侯爵家の夜会は何事もなく終わり、オリヴィアが懸念していたような「エルンスト公爵家の令嬢を見た」という騒ぎが起こることもなかった。
夜会への出席が功を奏し、エドガーへの高位貴族からの誘いが増えたようで、義母は大層喜んでいる。エドガーの方も「自分の知名度と家名をさらに高める最短ルートは高位貴族の社交や夜会である」という思いが、さらに強くなっているようだった。
オリヴィアが黙々と商会の書類をチェックし、こっそりと後処理を進める毎日を送る一方で、エドガーは夜会や舞踏会への誘いを増やし、それまで以上に外出に精を出すようになった。オリヴィアと顔を合わせることは少なく、たとえ屋敷内で会ったとしても、以前にも増してそっけない態度をとる。
「どんな夜会でも、カミラが現れるだけで場が沸く。そして、あの洗練された会話術……。さすが侯爵令嬢だ」
ある日の夕方、エドガーが中庭をぶらぶら歩きながら使用人に語っているのを、たまたま中庭に面した廊下を通っていたオリヴィアが聞いてしまった。
ここ最近、エドガーが自分の社交界での人気や夜会での立ち回りを得意げに話すのをよく聞くようになった。そして、そこには必ずカミラの名前が含まれている。その呼び名も、ローゼンベルク嬢からカミラ嬢へと、そしてついにカミラへと変わっていた。
オリヴィアは反射的に耳を塞ぎ、自室へと逃げ戻った。
涙がこぼれ落ちそうになる。
オリヴィアには、カミラのような華やかさも、洗練された話術もない。カミラは、オリヴィアがエドガーに足りないと言われ続けてきた要素を全て持っている。そんな女性を目の当たりにして、エドガーを奪われてしまうような気がした。
大丈夫よ……エドガー様の妻は私だもの。私だってエドガー様の役に立っているわ。
そう自分に言い聞かせようとするが、カミラを伴ったエドガーがオリヴィアから背を向けてどんどん離れて行ってしまうような妄想が、頭の中を支配していく。
「オリヴィア様!? 大丈夫ですか!?」
扉を背にうずくまっていたオリヴィアを見つけて、エマが飛んできた。
「ちょっと立ち眩みがしただけなの。大丈夫よ」
「駄目です。休んでください!」
エマが衣服を緩めて寝台へとオリヴィアを寝かせる。
「オリヴィア様は頑張りすぎです。旦那様の分のお仕事までされているの、知っているんですからね!」
「エドガー様はお忙しいから……」
「オリヴィア様にお仕事を押し付けて、遊び惚けているだけじゃないですか!」
「社交も仕事のうちなのよ」
現に、エドガーは夜会で知り合った高位貴族から、大きな仕事をいくつか取ってきていた。きちんと成果は出ているのだ。だからオリヴィアも、出かけることを責めることはできない。
「そうかもしれないですけど、オリヴィア様にばっかり負担をかけるのは間違っていると思います! 昼も夜もずっと働き詰めで、ふらふらじゃないですか。もう今日は休んでください!」
「わかったわ。じゃあ、仮眠をとるから、夕食の時間になったら起こしてね」
「わかりました」
私を気遣ってくれるのはエマだけだわ、と思いながら、オリヴィアは目をつむった。
ふと目を覚ますと、オリヴィアは暗闇の中にいた。
時計を見ると、もう夜もだいぶ更けている時間だった。
夕食までに起こしてと言ったはずなのに、と思ったが、そういえば一度起こしに来たエマに、やっぱりこのまま眠ることにすると告げた記憶が蘇る。無意識に答えてしまうとは、自分で自覚していた以上に疲れていたのだろう。
喉の渇きを覚えたオリヴィアは、起き上がって水差しの水を飲んだ。執務机の上に積んである書類が目に入り、中断していた仕事を再開させるべきか悩んだ末、今日は休んでしまえと布団の中に戻ることを選ぶ。
と、その時、廊下から足音が聞こえてきた。ふらふらと覚束ない様子でオリヴィアの部屋の前を通り過ぎていく。
エドガー様だわ、とオリヴィアは思った。
今夜も酔って帰ってきたのだろう。
帰宅時に出迎えなかったのは随分と久しぶりの事だった。
今からでも迎えなければ、と急いで廊下へと出る。
見ると、ちょうどエドガーが夫婦の寝室に入って行く所だった。
追いかけて、扉が閉まる前に室内に滑り込む。
「エドガー様、お帰りなさいませ」
「ん?」
ゆっくりと振り返ったエドガーからは、アルコールの匂いがした。赤い顔をして、かなり酔っているようである。
「ああ……ここにいたのか……」
エドガーが、オリヴィアを見て破顔した。
そしてそのまま、オリヴィアに抱きついてくる。
「え、エドガー様!?」
突然抱きしめられて、オリヴィアは戸惑った。
「どうして今日はいなかったんだ」
