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第12話 二度目の夜会

 オリヴィアが泣き明かして夜の書類仕事をせず、次の日も一日ボイコットしたことで、商会では小さなトラブルがいくつか起きた。エドガーはその原因を、オリヴィアが仕事をしなかったことによるものではなく、自身が社交にかまけすぎたせいだと思ったらしく、再び商会の仕事に手を付けるようになった。お陰でオリヴィアの負担は少しだけ減った。


 こうして、オリヴィアの心中のさざ波は収まらないまま、「日常」だけが戻って来た。


 しかし、そこへ一石が投じられる。


 またも「夫婦同伴必須」の招待状が届けられたのである。


 前回のカミラ・ローゼンベルク主催の夜会で、オリヴィアが社交に向いていないことが明らかになり、それ以降はこれまで同様にエドガーだけが誘われていた。


 だというのに、わざわざ「ご夫妻共々」と明記されている。


 主催はローゼンベルクではない、別の侯爵家からだった。


「お断りするわけにはいかないでしょう。侯爵夫人からのお誘いなのよ!」


 当然、義母はそう主張した。


「嫌です。連れて行きたくありません」

「どうしてなの?」

「母上は前回参加していなかったからわからないんですよ。地味だ地味だと言われて、俺がどれだけ恥ずかしい思いをしたことか。あれからずっと、夫人は来ないのかと夜会でからかわれ続けているんです。連れて歩くなんて二度とごめんだ」

「仕方がないでしょう。あたなたちは結婚しているんだから。今回も壁際に追いやっておけばいいのよ。最初くらい辛抱なさい。前回、我慢して行った甲斐はあったわ。今度だって収穫はあるわよ」

「嫌です」

「前回、王太子殿下がいらっしゃったと聞いたわよ。今回だって参加されるかもしれないわ。私たちの身分で王族へのお目通りが叶うなんて、一生に一度かどうかなのだから、チャンスがあるなら行かなくちゃ」

「王太子殿下と言えば――」


 エドガーがオリヴィアへと視線を向ける。


 前回、アレクシスがオリヴィアに話しかけたのを思い出したのだろう。あの後エドガーに何か言われるかと思ったが、結局何も言われなかった。何か聞かれたとしても、オリヴィアもただ挨拶をしただけだとしか答えられない。


「もしも王家御用達となれたら大変なことよ。意味のないプライドなんて捨ててしまいなさい」

「あれから殿下は一度も他の夜会に顔を出されていないと聞いています。きっと今回もいらっしゃいませんよ」

「そんなのわからないじゃない。それに、主催の侯爵家とお近づきになれるだけでも十分なんだから。オリヴィアを連れて行きなさい。いいわね!」


 はぁぁ……とエドガーは深くため息をついた。


 心からオリヴィアを連れて行きたくないのだろう。


 オリヴィアだって、行かなくてもいいのなら行きたくない。だが、前回の夜会を経て、正体がバレるかもしれないという不安は減っていた。みな派手なエドガーとの対比で、オリヴィアのことを地味な夫人だとしか認識できていない。元平民の夫人が、実は元公爵令嬢だっただなんて、誰も思いやしないだろう。


「わかりました。連れて行きます。連れて行けばいいんでしょう」


 渋々というよりも、心底嫌だというように、エドガーは吐き捨てた。


 もはや、オリヴィアの意思を尋ねようともしない。


 エドガーと義母、この二人で決めたことに、逆らうことは許されないのだ。


「だがな、オリヴィア、次はもっとましな恰好をしろ。もう二度とあんな恥ずかしい思いをさせるな。わかったな!」

「はい、わかりました」


 オリヴィアは淡々と答えた。




 そして当日、オリヴィアは、前回とまったく同じ恰好でエドガーの前に立っていた。


「なん……っ」


 エドガーは絶句して、二の句を継げないでいる。


 前回よりマシにしろという指示を無視した、というのもそうなのだが、二回続けて同じドレスを着て夜会に出る、というのが大問題だった。


「今すぐ着替えてこい!」

「無理です」

「なぜだ! 時間がないんだから早くしろ!」

「ドレスはこれしかありません」


 オリヴィアは淡々と答えた。


「そんなわけがないだろう! お前はクロフォード子爵夫人なのだぞ! 代わりのドレスの十着や二十着――」

「ありません。私が持っている夜会用のドレスはこの一着だけです」

「クロフォード商会の商会長の妻がか!?」

「そうです」


 肩書を言い変えたとしても、事実は変わらない。オリヴィア・クロフォードの持っている夜会用のドレスは、型遅れのデザインを何とか直しただけの、このくすんだ水色のドレスただ一着きりだ。


