オリヴィアはアレクシスの手を離して礼をとる。


「中まで送る」

「それは――」

「もちろん、扉は開けておく」


 男女が密室にいてはよからぬ噂が立つから、当然のマナーだ。しかし、開けておいたからと言って、何の噂も立たないわけではない。


 だが、それももはや今さらかもしれなかった。すでにアレクシスに手を引かれてここまで来てしまったのだから。


「わかりました。ありがとうございます」


 オリヴィアが折れると、アレクシスは扉を開き、オリヴィアを部屋に入れてソファに座らせた。


 手ずから水差しからグラスへと水を注ぎ、オリヴィアへと渡す。


「ありがとうございます」


 オリヴィアが礼を言うと、アレクシスはそのまま自分も向かいの席に座ってしまった。


 やっぱりそうなるのね、とオリヴィアは嘆息する。


 このまま会場に戻ってくれることを期待はしたのだが、無駄だった。


「さて――」


 優雅に足を組んだアレクシスは、じっとオリヴィアを見た。オリヴィアは何を言われるのかと身構える。


「まさかあなたが、こんな所で子爵夫人をしているとは思わなかったぞ――オリヴィア・エルンスト」


 旧姓を言い当てられても、オリヴィアは動揺しなかった。アレクシスは確信を持っているように見えていたから。


 だが、一応、否定しておく。


「何をおっしゃっているのかわかりません。私は、オリヴィア・クロフォードです」

「誤魔化そうとするのは無意味だからやめておけ。俺は確かな情報を得ている。あなたはエルンスト公爵の娘だ。そうだろう?」

「……はい」


 観念したオリヴィアは、白状した。


 あの衆目の前でこの事実が明るみにならなかっただけよかった、ということにしよう。逃げ方は最悪だったが、逃げたのは間違いではなかった。


 オリヴィアはすっと背筋を伸ばした。元公女だとバレてしまった以上、それなりの振る舞いをしなければ、エルンスト公爵家の教養が疑われてしまう。


「ですが、公爵家からは勘当されています。わたくしはただの『オリヴィア』としてクロフォード子爵家に嫁ぎました。ですから、『オリヴィア・エルンスト』のことはどうかご放念ください」


 言いながら、かつてこの王太子との縁談も持ち上がっていたことを思い出した。オリヴィアが家を出たことで立ち消え、アレクシスにはすでに別の婚約者がいるのだろうが、何とも気まずい気持ちになる。


「勘当……」


 アレクシスは何やら思案するような顔をした後、再びオリヴィアに問いかける。


「では寄る辺を失ったあなたは、仕方なく子爵と結婚したのだな」

「いいえ、その逆でございます」

「逆?」

「わたくしは、夫と婚姻を結ぶために公爵家を出ました」


 アレクシスは驚きに目を見開いた。


「子爵には、それだけの魅力があるということか? 公爵令嬢の身分を捨てて平民になるほどの価値がある、と?」

「っ!」


 オリヴィアは、一瞬言葉に詰まった。


 かつてはそうだと思っていたし、自信をもって断言できた。だが今は?


「え、ええ……もちろんです。夫は素晴らしい人です」

「そうは思えないが」


 アレクシスは即座に否定した。


「そのドレスに、漏れ聞こえてくる子爵の夫人への態度――あなたがこのような扱いを受けながら、なお子爵家に留まる理由が全く理解できない。いっそ離婚したらどうだ?」


 エドガーでも義母でもなく、全くの第三者から出た「離婚」の言葉に、オリヴィアは一瞬動揺した。だが、アレクシスの目を見据えて、きっぱりと宣言する。


「わたくしは離婚するつもりなど微塵もございません。これからも子爵夫人として、微力ながら夫を支えて参りたいと存じます」


 アレクシスはしばし沈黙してオリヴィアを見つめ、それから軽く肩をすくめた。


「なるほど……夫に粗末に扱われようが、あなたはなお夫人として彼と共にある道を選ぶと言うのだな。夫婦間のことに、部外者である俺がこれ以上口を挟むわけにもいかない……か」


