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第15話 裏切り

 数日後、オリヴィアは一人で出掛けていた。ラモン家の当主が、オリヴィアに会いたいと言ってきたからだ。護衛も供も同行者もなしに出歩くのは、人生で初めてのことだ。


 ラモン伯爵は、この取引をまとめたのがオリヴィアであることを知っている。オリヴィアが、伯爵の方から買い取りを申し出て頂きたい、と頼んだからだ。エドガーに知られたくない事情があることを察し、自身にも益のある取引だからと、伯爵はその不可解な頼みごとを引き受けてくれた。


 オリヴィアは、初めはこの誘いを断るつもりだった。この三年弱で、オリヴィアが外出したのは、エドガーと行った二回の夜会だけ。ずっと屋敷の中だけがオリヴィアの世界の全てだった。


 どうせ駄目だと言われるに決まっていると思い、朝食の場でエドガーに外出の許可を求めたところ、意外にもあっさりと許された。新しく始めようとしている事業の下見に行きたい、と嘘の理由を述べたからなのか、オリヴィアに興味がないだけなのかはわからない。おそらく両方だろう。


 子爵夫人だとわからないようにしろ、という条件だけが付けられた。


 いつもの服装で出掛けるだけで、その条件は容易に満たせる。ロクに手入れもされていないボサボサの髪、化粧っ気のない顔、紙でこすれて乾燥した指。着慣れた地味で簡素な服を着れば、誰もオリヴィアが貴族だとは思わないだろう。エルンで平民のふりをしていた時よりも、ずっと簡単だった。


 ラモン伯爵とは流行りのカフェで会い、互いによい取引ができたことの礼を述べ、今後も継続して取引をしていきたい、という旨の言葉をもらって解散した。年配だったが、ウィットに富んで面白い人物だった。久しぶりに実のある会話ができたことに、オリヴィアは満足していた。


 エドガーへの言い訳を満たすために、解散後は事業に関する店舗や商品の下見も行った。


 もっとのんびりできればよかったのだが、独りでの外出に慣れていないオリヴィアは、さっさと用事を済ませて帰宅することにした。


 まだ陽が高いが、今から屋敷に帰れば夕食までに少し時間がある。今日やるべき仕事はすでに済ませてあるから、久しぶりに本を読んで気分転換をしようか――そんな小さな贅沢を胸に、クロフォード家の門をくぐる。


 屋敷の中は、妙に静かだった。


 迎えに出る使用人がいないのは想定内だ。エドガーか義母のどちらかが外出中なら、この静けさも不思議ではない。しかし、今日はなにやら嫌な胸騒ぎがする。


 そう感じつつ、玄関ホールから階段を上がっていったオリヴィアは、廊下にほとんど人影がないことに気づいた。多くの使用人が偶然に屋敷の奥に行ってしまっているか、それとも意図的に回れ右しているか――なんとも不気味な沈黙だ。


 オリヴィアは自室に直行しようとしたが、なぜか無性に胸騒ぎがして、エドガーの部屋へと向かった。そして、寝室へ直接向かうドアが少しだけ開いているのを見つけてしまう。


 そこから漏れ聞こえる、甘ったるい囁きと、かすかな衣ずれの音――。


 息が詰まるほどの衝撃が、全身を襲った。オリヴィアの足は根が生えたように動かず、これ以上見ない方がいいと頭で理解しつつも、どうしてもその場を離れられなかった。震える手を伸ばして、ドアをほんのわずか押してしまう。


 次の瞬間、視界に飛び込んできたのは、エドガーとカミラが絡み合う姿だった。二人とも肌を露わにし、明らかに情事の真っ只中だった。まぎれもない不倫の現場だ。


 オリヴィアは一瞬呼吸が止まり、頭が真っ白になる。まるで悪夢を見ているようで、声すら出ない。カミラの妖艶な笑みが、痛烈な現実として目に焼きつき、エドガーがそっと彼女を抱える姿は、オリヴィアに向けられなくなった優しさを象徴していた。


 そういう関係なのかもしれない、と疑ったことはあった。ある程度の覚悟もしていた。だが、想像と目の前で突きつけられるのとでは、受ける衝撃がはるかに違っていた。


 視界が徐々に暗くなり、足元の床が抜けて落下してくような錯覚を覚える。


 足元でドサッと音がして、オリヴィアは現実へと引き戻された。


 自分の手が鞄を取り落とした音だった。


 エドガーとカミラが振り向く。


 いち早くカミラがシーツを掴んで身体を隠した。露わになったままの首筋に赤い跡が散っており、ほどいて乱れた髪が常時の名残を残している。


 エドガーはオリヴィアを認めるや否や、その顔を醜く歪めた。


「お、お前……なんでこんな早く帰ってきたんだ!」


 開き直る余裕すらないエドガーは、怒気をまとった声音でオリヴィアを叱責する。あろうことか、不倫の現場を押さえられた側が逆切れしていた。だから・・・、オリヴィアの外出をあんなにあっさりと許可したのか――。


