早朝三時。
稲葉家の広い庭には、井戸水を被るバサーッバサーッという音。
暫くして、シュッ、シュッと竹刀を振る音がこだましていた。
現在十月。
早朝三時と言えばあたりは完全に暗闇に閉ざされ―――とは言っても、東京二十三区の端の方である蒲田なので、なんとなく、明るい感じはあるのだが、そこで、竹刀の風切る音がシュッ、シュッと鳴り響いているのは、かなり、異常である。
「え、なんスか、坊ちゃん、今から果たし合いにでも行くんスか?」
寝ぼけ顔で心配して声を掛けてくるのは、三下のヤスで、大雅は「まあな」と適当に返事をしておいた。
(ヤバイだろ)
さすがに、妄想の根っこをたたき切っておかなければ、危ない。
それには、精神統一。精神集中。
(いっそ、座禅か、滝行にでも行った方がいいか……?)
素振り三百回は、やるとして、それで煩悩を断ちきることが出来るかと聞かれると、全く、自信がない。
(キス……)
キス、だった。
夢の中の感触を思い出して、思わず「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」と叫びだしてしまった大雅を見て「ぼ、ぼっちゃん! どうしたんっスか!!! なんか、滾ってますけど!!」とヤスが近付いてきた。
「あっ? ああ……まあ、気にするな……。とにかく、今日の夜までに……」
煩悩を断ちきらなければならない、と大雅が唇を真一文字に引き締めると、ヤスの目が、キラリと光った。
「坊ちゃん、もしかして、今夜カチコミなんスか? だったら、ウチからも何人か、引きつれていきましょか? イキの良い奴なら、幾らでも居ますし、坊ちゃんの為なら、火の中水の中、何でもやりますぜ!!」
握りこぶしを作って力説するヤスを見て、やっと、大雅は、話が食い違っていることに気が付いた。
「あー……」
(今更、飲み会とか言いづれぇな……)
とりあえず、どうしたものかと思いつつ、大雅はヤスを見やる。
「なんなりと!」
暴れたりないのか、キラキラした目をしているヤスに「あのなあ、……そういうもんじゃねぇんだよ」と大雅は低い声で告げる。
「えっ? でも……果たし合いって……」
「まー、そーなんだけどな。……カタギの素人なんだけどな、俺は」
「坊ちゃんがカタギっていうのは、まず無理があるんじゃないですかね?
ははは、とヤスは笑う。確かに、その通りだった。
兄、光胤と大雅を比べてみると、優しそうで柔和な印象の光胤の方は、パッと見ただけでは、荒事にはほど遠い。目つきが悪い三白眼、長身の大雅と比べるまでもない。
「それについては、俺も思うけど……兄貴は、アレで、俺よりは強いしな。どっちかっていうと、笑顔が怖いタイプだよ、兄貴は」
「まー、そうですよね」
ヤスは納得したように呟く。
光胤の微笑みは『天使のような悪魔の微笑み』として組内で名高い。怒らせてはいけない人物ということで、大体、全員の理解が一致して居るはずだった。
「ま、俺ァ、気合いをいれる必要があるから、素振りと行水してただけだよ」
「坊ちゃんがそんな気合いを入れるなんて、相当な問題ごとなんでしょうねぇ」
「まあ、なあ……」
今更、『生まれて初めての飲み会』とは言いづらい。が、どういう雰囲気なのか、全く想像が付かない大雅は、少し聞いてみることにした。
「なぁヤス」
「なんスか」
「お前ら、飲みに行ったりすんのか?」
ヤスは、キョトンとした顔をして、それから笑い出した。
「俺ら、結構、飲み屋から断られることもありますからね。大体、ここで缶ビールっスよ」
ああ、たしかに、と大雅は納得した。
大雅自身は、居酒屋のバイトをしているが、『お家の人』のことを聞かれて正直に答えたときに、すぐクビになったこともある。
個室でなければOKという居酒屋もあったが、それでも、周りの人たちが嫌がるので、『予約で席が埋まっています』と言って断る場合が多かったはずだった。
「そっか……苦労してんな」
「坊ちゃんだって、一応カタギなのに、苦労はしてるんじゃないっスか」
それは、確かにそうなのだ……。
(おかげで俺ァ、小説投稿サイトにもユーザー登録できねェし……)
読み専としては、心が震える作品に出会ったら、イイネを押したいし、レビューを入れまくりたいのだが、登録の際、利用規約を熟読したら『反社と准反社は登録不可』と明記されていた。
つまり、自分の生まれのおかけで、大雅は、オタクライフでさえ、満足に送ることは出来ないのだ。
「まあ、それは……」
嫌なことも沢山あったとは思うが、産まれを呪う気にはならなっていない。それに、世間一般には『反社』といわれる家族や、組のものたちのことも、嫌いではない。
「……いろいろ、あるかも知れねぇが、まあ、サラリーマンの息子だって、それなりに苦労はあンだろ」
別に、そんなことは知らないが、大雅は吐き捨てるように、そう言って、庭を後にした。