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第17話 門出

 夜、オリヴィアは自室を見回した。


 こうして改めて見ると、かなりがらんとしている。


 三年弱の結婚生活、その大半をオリヴィアはこの部屋で過ごした。夫婦の部屋を使っていたのは最初だけだ。そしてその頃はクロフォード子爵家の財政も苦しかったから、最低限の家具しか揃っておらず、財政が好転した後も、オリヴィアのために調度品が新しくなることはなかった。


 大躍進した「クロフォード商会の会長の妻」の部屋としては、あまりにも寂しい部屋だ。その躍進の一翼をになっていたオリヴィアには、結局何の恩恵もなかった。


 エマが準備してくれた荷物は鞄一つだけ。歩いて持ち出せる量だから、というわけではない。本当にオリヴィアの私物はこの鞄一つに収まる分だけしかないのだ。公爵家から持ち出した量と変わらなかった。むしろ宝飾品を売ってしまった分、減っているくらいだ。


 部屋のあちこちに視線を移し、感傷を抱かないと言えば嘘になる。


 しかし、離婚を決めてからは心が意外なほど冷静で、自分の足できちんと立っているという実感があった。未練はありそうに思えて、実はそれほど残ってはいない。あの日、寝台の上の二人に現実を突きつけられた時点で、ほとんどが消えてなくなってしまった。


 こんなことなら、もっと決断すればよかった。


 オリヴィアは自嘲するように微笑んで、部屋の扉へ歩き出した。


 エドガーや義母が見送りに来るとは思っていないが、使用人に見つかるのも面倒だと思い、オリヴィアは屋敷の正面玄関ではなく、裏口へ向かった。夕食の片付けも明日の仕込みも終わったこの時間、使用人はその辺りにはもういないはずだ。


 外へ出て、門へと向かう。


 すると、そこには小柄な人影がぽつんと立っていた。


 驚いて立ち止まるが、相手が誰なのかはすぐにわかった。侍女のエマだ。ランプを片手に、オリヴィアが来るのを待っていたのだ。


「エマ……なんで?」

「オリヴィア様を見送ろうと思って」

「そう。ありがとう」


 夕方、エマを下がらせる前に、一度お別れを言っていたから、予定外に再会してしまったのは少し照れ臭い。だが、誰の見送りもなく独りでひっそりと出て行くと思っていたので、エマに見送ってもらえるのだということに胸が熱くなった。


 だが、ふとエマの足元の荷物に目が留まる。


「どうしてそんな荷物を持っているの?」


 オリヴィアが持つのと同じくらいの大きさの鞄だ。それに、エマは外套がいとうをしっかりと着こんでおり、その下に着ているのも子爵家のお仕着せではなかった。


「ちょっと街に出ようと思って。もちろん許可は頂いていますよ」

「そうなのね」

「はい。だから、途中まで一緒に行きましょう」

「そう? それはいいけど……」


 なんだか言いくるめられているような気がするが、オリヴィアはエマの気づかいだと思って頷いた。エマと一緒にいられる時間が長くなるのは、素直に嬉しい。


 二人で音をたてないようにゆっくりと門を開け、閉める。不用心だから警備を雇った方がいいのではないか、とオリヴィアが進言したが、結局採用されなかったことを思い出した。


 まあ、王都の住宅地で強盗が押し入って騒ぎになれば、警備隊がすぐに駆け付けてくるだろうから、必要がないと言い張る気持ちもわからなくはない。オリヴィアが心配したのは、騒ぎ立てる強盗ではなく、静かに盗んでいくタイプの泥棒の方だったのだが。


「では、行きましょうか」


 エマが先導して、ランプを掲げた。


 オリヴィアは自分の鞄を持ち、横に並んで歩き始める。


 深夜ではないから、人通りは少なくとも誰もいないわけではない。護衛を連れた貴族が何人か歩いているし、使用人らしき人物も足早に行き交っていた。二人の横を馬車が数台通りすぎていく。


 もはやクロフォード子爵家には帰らないのだと自覚しているオリヴィアは、一歩一歩を踏みしめながら過去を振り返っていた。ここで過ごした三年弱の記憶――よい思い出も確かにあったはずなのだが、最後に目撃した不倫の光景が全てを塗り潰してしまった。


「今夜は、宿に泊まる予定でしたよね?」

「ええ、そうよ」


 人目を避けて夜に出てきたが、オリヴィアもこのままふらふらと街をさ迷うつもりはない。今夜は宿で一泊して、朝から動き出すつもりだ。その後も、ラモン伯爵と連絡を取らなければならないから、しばらくは宿で生活することになるだろう。