「なんっ……どうしてそんなことになる!」

「仕立てるお金がありませんでしたので」

「品位維持費は!?」

「頂いておりません」

「母上!」


 同じようにオリヴィアの服装を見て絶句していた母親に、エドガーが矛先を向ける。屋敷の予算を管理しているのは義母なのだから、当然だ。


「どっ、どうしてうちのお金から出さなきゃいけないのよ! 夫なら妻にプレゼントくらいすればいいじゃない。商会で儲かっているんだから!」

「なっ……。な、なんでこうなるまで黙っていたんだ! 一言言えば――」

「私はこれまでお二人に何度もお願いしました。お金を下さいと。ですが、どちらも取り合って下さいませんでした。前回の夜会の後も、もし同じようなことがあると困るから、新しいドレスを仕立てさせて欲しいと言いました。なのに、二人とも必要ないとおっしゃったではありませんか」

「だとしても、今回必要になったんだから言えばよかっただろう!?」

「エドガー様、ドレスがたった一週間で仕立てられるものだとお思いですか?」


 どのみち招待状が送られてきてからでは間に合わない。既製品を買って直すという方法もあったが、もちろんオリヴィアはあえてそうしなかった。


「じゃ、じゃあ、母上のドレスを――」

「嫌よ!」

「私にお義母さまのドレスが着られると?」


 義母は即座に拒否し、オリヴィアは冷静に事実を述べた。義母は背が高いし、なにより年齢が違いすぎる。オリヴィアが着れば今以上に不格好になってしまうのは明らかだった。


 そんな押し問答をしている間に、いよいよ出発しなければならない時間になった。遅れて参加できるような身分ではない。


「仕方ない。行くぞ。ああもう、最悪だ!!」


 興奮で顔を真っ赤にしているエドガーに続き、オリヴィアは馬車に乗り込んだ。




 今宵の夜会の会場である侯爵家の邸宅は、華やかな装飾で彩られた大きなホールを持ち、入口から人々が次々と吸い込まれていく。


 オリヴィアがエドガーの肘に触れ、一瞬だけ身体を寄せると、エドガーは身をよじってオリヴィアから体を離した。わずかに開いたその距離が、エドガーの気持ちがもうここにないのだとオリヴィアに再認識させた。


 ホールに入ると、少し派手めな人々の注目が一瞬だけ二人に集まる。エドガーはすぐにオリヴィアを振りほどき、歓談しているグループの一つへ混じっていった。


 当然、オリヴィアは取り残される格好になる。そのまま人込みを避けてホールの隅へ移動し、さっそく壁の花を決め込んだ。


「クロフォード子爵様は本当に素敵ね」

「でも、あの奥様……またあのドレスで来ているわ。恥ずかしくないのかしら」

「クロフォード家にドレスを仕立てるお金がないわけがないわよね」

「平民上がりだというから、何度も同じ衣装を着るのに抵抗がないのではないかしら。二度続けて着るなんて、私なら恥ずかしくて絶対に無理よ」

「子爵様も、前子爵夫人もおしゃれな方なのに、夫人があれではお気の毒ね……」


 言われ放題なのを、オリヴィアは黙って聞いていた。元平民だの、礼儀がなっていないだのと、言われれば言われるほど公爵令嬢のイメージからは遠ざかっていくのだから、願ったりかなったりだ。


 ただ、エドガーに相応しくないと言われるのだけは、どうしても心が痛んだ。


 エドガーにオリヴィアを周囲に紹介する気がないから、誰かが積極的にオリヴィアに話しかけてくることもなく、結果的にオリヴィアは今夜も放置されたまま、時間だけが過ぎていく。オリヴィアは、ただただ言いつけ通りに、壁の花を全うしていた。


