異変があったのは、翌日だった。
『ちょっと稲葉、ゼミ室まで来て貰えるかな』
というメールを、昼前に御園生から貰って、川崎研究室まで向かうところだった。大抵、午後一の授業は取らないことにしている大雅なので、研究室へ向かうのは問題ないのだが……。
昨日、怒って去ってしまった広瀬のことを思うと、なんとなく、行きにくい。
まだ、気分が整理出来ていない中で、広瀬に顔を合わせたくないと言うのが正直な気持ちだった。
(また、広瀬のこと、怒らせるんじゃないだろうか……)
そう思うと気が重い。
気は重かったが、ゼミの先輩の言うことは聞かなければならないだろう。と、意を決して、昼食も取らずに新館へ向かったわけだったが―――三階へ来て、大雅は思わず絶句してしまった。
閑散とした、ゼミ生がたった四人しか居ないはずの、川崎ゼミは、扉が開いて中から人があふれ出している。それが全て、可愛い格好をした女子だった。なにやら会話をしているらしく、人の声が重なって聞き取ることは出来ないが、それなりにうるさい。周りの研究室も、何事が起きたのか、ドアを開けて覗き見をしているという状態だった。
「なんじゃ、ありゃ……?」
その時、丁度、ひょっこり御園生が顔を出して「あー、稲葉!! 早く来いよ!!」と手招きしてくる。
なんのことか訳もわからかずに、大雅は、小走りに駆けていくと、研究室の中には、広瀬と、ソレを取り巻くように女の子たちの姿があった。
(あー……、広瀬目当て、ね……)
なるほど、とは思ったが、これでは、静かに近代文学の研究をするという目的が果たせそうもなくて、どうしようかと思っていると「ちょっと困ってるんだよ」と御園生が耳打ちしてくる。
確かに、困るだろう。川崎教授の研究室は、こんなに沢山の女の子が入る場所はない。
「……先輩、この子たち、全員、プレゼミっスか?」
「そうなんだよ」
といいつつ、チラッと広瀬に、御園生は目配せする。御園生は、申し訳なさそうに、肩を落としていた。
(なんだかなあ……)
大雅は、見た目で人から倦厭されてきたが、広瀬はその逆だ。
人を引きつける容姿をしている。だが、こんな風に、大挙して、周りにべったり近付かれては、何も出来ないだろう。
(見た目が良すぎんのも、こまったもんだ)
ため息を吐きながら「おう、お前ら、ちょっとうるせーぞ」と大雅は、低い声を出す。
女の子達の、さえずりのようなおしゃべりが、パタッと止まった。
「……広瀬。ちょっと来いや。……先輩に、頼まれてんの忘れたの?」
別に、頼まれごとなどしては居ないが、とりあえず、女の子達から引き離すのが先決だと思って、大雅はぞんざいに言う。
「あ、ごめ……忘れてた……」
広瀬は芝居にノッてくれるようだ。大雅はそれで安心して、「ハァッ」と大きなため息を吐いた。
「てか、この女たちなに」
「あ、プレゼミ……に入ったらしくて」
「……お前目当てじゃねぇの? マジで鬱陶しいわ」
女の子達をぎろりと睥睨すると、彼女たちの一部は「あ、私は……やっぱり、元のゼミにしようかな……」と去って行く。残ったのは、三人だった。
「……行くぞ」
大雅の言葉に、広瀬が席を立つ。そのまま、廊下へ出て、一緒に歩き出す。エレベーターに、二人きりで入った時、「あのさ、ちょっと、態度悪い感じで連れだしてゴメンな?」と広瀬に謝ると、広瀬は、小さく首を横に振った。
「……良いんだ。俺も、困ってたから……あの、むしろ、ありがとう。助かった」
「……広瀬メシは?」
「食べてない」
「おう、じゃあ、学食にでも行くか」
エレベーターが一階へ止まり、学食方面へ歩き出そうとした大雅に「ちょっとまって」と広瀬が言う。
「なに?」
「………学食じゃなくて……、その……近くにカフェあるんだけど、そこに行かない?」
広瀬は、何故か、真剣な眼差しをしている。
「カフェ……」
広瀬と、二人でカフェ、というシチュエーションは、どうなのだろうと思いつつ、大雅は、大学に入学して以来、もしかしたら初めて、知り合いとカフェに行くということになるかも知れないと思って「いいぜ」と返事をする。すると、広瀬は、ホッと、安堵したような表情を浮かべたので、大雅はいくらか申し訳ない気分になった。
(気を遣わせたんだろうなあ……)
そう思うと、申し訳ない。
「ちょっと歩くよ。授業は大丈夫?」
「ああ……、今日は残り、四時限だけだから」
「じゃ、ソレまでには帰ろう。俺も、四時限。後期初授業を、サボるわけにはいかないもんね」
確かに、そうだった。
そして、大雅は、ひょんなことから、広瀬と並んで、住宅街を歩くことになったのだった。