 貴族の住宅街を抜けるという辺りで、通りかかった馬車が、オリヴィアたちのすぐ横で止まった。


 警戒し、道の端に寄る。


 だが、馬車をにらんだオリヴィアの目が、驚愕に見開かれた。


 車体に描かれている紋章――それがよく見知った物だったからだ。


 馬車の扉が開き、オリヴィアの想像通りの人物が姿を現す。


 ランプの光でもわかる、輝く銀色の髪に、紫色の瞳。


 ノア・ベルトラム――三年分歳をとった幼馴染の姿が、そこにあった。


「やあ、オリヴィア」


 口調も表情も、あの頃と何も変わらない。


「ノア……? どうしてここに?」

「もちろん、君を迎えに来たんだよ。あの男と、離婚したんだって?」

「どうしてそれを……?」


 戸惑うオリヴィアに、ノアは手を差し出す。


「まずは乗って。治安がいいとはいえ、こんな夜に出歩くものじゃない。あの頃の君はもっと慎重だったじゃないか」

「だってそれは、ノアがいたから……それに今の私は貴族じゃないもの……」


 ただの平民であれば、一人で出歩けない時間ではない。裏道であればそんな言い分も通用しないだろうが、ここは貴族の住宅街で、大通りに面している場所なのだ。


「いいから、早く乗って」


 ノアがオリヴィアの手を引く。


「駄目よ。伯爵家の馬車に乗るなんて」

「そんなの気にするような仲じゃないだろう」

「だって私は――」


 これからは平民なのだから、貴族にはそれ相応の礼儀を払わなくてはならないのだ。


 そう思って、オリヴィアははっとした。貴族相手に許される口調ではない。


「ベ、ベルトラム様っ!」


 抵抗してオリヴィアが叫ぶと、ノアはぎょっとした後、むっと眉を寄せた。


「その呼び方はやめてくれ。僕はノアだ。さっきまで君はそう呼んでいたじゃないか」

「ですが、私はもう平民で――」


 オリヴィアが理由を説明しようとすると、エマが背中をぐっと押した。


「いったん乗った方がいいと思います。このままでは、ベルトラム様が女性をかどわかそうとしているのだと誤解されますよ」


 はっとして周りを見ると、周囲の人間がいぶかし気な視線を向けてきていた。


 確かに、これではノアがオリヴィアを馬車に連れ込もうとしているようにしか見えない。


 警備隊を呼ばれるのも時間の問題だ。


「わ、わかったわ……」


 ノアを犯罪者にするわけにはいかないと思い、オリヴィアは馬車に乗り込んだ。


 その後ろにエマも続く。


「えっ?」


 エマの手によってバタンと扉が閉められた後、馬車はゆっくりと走り出した。


 何の許しも得ずにエマが馬車に乗り込んだことに、オリヴィアは混乱する。オリヴィアの侍女であればまるきりおかしな行動ではないのだが、それでも一応ノアには許しを得るのがマナーだし、そもそも今のオリヴィアは平民で、エマはもう侍女ではない。


「エマ、どうしてあなたまで――いえ、違うわね。エマ様、なぜあなたまでお乗りになったのですか?」

「ぎゃーっ! オリヴィア様、やめてください!」

「で、でも、エマ様は男爵令嬢ですし、平民の私からしたら――」

「やめてください! お願いですから! オリヴィア様にかしこまられるなんて、恐れ多すぎて……!」

「でも……」


 オリヴィアが戸惑っていると、向かいに座っているノアが、くすりと笑った。


「オリヴィア、君は平民なんかじゃないんだ」

「えっ、でも、離婚――あ、まだ書類を提出していないから?」


 法的には、書類が受理されてから、初めて離婚が成立する。ならば、正確にはまだオリヴィアは子爵夫人だ。サインをもらった時に離婚した気になっていただけで、厳密には提出し、受理された瞬間から身分が平民に変わる。


「ああ、そういう意味ではまだ子爵夫人ということになるのかもしれないけど……離婚が成立しても、平民にはならない」

「どういうこと?」


 意味が分からない。


「君は公爵令嬢だ」

「違うわ。私はお父様に勘当されたんだもの」

「公爵様は、君を勘当なんかしていないんだよ。確かに君にはそう告げたようだが、手続きは一切されていない。エルンスト家の公女は、ただ公の場に姿を現さなくなったことになっている」