 何も聞こえないふりをしてじっとグラスを傾けているだけでよいのだから、簡単だ。


 しかし、そんなオリヴィアをあざ笑うかのような出来事が起こる。


 会場の入り口でざわめきが起き、何かと思えば、王太子の姿が現れたのだ。アレクシスは相変わらず無駄な派手さのない礼装に身を包んでいた。その切れ長の瞳がすっとホールを一瞥し、ふと何かに気づいたように、人込みを避けて歩き始める。


 ――こっちに来る。


 オリヴィアは顔を伏せて目に留まらないようとしたが、すでに補足された後だった。


 アレクシスは迷いなくまっすぐにオリヴィアの前まで来てしまう。


 周囲で驚きの声が上がり、またひそひそと陰口がささやかれ始めた。


「どうして殿下があの冴えない夫人に?」

「前回殿下が出席された夜会でも、夫人に話しかけていらしたそうよ」

「殿下と並ぶとまた一層地味ね」


 アレクシスにもそのささやきが聞こえているだろうに、全く意に介すことなく、アレクシスは堂々とオリヴィアに話しかけてきた。


「今夜も壁際で静かにしているのだな、クロフォード子爵夫人。退屈ではないのか」


 余計なお世話です――と言えたらどんなに良かったか。せめて無視できれば。


 だが、相手が王太子である以上、邪険にすることなどできない。オリヴィアは先日の要領で控えめな礼を取った。


「王太子殿下……今宵もお越しとは存じず、失礼いたしました。お目にかかれて光栄です」


 しかしアレクシスはうなずきもせず、その漆黒の瞳で、内心を探るようにオリヴィアの瞳の中を覗き込む。


 失礼にならない程度に、オリヴィアはすっと目を逸らした。


 だが、アレクシスは視線をそらさない。


「あの……」


 ついに根負けしてオリヴィアが視線を再び合わせた時、アレクシスが口を開いた。


「やはり、数年前まで平民だったにしては、ずいぶんと場慣れしている。夫人は先日の夜会がデビューだと聞いているのだが?」


 思わず息が詰まる。


 前回の夜会では誰もオリヴィアの正体に気がつかなかったから、今回も大丈夫だろうと高をくくっていた。


 身バレ――オリヴィアの脳裏に嫌な予感が走る。何も言えないまま硬直していると、アレクシスがふっと笑みを漏らした。


 どこかからか、きゃあと小さく悲鳴が上がった。冷徹と称される王太子の笑顔はひどく珍しい。オリヴィアの知る王太子の評判が数年前と変わっていなければ、だが。


「実は上位貴族の令嬢だったりしてな」


 冗談のように言っているが、その目は確信に満ちている。


 知っているのだ。王太子は。オリヴィアの正体を。


 オリヴィアは否定も肯定もできず、ただ会話を避けるように目を伏せた。エルンスト公爵家から廃嫡されてクロフォード子爵家に嫁いだという真実を、ここで口にするわけにはいかない。


「……気分が悪いので、失礼いたします」


 どうしようもなくなったオリヴィアは、この場から逃げ出そうとした。最悪の一手だった。公女だった時ならば、絶対に打たない手だ。二年のブランクで機転が利かなくなってしまっている。


 それがアレクシスに更なる攻めの手を与えることになった。


「それはいけない。休憩室まで案内しよう」


 アレクシスが流れるように自然にオリヴィアの手を取る。


「殿下っ、に、そのようなことをしていただくわけには……! それに私には夫がおりますし」

「ああ、子爵か。その男なら、あそこで忙しそうにしている」


 オリヴィアが動揺を見せると、アレクシスがホールの中央の方へと顎をしゃくった。エドガーがカミラと楽しそうに会話をしているのが目に入る。


 義母からは「王太子に取り入る機会があるかもしれない」とこの夜会に送り出されたはずなのに、オリヴィアどころか、アレクシスのことさえも眼中にないというように、カミラに夢中になっている。そして、そのカミラは、オリヴィアは自分を見ているのに気がつくと、わざとらしくエドガーに身を寄せた。


「……っ」


 オリヴィアが下唇を噛む。


「では行こうか。それとも……ここで会話を続けるか?」

「いえ……参ります」


 アレクシスの口から何が飛び出すかわからない。これ以上、この場に留まって会話を続けるのは得策ではなかった。






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