 カミラも最初は驚愕していたが、やがてあざけるような冷笑を浮かべ、オリヴィアを侮蔑の目で見下した。


「まったく、地味な奥様が空気を読まずに戻ってくるなんて。お陰で盛り上がっていた官能的な時間が台無しだわ」


 その言葉が、オリヴィアの胸を深くえぐった。


 今まで必死に子爵家を支えてきた自分を、こんなかたちで踏みにじられるなんて――。


 あまりの衝撃に、涙すら出てこない。全身が凍り付いたように動かなかった。


 しかし、その沈黙を都合のいい黙認と勘違いしたのか、エドガーがさらに言葉を叩きつける。


「勝手に部屋を覗くなんて、お前こそ何のつもりだ! 役立たずのくせに、俺を監視でもしようとしたのか?」

「監視……?」


 あまりの言い分にオリヴィアは声を震わせる。どう言い返せばいいのか、怒りか悲しみか、自分でも感情が整理できない。


 それどころか、エドガーは言葉を強めてオリヴィアを一方的に罵倒し始める。


「ここ最近、お前は何か手柄を立てたつもりでいるみたいだが、俺から見ればお前は何もしていない! お前が反対していたあの土地だって、結局カミラの助けでちゃんと儲けが出た。お前は口うるさく文句を言うだけで、何一つ役に立ってないじゃないか!」

「え……?」

「お前は先方の伯爵家が俺たちを見つけて取引を持ち掛けてきたと思っているだろうが、元々カミラが裏で働きかけてくれていたんだ! 直接あの伯爵に売り込むこともできたのに、間に俺たちを噛ませてくれたお陰で、利益を得ることができたんだよ!」

「それは私が……っ!」


 オリヴィアは思わず口走っていた。


 じわじわと湧き上がる怒りと虚しさに、オリヴィアの目には涙が滲みかける。土地売却の裏工作を行い、借金返済まで漕ぎつけて家を守ったのはオリヴィアだ。


 先ほどラモン伯爵に会った時に、オリヴィアはローゼンベルク家からラモン家へ何か話があったかどうかを直接確認していた。カミラの「開発できるあて」が実はラモン家のことで、オリヴィアと同じように渡りをつけようとしていたのかもしれないと思ったからだ。


 だが、ラモン伯爵の答えは「何もなかった」だった。少なくとも、カミラが裏でラモン伯爵に働きかけたというのは真っ赤な嘘だ。


「はっ! 自分は何もしてないくせに、カミラの手柄まで横取りしようというのか。浅ましいやつだな」


 エドガーが、カミラの素肌の肩をぐいっと引き寄せた。


「横取りなんかじゃ……あれは私が……!」

「いい加減にしろ!」


 オリヴィアは土地の売買についての自分の働きを打ち明けようとした。だがエドガーは聞く耳を持たなかった。


 自分が夜な夜な書類をチェックし、密かに取引先を動かしたことで窮地を脱したというのに、カミラがすべて手柄を横取りして、エドガーもそれを信じて疑わない。


 オリヴィアはカミラをにらみつけた。


 だが、カミラは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、逆にエドガーにしなだれかかる。


「奥様。嫉妬は見苦しいですわよ。奥様よりも私の方がエドガー様に相応しいのは周知の事実。美しさも、家柄も、才覚もね。エドガー様の愛を求めるのはもう諦めて、静かに夫人としての役割を全うしてはいかがかしら。――あら失礼、夫人は社交も苦手でしたわね。お子様も……いらっしゃいませんね。なら、エドガー様は何のために夫人と結婚しているのかしら?」


 その言葉に、オリヴィアはついに耐え切れなくなる。


 こんなにも報われないなんて……私がやってきたことは何だったの?


 ずっと耐え続けてきたオリヴィアの心が、大きく軋む。怒りと虚しさが頂点に達し、かすかに視界が揺れた。


 そして、ついにエドガーが決定的な言葉を口にした。


「お前が地味にしている間に、全部うまくいったんだからな。はっきり言って役立たずなんだよ! 気に入らないなら、離婚すればいいだろ! もうとっくに飽きてるんだよ、お前には!」


 それは、オリヴィアの心を粉々に打ち砕くに十分すぎる一撃だった。


 そして、あろうことか、妻を「役立たず」呼ばわりしたうえに、不倫現場で堂々と離婚を告げるなど、あまりにも理不尽だ。


 オリヴィアはゆっくりと息を整え、エドガーとカミラを交互に見た。二人が寄り添っている姿は、もはや背徳を通り越して醜悪にすら映る。オリヴィアはこれまで必死に子爵家を守り、夫に尽くしてきた。それでも報われず、裏切られ、不倫を見せつけられ、侮辱される――この現実に、すべての感情が崩壊した。


「わかりました。そうですね。――もう、いいです」


 気がつけば、オリヴィアの声は自分でも驚くほどに静かな声を出していた。何年も耐えてきたが、限界だと悟った瞬間、オリヴィアの心は、悲しみではなく静かな怒りに支配されていた。


「エドガー様、お望み通りに離婚いたしましょう。この家にも、もう私の居場所はありませんものね」


 たった一言。それはオリヴィアにとって長い葛藤の末の結論だった。エドガーが驚いたように目を見開き、一瞬口を動かすが、言葉にはならない。その隣でカミラが「ようやくね」と鼻で笑うのが見えた。


 深呼吸し、オリヴィアは振り返らずに部屋を出た。


「オリ――」


 エドガーが呼び止めようとしたが、オリヴィアは無言で扉を閉めた。かつてエドガーがそうしたように。




 こうして、オリヴィアは最後の心の支えであった夫婦の絆を自ら捨て去る決心をした。


 かつては公女の地位を捨ててまでエドガーを選び、商会を守ろうと努力し続けたが、裏切られたうえに「役立たず」と罵倒される現実に、これ以上耐える意味などなかった。


 すべてはエドガーのためだったのに、エドガーは聞く耳を持たず、不倫までして、オリヴィアを完全に否定したのだ。

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