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第16話 離婚

 次の日から、オリヴィアはもう、朝食の場に行くことすらやめてしまった。エマに食事を運んでもらい、自室で食べる。


 離婚を決意した今、エドガーの顔を見ることさえも嫌だった。


 商会の仕事は、変わらず淡々と続けている。


 だがその裏で、オリヴィアは確実に離婚への準備を進めていた。


 そこに一片の迷いもない。


 一度心を決めてしまうと、不思議なほど穏やかな気持ちになっていた。もう、エドガーに期待することも、裏切られることもないのだ。そのいだ湖面のような穏やかさは、オリヴィアの深い諦念の上に成り立っている。


 この家でのオリヴィアの役目はもうない。あとは、最低限の財務を整理するだけ。


 オリヴィアは、結局最後まで商会会長の夫人としての責務を捨てることはできなかった。たとえ夫に裏切られ、罵倒され、不倫までされたとしても、商会の従業員たちの生活を思うと、業務だけはきちんと回るようにしておかなければならない。


 オリヴィアは、自身がいなくなってもしばらくは混乱しないだけの準備を整えようとしていた。


 日々の現金出納すいとうの帳簿に、見れば誰でも理解できるように付箋ふせんを貼り、今後の取引で必要となる契約書類をまとめ、期限ごとの支払い一覧を清書する。


 その上で、エマにも手伝ってもらいながら、書類の保管場所をわかりやすく整頓していった。


「オリヴィア様……こんなにきれいに整理してあげたとしても、きっと子爵様や大奥様は感謝しませんよ」


 エマはぷりぷりと文句を言いながら、ファイルを棚に差し込んでいく。自分が去るための準備なのだとは告げていないから、なぜオリヴィアがわざわざこんなことをするのだろうと思っているのだろう。それでもエマは手伝ってくれている。


 オリヴィアは口元に微笑みをたたえ、首を横に振った。


「いいの。感謝の言葉なんて端から期待していないわ」


 これまでとは違ったオリヴィアの態度に、エマは目を大きく見開いた。


 もう少し、ほんの少しだけ頑張れば、自分はここを出ていける。そんな思いが、オリヴィアを最後まで気丈に振舞わせていた。




 オリヴィアが屋敷を出るとなれば、唯一の味方としてこれまで支えてくれたエマにも別れを告げねばならない。


 書類の整理が終わりに近づいた頃、オリヴィアはエマを呼び出した。


「エマ、大事な話があるの」

「え、なんか、聞くのが怖いですね……」


 エマはびくびくしながらオリヴィアの前に立った。


「私、エドガー様と離婚することにしたわ」

「えっ!?」


 驚きに飛び上がるエマ。


「本当ですか!? ついに!? 子爵様と離婚!?」

「ええそうよ。……って、なんだか嬉しそうね」


 エマの口元が緩んでいる。


「あー……すみません。オリヴィア様はお辛い思いをしているのに。でも、もうオリヴィア様が理不尽な立場を我慢しなくていいかと思うと……」


 エマはむにむにと指先で押して口元を引き締めた。


「あなたはずっと私の味方をしてくれていたわね。私をちゃんと子爵夫人として扱ってくれたのはあなただけだったわ」

「私は、オリヴィア様の侍女ですから」


 えへん、とエマが胸を張る。


「あなたと離れることになるのは寂しいわね……」

「えっ!?」


 オリヴィアが目を伏せると、エマが驚きの声を上げた。


「あ、あー……そうか……離婚してオリヴィア様がここを出て行ったら、そうなりますよね……」


 今の今までその可能性については全く思い至っていなかったようで、エマがぶつぶつと呟いている。


「ちなみに、私もオリヴィア様について行く、というのは……」

「無理よ。離婚すれば私はただの平民だもの。職もないし、自分の食い扶持ぶちを稼ぐだけで精一杯だと思うわ。残念ながら、あなたを雇うことはできないの」

「そう、ですよねー……」


 エマは、うーん、と腕を組みながら悩んでいる。


「じゃあ、オリヴィア様は、ここを出て、どうするつもりなんですか? いきなり働くなんて、できないですよね?」

「あてが全くないわけじゃないの。ラモン伯爵を頼ろうと思っているわ」


 オリヴィアが挙げたのは、土地を買い取ってくれた御仁ごじんだった。伯爵はオリヴィアの才覚を買ってくれており、「うちにもこんな人材がいれば……」と本気で言ってくれていた。下っ端としてなら雇ってくれるのではないかと目論んでいる。少なくとも、職の紹介くらいならしてくれそうだ。たとえオリヴィアが貴族でなくなったとしても。


「あー……あの伯爵様ですか。そうですねぇ……」


 エマは首をかしげて、「うーん」と悩んでいる。


「わかりました。オリヴィア様についていくのはひとまず諦めます」

「ええ。それがいいと思うわ」


 クロフォード商会の躍進と共に、子爵家の使用人への手当も厚くなっている。勤め続けた方がエマのためだ。


「えーっと、それじゃあ、荷物の準備が必要ですね」


 エマがさっと切り替えてしまったので、なんだか少し寂しい気もするが、サバサバしたエマらしい。オリヴィアはこの性格に随分と助けられてきた。


「そうなの。お願いできる?」

「お任せください! 侍女の本領発揮です!」

「書類仕事ばかりさせてごめんなさいね」

「それはそれでオリヴィア様の助けになるんだから、いいんですよ」

「エマ……」

「ああ、もう、辛気臭いのはなしですよ。せっかくのオリヴィア様の門出なんですから。……離婚なので、めでたくは、ないかもしれないですけど」


 てへっとエマが舌を出す。


「ふふっ。いいの。まさに門出だわ。屋敷からも家門からも出るんだから」


 二人はくすくすと笑い合った。




 そして、いよいよ離婚届をエドガーに突きつける日がやってきた。


 事前に手紙で弁護士や行政手続きの担当者に教えを請い、離婚届の書式を整えて作成してある。平民であればただ既定の書類にサインするだけでよいが、貴族社会では爵位の相続にも関わってくるため、非のない書類を作成しなければならない。