 そう言いつつ、アレクシスの瞳は冷静にオリヴィアを観察していた。


 そして、その視線にオリヴィアの動揺はすくい取られてしまったのだろう。アレクシスがさらに続ける。


「この二年でクロフォード商会は躍進した。そこにはあなたの力が大きく貢献したと俺は考えている。なのにあの扱いだ。あなたにクロフォード子爵はもったいない」


 なぜ、アレクシスがそのことを知っているのだろう。


 オリヴィアは身構えたが、すぐにカマをかけられただけなのだと結論付ける。


 夜中にエドガーの筆跡を真似て書類に指示を書き込んでいるだなどと、外部に漏れるはずがない。商会の人間だって、誰一人として気づいていないのだ。


「買い被りでございます」

「そうは思えないがな」


 オリヴィアは否定するも、アレクシスはまだ疑っている。


 とそこへ、突然部屋に乱入してきた人物がいた。


「オリヴィア!」


 エドガーだ。そしてその横にはカミラもいる。


「で、殿下!? なぜここに……」


 振り返ったアレクシスの顔を見て、エドガーは激しく動揺した。オリヴィアがいるのを確信はしていたが、そこにアレクシスもいるとは思っていなかったようだ。


「夫人は気分が優れないようだったから、ここまで案内した」

「なぜ殿下が……」

「それは――」


 アレクシスが意味ありげにオリヴィアを見た。


 オリヴィアは焦った。ここで先ほどまでの話をされたら困る。


「殿下、もう夫も来ましたし、私は大丈夫です。どうぞ会場にお戻りください」


 アレクシスは再び含みのある沈黙を挟んでから、口を開いた。


「……そうだな。もう俺は必要なさそうだ」

「いや、そんな。せっかくいらしたのですから、もう少しお話を……。だよな、オリヴィア? まだ殿下とお話がしたいだろう?」


 エドガーはこれがチャンスだとやっと思い至ったらしい。


 だが気づくのが遅すぎた。


「いいや。あまり長く会場を空けるのもな。変な勘繰りをされても困る。――お大事に、オリヴィア嬢・・・・・・

「っ!?」


 息を飲んだのはオリヴィアだけではない。エドガーと、そしてカミラも動揺していた。


 そんな三人を置いて、アレクシスは颯爽さっそうと部屋を出て行く。


 とっさに立ち上がって見送ったオリヴィアに、エドガーが詰め寄った。


「お前、何をした? どうして王太子殿下がお前なんかに話しかけているんだ」

「……何も、していません。向こうから急に声をかけられただけで」


 そう答えても、エドガーの苛立ちは収まらない。


「そんなわけがないだろう。王族なんだぞ? どうして子爵の俺が許されなくて、平民上がりのお前は会話が許されるんだ」


 オリヴィアは俯いた。


 アレクシスはオリヴィアが公女だと知っていたから話しかけてきたのだ。公女と王太子であれば、会話があってもなんらおかしくはない。しかし、もう「元」公女であることは伝わったのだから、これからは話しかけてくることはないだろう。


「うちの商会の話はしたんだろうな?」

「いいえ」

「はぁ!? なぜしなかったんだ! 殿下にうちを売り込む絶好のチャンスだっただろう! 本当に役立たずだな!」


 自分は王太子が入場したことにすら気がつかずにカミラに夢中になっていたくせに、酷い言い様だ。大方ここにも、オリヴィアが何か王太子に粗相をしたのではないかと心配になって来たのだろう。オリヴィア自身のことを心配してではなく。


「それに、なんださっきのは。殿下に名前呼びを許しているのか!? まさか二人は――」

「いいえ!」


 オリヴィアは叫んだ。


 あれはアレクシスが勝手に呼んだのだ。オリヴィアはアレクシスに名前呼びを許してなどいない。名前に「嬢」を付けたのもわざとだ。暗にオリヴィアに離婚するよう迫っているのだろう。


「エドガー様もご存じの通り、扉は閉めておりませんでした。やましいことは何もありません」

「だが――」


 怒りに震えているエドガーの腕に、それまで黙っていたカミラが、するりと腕を絡ませた。


「エドガー様、そんなに怒っては奥様が不憫です。王族である殿下にとって、社交界に不慣れな元平民は物珍しく、興味を引いただけでしょう」


 カッとオリヴィアの頭に血が上った。


 失礼な発言よりも、エドガーに馴れ馴れしく触れていることの方が腹立たしかった。


「そうだな、殿下が地味なオリヴィアにそういった意味で関心を持つわけがないもんな……」


 エドガーは自分に言い聞かせるように言った。


 かつて自身はオリヴィアの愛を求めたというのに。


「殿下とお話する機会は、奥様に代わってわたくしが作って差し上げます」

「そうか。カミラがそうしてくれると助かる」


 カミラの振る舞いは既婚者に対してのそれではないが、エドガーもそれを制止しようという素振りはなく、常日頃からそういう振る舞いを受けているのは明白だった。


 先ほどエドガーは、オリヴィアとアレクシスの仲を一瞬でも疑い責めていたが、どの口が言うのか。


 オリヴィアがじっとエドガーの腕に絡みついているカミラの手を見ていたことに気づいたのか、ようやくエドガーはカミラの手をはがした。


「ま、まったく……余計な注目を浴びやがって。お前、俺の邪魔をするつもりか?」

「そんなつもりはありませんでした」

「地味なら地味なりに壁際で目立たなくしていろと言っただろ」

「申し訳ございません」


 勝ち誇った顔をしているカミラの前で頭を下げるのはとても屈辱的だった。


 その後頭部に、エドガーがチッと舌打ちをする。


「はあ……いいか、お前みたいな地味で平凡な元平民が目立つと、俺の立場が損なわれるんだよ。殿下が興味を示したのは、お前が奇異だったからだ。付け上がるなよ」


 あまりにも辛辣しんらつな言葉に、オリヴィアはぐっと唇を噛み締めた。だが、先ほどオリヴィアは、エドガーと離婚するつもりはないと宣言したばかりだ。それをたがえる気はない。


「心得ています。申し訳ありませんでした」


 結局、卑屈なほど頭を下げるしかなかった。


 エドガーはもう一度舌打ちをした後、苛立ちを抱えながらカミラを連れて部屋を出て行った。部屋を出る瞬間、振り向きざまに、カミラがくすりと侮蔑の笑いを漏らす。


 オリヴィアはすとんとソファに座ると、胸を押さえ、大きく深呼吸した。


 王太子には元公女であることがバレてしまったが、あの反応からすると、アレクシスはそのことを公にするつもりはないようだ。次はもう話しかけてくることもないだろう。


 こうして、オリヴィアは何とか二度目の夜会も乗り切った。

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