「すみません、先に休んでいて……っ」
出迎えなかったことを責められるとは思っていなかった。エドガーは常にオリヴィアを邪険にしていたのだから。
エドガーは甘えるようにして、オリヴィアの首筋へと口づけを落としていく。
久しぶりの夫婦の触れ合いに、オリヴィアは泣きそうになった。笑顔を向けられたのも、こんな風に優しく抱きしめられたのもいつぶりだろうか。酔ったエドガーの高めの体温が、布越しにじんわりと伝わってくる。
やがてオリヴィアはエドガーに抱えられ、寝室へと運ばれた。
ずっと目の前で冷たく閉められていた扉を易々と通り抜け、寝台へと横たえられる。
ぎしりと音を立ててエドガーが覆いかぶさってきて、オリヴィアは甘美な期待に身を震わせた。
エドガーがオリヴィアの襟元を大きく広げる。そういえば仮眠の前にエマが緩めていたわね、と遠い昔のことのように思い出した。
ついばむように鎖骨にキスをされたあと、エドガーの顔がオリヴィアに近づいてきて、口づけが落とされそうになったその時――。
「カミラ……」
囁きをオリヴィアの耳が捕らえた瞬間、オリヴィアはぐいっとエドガーの顔を手で押し返し、エドガーの下から抜け出した。
部屋を飛び出し、逃げるようにして自室に駆け込む。
扉を閉めたオリヴィアは、これまで一度もかけることのなかった自室の扉の鍵を、初めてかけた。
「はぁ……はぁ……」
荒くこぼれる息の合間に、涙がぼたぼたと落ちた。身体が強張っていて、腕が上がらない。拭うことすらできずに、ただ床の絨毯にシミができていく。
「うぅ……うぅぅ……」
エドガーは、オリヴィアを他の女性――カミラと間違えたのだ。
酔っていたとはいえ、それはあまりにも酷ではないか。
手つきが慣れていたのは、もう二人はそういう関係だということなのだろうか。いや、酔っぱらって理性が緩んでいただけだろう。既婚者とそういう関係になれば、エドガーよりも未婚のカミラの方が打撃を受けるのだ。彼女が踏み切るとは思えない。
だが、公爵令嬢だったオリヴィアでさえ、勘当され平民となってでもエドガーとの恋を選んだのだから、侯爵令嬢であるカミラが、既婚者だというだけの理由でエドガーを選ばない理由はないのかもしれなかった。
そして、カミラの気持ちや二人の関係が実際どうであるにせよ、エドガーの気持ちだけは、疑いようもないほど明らかになってしまった。エドガーの心は、もうオリヴィアの元にはない。
声を上げて泣いてしまいたいのに、押し殺して泣く癖がついてしまっていたオリヴィアは、ただ唸るようにして涙を流し続けた。
心が粉々に砕けていくようだった。
次の朝、目を
しかし、何か思うところがあったのか、理由を尋ねようとはしなかった。ただただ静かに寄り添ってくれたのである。
朝食の場で顔を合わせたエドガーは、オリヴィアの顔にぎょっとしていたが、気まずそうなそぶりを見せることはなく、何も言ってもこなかった。深酒をしていたから、昨夜自分が何をしでかしたのか、おそらく記憶にないのだろう。
そんな夫の姿を、オリヴィアは冷めた目で見ていた。
自分でも、どうしたいのかよくわからない。
これまでは、エドガーはなんだかんだ言ってもオリヴィアの元へ帰ってきてくれると信じていた。社交界の華やかさに目がくらんでいるだけで、いずれは、かつて魅力的だと言ってくれた、オリヴィアの素朴さや飾らなさを再び求めてくれるはずだと。
だが、その望みも、もう潰えてしまったのかもしれない。
エドガーは変わってしまったのだ。
道端に咲く健気で小さな花ではなく、カミラのような豪華な大輪の花を愛でるようになってしまった。
その変化が、オリヴィアの手によって商会が成功を収め、財力や信用を得た結果引き起こされたのだとしたら……オリヴィアはただただ自分で自分の首を絞めてしまったことになる。
何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。自分がこんなに頑張る意味が、どこにあるのだろう。
「エドガー様、本日は一日休ませていただきます」
「具合が悪いのか?」
「ええ、そうです。少し疲れました」
「そうか。体調管理には気を付けてくれよ。君がいないと……わかるだろう?」
「わかっています」
オリヴィアは嘆息して答えた。
食堂では使用人の目があるから、エドガーはオリヴィアに仕事を任せていることを言えないのだ。いっそ任せていると言ってくれれば、この家でのオリヴィアの扱いも、変わっていたかもしれないのに。
食事にはほとんど手をつけないまま、オリヴィアは席を立った。