数日掛けて、馬車はエルンスト領へとたどり着いた。
最初の宿でベルトラム家の使用人を乗せた馬車と合流し、オリヴィアの着替えなど必要な物は完璧に用意されていた。道中の宿はもちろん全て最上級の部屋だ。エルンスト家を出奔して独りで王都へと向かった時とは、雲泥の差の快適な旅だった。
公爵邸の重厚な門前に着いたのは、夜も更けた頃だった。近隣で一泊することもできたが、互いに待ち遠しいだろうから、とノア馬車を急がせたのだ。
夜中だというのに、門番たちは眠そうな様子を露とも見せずに、馬車に描かれているベルトラム伯爵家の家紋を見てすぐに対応をし始め、車内にオリヴィアの姿を認めると皆が驚き、バタバタと奥へ報告に走っていった。
夜間のため、正面玄関へと至るまでの道はほとんど明かりがついていなかったが、それでも屋敷の規模は子爵家と比べ物にならないほど広大だとわかる。
オリヴィアは馬車を降り、震える足取りで敷地の中央を通る大路を歩いた。そこには昔と変わらぬ庭園が広がっており、水を湛えた噴水が満天の星空を映して今も変わらず優美に佇んでいる。
こんなに大きかったかしら。
離れていた年月のせいか、記憶よりずっと広大で輝かしく思えた。今のオリヴィアにはその眩しさがかえって不安を煽る。本当に両親は、疵物となったオリヴィアを迎え入れてくれるだろうか。
すぐ後ろにはエマがついていて、ノアもそっとオリヴィアの背中を支えてくれているが、心の震えは簡単には治まりそうになかった。
屋敷の玄関で待ち構えていた使用人がオリヴィアに一礼して扉を開けると、そこには、見慣れた使用人たちが居並んでおり、オリヴィアを出迎える形を作っていた。
さらに奥のホールでは公爵夫人――オリヴィアの母親が、車いすに座っていた。娘の姿を認めるやいやな、ふらふらと立ち上がり、両腕を広げる。
「オリヴィア……!」
「お母様……!」
オリヴィアは思わず泣きそうになりながら、その懐に飛び込んだ。夫人は深くオリヴィアを抱きしめ、ついに堪えきれなくなったように涙を零した。
「もう、あなたが傷つくのは見たくないわ。ごめんなさいね……ごめんなさい……! ずっとあなたのことが心配でたまらなかったのよ……」
その言葉に、オリヴィアは喉が詰まって何も言えなくなる。公爵家の名声に傷をつけてしまったことで、ずっと恨まれていると思い込んでいたし、勘当された身として親子の縁を切られたと思っていた。それが、こんなにも取り乱しながら温かく迎えてくれるだなんて。混乱と安堵とが入り混じり、言葉が出ない。
ようやく落ち着き始めた夫人が、涙を拭いながら娘の頭を撫でた。
「もう大丈夫よ。あなたは帰ってきたの。ここがあなたの家よ。あのクロフォード子爵とやらに、どれだけ苦しい思いをさせられたのか……。ごめんなさい、私とあの人が、あなたをそんな所に追いやってしまって……」
「わ、わたくしの方こそ……勝手をしてしまって……。申し訳ありません、お母様……!」
直接挨拶することもせず、手紙の一通だけを残して家を出たことを、今さらながらに深く後悔する。
そんな母娘の姿を少し離れたところで見守っていたのは、オリヴィアの父――エルンスト公爵だった。少しばかり気まずそうにしていたが、娘と妻の抱擁が落ち着くのを待ってから、静かに歩み寄ってくる。
オリヴィアが公爵と視線を交わした瞬間、公爵はわずかに瞳を潤ませながら、けれど怒りを含んだ表情で言った。
「オリヴィア……戻ってきてくれてよかった。あのエドガーとかいう男……私は決して許さないよ。よくも私の娘を……」
そこまで言うと、公爵はぐっと奥歯を噛みしめるように言葉を飲み込み、オリヴィアを優しく抱き寄せた。その力強さとぬくもりが懐かしくて、胸がいっぱいになる。
オリヴィアはただ「申し訳ありません」とだけ繰り返した。
こうして見ると、あの日「勘当する」と言い放った厳格な父親は、今、娘のオリヴィアが戻ってきたことに、心の底から安堵しているようだった。オリヴィアも、公女の身分に戻れたことよりも、この腕の中に帰ってこられたことが、何よりも嬉しかった。
「……あの、お父様……本当にわたくしは、勘当されていたのでは……ないのでしょうか?」
一段落してから、オリヴィアはおずおずと問いかける。ノアも先ほどそのように言っていた。公爵は苦い顔をして、ため息をついた。
「本当に済まなかった。あれは脅しのつもりだったんだ。ああ言えばオリヴィアを説得できると思い込んでいたから、まさか本当に家を出てあの男のところに嫁いでしまうとは思わなかった。二、三日もすれば戻ってくると思っていたのに、あの男が平民の『オリヴィア』と結婚したと知って、本当に驚いたし、生きた心地がしなかった」
実際に公爵は一切の手続きをしていなかったから、正式な勘当の記録は存在しない。
オリヴィアが公爵令嬢の身分を捨ててまで子爵令息との結婚を強行するとは、全く思っていなかったのだ。オリヴィアが公爵の予想を超えた行動力を発揮してしまった結果だった。
つまり、オリヴィアは書類上も公爵令嬢として籍が残っていて、一度結婚して子爵夫人となったものの、離婚したことにより、再び公女としてこの家に戻って来たことになる。隣街で一泊した後、ノアが使用人を王都に戻して書類を提出させ、法的にも離婚が成立しているから、正真正銘オリヴィアは「公女」の身分を取り戻した。