「そんな……! え、そんなことって……」


 オリヴィアは絶句していた。


「本当だ。そして、この馬車はエルンスト公爵邸に向かっている」

「えぇ!? 無理よ、そんなの」

「無理なわけがないだろう。もちろんぶっ続けで何日も馬車で進んだりはしないよ。ちゃんと夜は宿に泊まるさ。今日だって、隣の街に宿を取ってある」

「そういう意味じゃなくて……! お父様がお許しになるはずがないわ。勝手に結婚を決めて、勝手に飛び出してきたのよ? なのに結局離婚して、おめおめと家に戻るだなんて……」

「そんなことはない。公爵様も夫人も、君が帰ってくるのをずっと待っている。僕は公爵様に頼まれて君を迎えに来たんだよ」

「そんな……まさか……」


 オリヴィアはわなわなと震える口を、両手で押さえた。


「本当だよ。公爵様はあの日君に告げた言葉をひどく後悔している。夫人にも強くなじられて落ち込んでいた。もしもあの時君の結婚を認めていたら、君があんな扱いをされることはなかったのに、とね」

「あんなって……?」

「この前の、夜会、とか……」

 ノアはきまずそうに目をそらした。


「どうしてお父様が知っているの? それに……どうして今日私が離婚するってこともわかったの? まさか何日もずっと家の前にいたわけじゃないでしょう?」


 あの無様な姿を知られていたということもショックだったが、何より、オリヴィアの近状を把握されていることが疑問だった。


「それは――」

「申し訳ございません!」


 ノアの言葉を遮って、エマが座席を降り、床にいつくばった。頭を床につけるように深く下げる。


「私が公爵様に報告していました」

「エマ、あなたが……?」

「はい。申し訳ありません!」

「そうなの……」


 エマが間諜のような真似事をしていたことに、オリヴィアは衝撃を受けた。なぜ、どうして、信じていたのに、と様々な思いが渦巻く。


「元々エマを寄越したのは公爵様なんだ。オリヴィアを補佐するようにとね」


 なるほど。だからエマは最初からオリヴィアに好意的で、常にオリヴィアの味方でいてくれたのだ。


 さっき、平気で馬車に乗って来た理由もわかった。エマはノアが迎えに来るのを知っていて、オリヴィアを合流地点まで誘導する役だったのだ。そして、全てを説明するために馬車に乗り込んだ。


 オリヴィアは実家を飛び出したつもりで、結局、父親の手の平で踊っていたに過ぎなかった。


「でも、エマが受けていた命令はそれだけだよ。君の近況を逐一報告せよとか、そんな指示は出ていなかった。エマが報告してきたのだって、二度の夜会への出席と、今夜オリヴィアが子爵家を出奔しゅっぽんすることだけだ。夜会については、オリヴィアの顔を知っている貴族が参加しないよう根回しをするために、そして今日は、オリヴィアを危険にさらさないようにするためにであって、オリヴィアの私生活を根掘り葉掘り報告していたわけじゃない」

「そうなの……私のために……」

「それでも、私はオリヴィア様の信頼を裏切るようなことをしました。大変申し訳ありませんでした」

「もういいわ。顔を上げて、席に座って頂戴。そこにいては危ないわ」

「ですが……!」

「いいのよ。私のためにしてくれたのはわかったから」


 顔を上げたエマの目は真っ赤になっていた。


 この顔を見ればわかる。エマにとっても、公爵に報告をするのは苦渋の決断だったのだ。だが、オリヴィアが公爵家の娘だったという過去を隠し通したいと願い、そして離婚して独りで家を出て行くと言ったから、どうしても報告せざるを得なかったのだろう。


 父親の命令があったから親切にしてくれたのだと思ったが、エマはそんな人間ではなかった。慕ってくれていたのはエマの本心からだろう。そう信じたい。


「ありがとう、エマ。エマがいたから、私はクロフォード家でもここまでやってこられたのよ。あなたがいなかったら、とっくに心が壊れていたわ」

「ならっ、私がオリヴィア様を長く苦しめたことに……っ」


 ひっくとエマがしゃくりあげる。


「いいえ、違うわ。あなたがエドガー様のことを怒ってくれたから、私もそういう気持ちになれたのよ。じゃなきゃ、毎晩ただ泣き暮らすだけで、きっと離婚を決意することもなかったと思う。反骨心が湧いて、離婚してやろうと思えたのは、あなたがいたからよ。だから全部あなたのお陰なの」

