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第28話 煩悩退散


 早朝三時。


 稲葉家の広い庭には、井戸水を被るバサーッバサーッという音。

 暫くして、シュッ、シュッと竹刀を振る音がこだましていた。


 現在十月。


 早朝三時と言えばあたりは完全に暗闇に閉ざされ―――とは言っても、東京二十三区の端の方である蒲田なので、なんとなく、明るい感じはあるのだが、そこで、竹刀の風切る音がシュッ、シュッと鳴り響いているのは、かなり、異常である。


「え、なんスか、坊ちゃん、今から果たし合いにでも行くんスか?」

 寝ぼけ顔で心配して声を掛けてくるのは、三下のヤスで、大雅は「まあな」と適当に返事をしておいた。


(ヤバイだろ)


 さすがに、妄想の根っこをたたき切っておかなければ、危ない。

 それには、精神統一。精神集中。


(いっそ、座禅か、滝行にでも行った方がいいか……?)

 素振り三百回は、やるとして、それで煩悩を断ちきることが出来るかと聞かれると、全く、自信がない。


(キス……)

 キス、だった。


 夢の中の感触を思い出して、思わず「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」と叫びだしてしまった大雅を見て「ぼ、ぼっちゃん! どうしたんっスか!!! なんか、滾ってますけど!!」とヤスが近付いてきた。


「あっ? ああ……まあ、気にするな……。とにかく、今日の夜までに……」

 煩悩を断ちきらなければならない、と大雅が唇を真一文字に引き締めると、ヤスの目が、キラリと光った。


「坊ちゃん、もしかして、今夜カチコミなんスか? だったら、ウチからも何人か、引きつれていきましょか? イキの良い奴なら、幾らでも居ますし、坊ちゃんの為なら、火の中水の中、何でもやりますぜ!!」


 握りこぶしを作って力説するヤスを見て、やっと、大雅は、話が食い違っていることに気が付いた。


「あー……」


(今更、飲み会とか言いづれぇな……)

 とりあえず、どうしたものかと思いつつ、大雅はヤスを見やる。


「なんなりと!」

 暴れたりないのか、キラキラした目をしているヤスに「あのなあ、……そういうもんじゃねぇんだよ」と大雅は低い声で告げる。


「えっ? でも……果たし合いって……」

「まー、そーなんだけどな。……カタギの素人なんだけどな、俺は」


「坊ちゃんがカタギっていうのは、まず無理があるんじゃないですかね? 光胤みつたねさんだったら、カタギっぽいですけどね」


 ははは、とヤスは笑う。確かに、その通りだった。

 兄、光胤と大雅を比べてみると、優しそうで柔和な印象の光胤の方は、パッと見ただけでは、荒事にはほど遠い。目つきが悪い三白眼、長身の大雅と比べるまでもない。


「それについては、俺も思うけど……兄貴は、アレで、俺よりは強いしな。どっちかっていうと、笑顔が怖いタイプだよ、兄貴は」


「まー、そうですよね」

 ヤスは納得したように呟く。


 光胤の微笑みは『天使のような悪魔の微笑み』として組内で名高い。怒らせてはいけない人物ということで、大体、全員の理解が一致して居るはずだった。


「ま、俺ァ、気合いをいれる必要があるから、素振りと行水してただけだよ」

「坊ちゃんがそんな気合いを入れるなんて、相当な問題ごとなんでしょうねぇ」


「まあ、なあ……」

 今更、『生まれて初めての飲み会』とは言いづらい。が、どういう雰囲気なのか、全く想像が付かない大雅は、少し聞いてみることにした。


「なぁヤス」

「なんスか」


「お前ら、飲みに行ったりすんのか?」

 ヤスは、キョトンとした顔をして、それから笑い出した。


「俺ら、結構、飲み屋から断られることもありますからね。大体、ここで缶ビールっスよ」


 ああ、たしかに、と大雅は納得した。

 大雅自身は、居酒屋のバイトをしているが、『お家の人』のことを聞かれて正直に答えたときに、すぐクビになったこともある。


 個室でなければOKという居酒屋もあったが、それでも、周りの人たちが嫌がるので、『予約で席が埋まっています』と言って断る場合が多かったはずだった。


「そっか……苦労してんな」

「坊ちゃんだって、一応カタギなのに、苦労はしてるんじゃないっスか」


 それは、確かにそうなのだ……。


(おかげで俺ァ、小説投稿サイトにもユーザー登録できねェし……)

 読み専としては、心が震える作品に出会ったら、イイネを押したいし、レビューを入れまくりたいのだが、登録の際、利用規約を熟読したら『反社と准反社は登録不可』と明記されていた。


 つまり、自分の生まれのおかけで、大雅は、オタクライフでさえ、満足に送ることは出来ないのだ。


「まあ、それは……」

 嫌なことも沢山あったとは思うが、産まれを呪う気にはならなっていない。それに、世間一般には『反社』といわれる家族や、組のものたちのことも、嫌いではない。


「……いろいろ、あるかも知れねぇが、まあ、サラリーマンの息子だって、それなりに苦労はあンだろ」

 別に、そんなことは知らないが、大雅は吐き捨てるように、そう言って、庭を後にした。


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