そこへノアの声が控えめに響く。
「公爵様、僕はこのまま失礼いたします。宿をとってしばらく領内に滞在しておりますので、何かありましたらお呼びください。オリヴィアが無事に到着して安心いたしました」
「そんな、うちに泊まっていったら? お父様、よろしいでしょう?」
「うむ、以前のように泊っていくといい。君の部屋も残してある」
かつてノアがオリヴィアの遊び相手として滞在していた時に使っていた部屋は、オリヴィアが家を出たあとも、公爵の指示でそのままになっていた。定期的に掃除をしており、いつでも使えるようになっている。
だが、ノアは家族水入らずの時間を尊重して、やんわりと断った。
「ありがとうございます。しかし今夜はご遠慮させて頂きます」
オリヴィアは後ろ髪を引かれる思いでノアを見つめる。この家で話せる同年代の友人はいないし、ノアとも話したいことがたくさんあった。しかし、ノアの気づかいを無下にしたくないという気持ちもあった。
最後にノアはオリヴィアに微笑みかけた。
「また来るよ。落ち着いたら近況を聞かせてほしい。困ったことがあればすぐに連絡して」
その優しい声に支えられ、オリヴィアはかすかに微笑み返すことができた。
ノアが去ったあと、夫人がオリヴィアの背後に顔を向けた。
「あなたが、エマよね?」
「はいっ! お初にお目にかかります。エマ・ルドワーズと申します!」
エマがぺこりと頭を下げる。
「ずっとオリヴィアについていてくれてありがとう。報告もしてくれて、本当に助かったわ」
「滅相もございません。私のような下位貴族の娘が、オリヴィア様のような高貴な方のお世話ができて、大変光栄でした」
ぶんぶんとエマが手を振った。
「お母さま、このままエマを侍女として公爵家に置きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんよ。マチルダ、お願いね」
夫人に呼ばれた侍女長のマチルダは、大きく頷いた。
「承知いたしました。まずは礼儀から教えますね。少々動きが粗雑すぎるかと」
ぎろりとにらまれて、エマがピンッと背筋を伸ばして気を付けをする。
その動きがもうすでにマチルダの気に
「お手柔らかにお願いね、マチルダ。エマはその元気なところがいいのよ」
「いいえ、オリヴィアお嬢様。公爵家に仕える以上は、お客様の前に出しても恥ずかしくない礼儀を身に着けなければなりません。あえて崩すことは許されても、知らない・できないは許されないのです」
厳としたマチルダの態度に、オリヴィアは苦笑した。
自身も幼い頃に、何度もマチルダに叱られたのだ。マチルダの指導は厳しいが、きっとエマは乗り越えられるだろう。
「さて、もう夜も遅いから、オリヴィアは休んだ方がいいわね。あなたの部屋も昔のままにしてあるわ」
夫人がオリヴィアの手を引いて歩いて移動しようとしたので、オリヴィアは車椅子へ座るように促した。後ろには公爵が回り、慣れた手つきで車椅子を押す。
通常の屋敷であれば、家主の部屋は二階にあるが、公爵邸は、夫人が車椅子で移動する必要があることから、全て一階にしつらえてあった。余計な段差は一切なく、絨毯も、車輪がスムーズに動くよう、硬めのものが敷いてある。
三人で一階の奥にあるオリヴィアの私室まで行くと、そこにはすでにメイドが灯りをともしていて、埃ひとつない状態に整えられていた。窓辺にはかつてオリヴィアが好んだ読書用の椅子も見える。何一つ当時と変わっていない。まるで時間が止まっていたかのようだ。
「お母様、お父様……わたくし、もう一度公爵令嬢として精進いたします。今度はもっと家のために、恥ずかしくない振る舞いをいたします。本当に勝手をして申し訳ありませんでした」
オリヴィアがそう言って深く頭を下げると、公爵はその背中を優しく叩いた。
「無理をせずに、まずは身体を休めるんだ」
「あなたが望むなら、もう無理に政略結婚させたりはしないわ。とにかく傷が癒えるまで、自由に過ごしてほしいの」
「ありがとうございます」
オリヴィアはさっきよりも更に深く頭を下げた。
「今日は遅いから、もう休んで。これからのことは、後日ゆっくり話しましょう」
「はい。おやすみなさいませ、お父様、お母様」
「おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
エマや元々公爵邸でオリヴィアについてくれていた侍女に身支度を整えてもらい、オリヴィアは寝台に潜り込んだ。
シーツがすべすべで気持ちがいい。布団がふんわりとしていて重くない。
帰って来たんだわ――。
三年ぶりの慣れ親しんだ寝心地に、オリヴィアは肩の力が抜けていくようだった。
もう、何も心配することはない。両親の愛に守られているのだという実感があった。
だが、それはオリヴィアが「公爵令嬢」だからなのだ。
かつては公爵令嬢の責務から逃げるようにしてエドガーとの恋を選んだが、それは間違いだった。
今度こそ、公爵家の娘として、きちんと役目を果たさなければ。
オリヴィアは決意を新たにして、目を閉じた。