「うぅ……オリヴィア様ぁ……」


 ついに泣き始めてしまったエマを、オリヴィアは抱きしめた。


「このままエマを公爵家まで連れていくことはできるのかしら」

「もちろん、そのつもりだよ」

「そう。よかった。離れなくて済んで嬉しいわ」

「オリヴィア様、ありがとうございます……」


 エマが泣き止むのを待ってから、オリヴィアはノアとの会話を再開させた。


「お父様はどこまで知っているの? 私が夜会に出席したことと、離婚したことだけではないわよね? ノアが夜会でのことを知っているくらいだし……」

「そりゃあね……。子爵家の内情まではあえて探ってはいなかったけれど、社交界で漏れ聞こえてくるものは僕も公爵様も全て知っている。あの男が、君を『元平民の地味で役立たずな妻』と呼んでいたこともね」


 ノアは穏やかに微笑んではいたが、目は笑っておらず、膝の上の拳は怒りで硬く握りしめられていた。


「あのドレスも酷かったな……オリヴィアに似合わないにもほどがある。まあ、顔が驚くほどぼんやりしていたから、合ってはいたけど……」

「どうして見てきたかのように言うの?」

「もちろん僕も参加していたからさ」

「えぇっ!? あそこにいたの!?」


 様子を伝え聞かれているだけでも恥ずかしいのに、あの姿を実際に見られていたとなれば、顔から火が出そうだ。


「二度目の方にね。君の視線からは隠れていたから、気がつかなかったのは無理もない。アレクシス王太子殿下に連れられて出て行った時は仰天したよ」

「あれは……ああそうね……殿下にはエルンスト家の娘だと知られていたの」

「へぇ?」


 ノアが不機嫌そうな顔になる。


「……それで、殿下はなんて?」

「離婚しろっておっしゃっていたわ」

「それには同感だ」

「私、あの時殿下に、離婚はしない、って豪語したのに……結局こうして離婚することになってしまって、殿下に合わせる顔がないわ……」


 はぁ、とため息をつく。


 今となっては、どうしてあそこまで固執していたのかも、よくわからなくなっていた。


「殿下は関係ないだろう。オリヴィアの意思なんだから」

「そうね……。そう言ってもらえると気が楽だわ」

「僕は、なぜ殿下が離婚しろって言ったのかの方が気になるな……オリヴィアが誰と結婚生活を送っていようが、殿下には関係ないじゃないか」

「え?」


 よく聞こえなくて、オリヴィアは聞き返したが、ノアは「なんでもない」と言った。


 暗闇の中、馬車は静かに走り続ける。


 王都からはもうとっくに出てしまった。


「私……これからどうなるのかしら」

「公女に戻るだけだよ。君にとっては不自由かもしれないけど」

「そうね……。でも、それが私の役割なのよね」


 結婚してから、オリヴィアはずっと「子爵夫人」という役割を全うできずに苦しんだ。そして、そのことで、自身が「公女」としての役割を放棄してしまったことを痛感したのだ。家のために婚姻を結ぶのは、公女としてできる最大の役目だったというのに。家のためにしたことは、やがて領民にも還元される。領地から上がる税で育てられたオリヴィアは、領民へと還元しなければならなかったのに、自分の我儘でその義務を投げ出してしまった。


「再婚、できるかしら……」


 窓の外の暗闇を眺めながら、オリヴィアはぽつりとつぶやいた。


 元平民のふりをしていたとはいえ、オリヴィアが一度結婚していた事実は変わらない。きずのついてしまった自分を、受け入れてくれる家はあるだろうか。


「しばらくは考えなくていいよ。公爵様も深く後悔されているから、すぐに再婚を迫ることもないだろう。オリヴィアがしたくなったら、その時にすればいいさ」


 ノアは肩をすくめた。


「そんなわけにはいかないわ」


 首を振るオリヴィアの手を、ノアが握る。


「いいんだって。まずはゆっくり休みなよ。今も疲れている顔をしている。宿まではまだだいぶ時間がかかるから、少し眠るといい」


 ノアの手から体温が移ってきて、オリヴィアは本当に眠たくなってきた。張りつめていた神経が緩んだのかもしれない。


「そうね。少し眠るわ」


 壁にもたれかかるようにして、オリヴィアは目を閉じる。


 その寝顔を愛おしそうに見つめるノアの心の内を、オリヴィアはまだ知らない。

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