 その日、オリヴィアは離婚届を手に、エドガーの執務室の扉を開けた。案の定、そこには義母も同席していたが、遠慮する気はない。意を決した表情で二人の前に進み、机に書類を並べた。


「エドガー様、これに署名をお願いします。離婚届です」


 空気が凍りつくのがわかった。


 義母が「何ですって?」と目を見張り、エドガーが苛立たしげに立ち上がる。


「お前、本気で言ってるのか? あの日言ったことを真に受けて、そのまま離婚する気か? 馬鹿馬鹿しい……」

「馬鹿馬鹿しくはありません。この家を出ていくのは、私が決めたことです。エドガー様も、もうとっくに飽きているとおっしゃっていましたよね」


 オリヴィアの口調は平静そのものだが、その瞳には揺るぎない意思が宿っている。


 反対に、今まで離婚を口にしてきた側のエドガーが、戸惑った表情を浮かべた。


「それは、そうだが……本当に出ていく気なのか? なんというか……俺が、もうお前には飽きているのは確かだけど、離婚となると面倒だし……」


 非常に歯切れが悪い。義母がいる前で夫婦の決裂を宣言するのに躊躇ちゅうちょしているのか、エドガーは本気で離婚する意欲まではないようだった。むしろ面倒を嫌がっているらしい。


「私と離婚して、ローゼンベルク嬢と再婚してはいかがでしょう?」


 オリヴィアは微笑んで言った。もちろん目は笑っていない。


「あら、エドガー、あなた、ローゼンベルク嬢とそこまでの関係なの? でかしたわ! 侯爵が後ろ盾になってくれれば、ますますクロフォード家は盛り上がるじゃないの。ゆくゆくは伯爵位をたまわることだってあるかもしれないわ!」


 義母は興奮してエドガーに詰め寄った。


「いや、まあ、それはそうなんだが……再婚となるとそれはまた……商会のこともあるし……」

「何を言っているの! こんな役立たずと無理に夫婦関係を続けていても仕方ないでしょう!?」

「こ、この家から出すわけには、ううん……いや、カミラの方がいいのか……? とにかく俺は忙しいんだよ! 離婚とか余計なことは後にしてくれないか!」


 考えるのが嫌になったのか、エドガーは逆切れした。


 だが、義母がさらに詰め寄る。


「何を迷うことがあるっていうの! 今すぐサインしてあげればいいじゃない!」

「ええい、わかったよ! じゃあ書いてやるよ!」


 とうとうエドガーは逆上して、離婚届を雑に引き寄せ、ペンを手に取る。


「ちっ……! ほら、これでいいんだろ?」


 エドガーは乱暴にペンを走らせ、最後に家門の印を押して離婚届をオリヴィアの方へと放った。紙が机の上で滑り、オリヴィアの前に止まる。


 義母が、「さあ、これで決まりね!」と嬉しそうに笑った。


 オリヴィアは冷静に書類を確かめ、必要事項が漏れていないことを確認した。


 エドガーのサインと印が間違いなくしっかりとあるのを見て、小さく息を吸い、吐いた。


 後は行政手続きに回すだけだ。


「これでもう他人なんだから、さっさと出ていきなさい」

「はい。今夜にも出て行きます」

「好きにしろ!」


 エドガーが吐き捨てるように言い、オリヴィアから顔をそむけた。


 ついに、私たちは離婚する――。


 オリヴィアは唇を震わせながら、深々と礼をした。最後の最後まで、礼儀だけは欠かさない――これがエルンスト公爵家で身につけた矜持きょうじだ。


「ありがとうございました。お世話になりました……もう、夫婦ではありませんから、二度とお邪魔することもありません。失礼いたします」


 その一言で、子爵夫人としてのオリヴィアは死んだ。もうオリヴィア・クロフォードではない。ただのオリヴィアに戻ったのだ。


 部屋を出て扉を閉めたオリヴィアは、その場にとどまって、もう一度書類を見た。


 自らの決意とエドガーの乱雑なサイン――それが、三年弱にわたる夫婦生活の幕引きだった。かつて公爵家から勘当され、地位や名誉を失ってまで飛び込んだ結婚は、悲惨なすれ違いと裏切りにより、離婚という形で終わってしまった。


 あとはエマがまとめてくれた荷物を持ってこの家を出、書類を提出するだけ。


 意外なほど心はすっきりしていた。


 胸の中を占めているのは、これからの不安だけだ。


 エルンスト公爵家を勘当されたオリヴィアは、その足でクロフォード子爵家に来たから、「平民」として過ごしたのは旅の間だけで、平民としての生活を営んだ経験はない。


 だが、なんとなく、何とかなるように思っていた。オリヴィアは元来楽観的な性格なのだ。

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