あの後、ほとんど眠れなかった。
『本来存在しない、序盤でヒロイン
ゼロのあの言葉に、"死亡"という二文字が頭の中を占めてしまい、不安と絶望で眠れるわけがなかったのだ。
「大丈夫? 可愛い顔にクマができてるよ?」
腰の辺りまである長い白髪をハープアップに結い、仕上げにあの赤い紐で髪の毛を飾りながら、鏡越しに
このひとの距離感ちょっとおかしいんだよね。俺、こんな格好してるけど一応男なんですけど。
両肩に手を置き、後ろから俺の顔のすぐ右横に自分の顔を近づけて、
「あの、近くないですか?」
「え? 別に普通じゃない? 女の子同士なんだし、全然気にならないけどなぁ」
「女の子同士じゃないですよね? 俺が男なの知ってますよね?」
「あら、今は女の子でしょ? どこで誰が聞いているかわからないんだから、あんまり油断しちゃダメよ、ハクちゃん」
確かにそれは一理あるけど、でもやっぱりこれは近すぎでは?
こうやって誰かに着飾られていると、一年の時の文化祭の記憶がふと頭を過った。中華風カフェという中国茶とか台湾茶をメインにした喫茶店。
みんなが頑張ってる姿を見て、俺も前に進みたいって思った。いつまでも素顔を隠してイジイジしていては駄目だって。
そこで"もうひとりの幼馴染"とその友人の力を借り、色々あって漢服姿で女装という黒歴史が生まれる。
勇気を出したつもりだったけど、空回りだったみたい。あの後、
そうこうしているうちに今度は俺の前に回り込んで、化粧道具が一式収められた道具箱を漁りながら、これでもないあれでもないと道具を取り出しては戻しを繰り返し、自問自答した後になにか閃いたようだ。
「
言いながら、俺の目尻から涙袋にちょっとかかるくらいの位置に、細い筆で赤い線を入れている。それはまるで、お稲荷さんの狐面のような印象だった。お面に入っている赤い線に似ていて、白髪と赤い眼のせいでより映えて見える。
「派手じゃないですか? というか、化粧する必要あります?」
「全然派手じゃないよ! むしろ可愛い! なにより似合う! それに、年頃の女の子なんだから化粧は必須よ。いつ
「いや、あのひと一国の皇子ですよね? 公務とかないんですか?」
ゼロの話が本当なら、今日もなにかしらのイベントが起こる。しかもそれが俺の運命を左右する、序盤退場もあり得るイベントであり、その鍵は
昨日の今日で気まずい。
非常に気まずい。
「どうかな? あんな事件が起きたばかりだから、そういうのは当分ないんじゃないかな? 逃げた犯人も結局捕まらなかったみたいだし」
その共犯者は、まさにここにいるんだけど。
(俺ってどういう立ち位置なの? 暗殺者として、皇子を殺すために近付いたってことなのかな。あの選択肢はそういう感じじゃなかったけど)
やっぱりゼロの言う通り、この子の記憶を完全に取り戻さない限り、俺は
俺の目的はあくまでも皇子を殺すことで、そこはブレちゃいけないってこと? でも相手は俺のこと攻略対象として強制的に好きになるんだよね?
(守るために庇ったはずなのに、油断させて暗殺するとか····すごく矛盾してる気がする)
とにかく、イベントを進めて記憶をなんとか取り戻すのが最優先ってことかな。
そんな中、扉を軽く叩く音と共に、「すみません、少しよろしいですか?」という低い声が部屋に響いた。おそらくその声の主は
「あ、私が行くわ。あの声、
右肩は化膿を抑える薬草を定期的に塗ってくれて、最初の頃よりはだいぶマシになった。熱も微熱程度なので動けるのだが、激しく動かすにはまだ勇気が要る。
あの身体中をめった刺しにされるような初期の痛みや苦しさはないが、時々手足が痺れたり、上手く話せない時があった。これもあのすごく苦くてマズい煎じ薬を飲むことで、なんとか改善されていた。
(こういうところは、現実的というか。煎じ薬を飲んで全回復! にはならないの、よっぽどヒロインをイジメたいんだなぁ)
もしくは常に体調悪いヒロインにして、
「お茶会、ですか?
「はい。体調が問題なければ、ぜひ参加していただきたいとのことです。もちろん、断って頂いても大丈夫です。
って言っても、選択肢が出ないってことは、強制参加決定では?
「ハクちゃん、どうする?」
「····行きます。わざわざ私を参加させるということは、なにか考えがあるんだと思いますし、そもそも
「離れたいのですか、ここから」
あ、マズい····いや、別にマズくはないよね? だって、
むしろ、喜んで協力してくれるのではないだろうか。いや、駄目だ。もう少しだけここに留まると決めたばかりだった。俺ってもしかしてすごく優柔不断なのかも。
「それは困ります。
「······監視、ですか。そう、ですよね。私は怪しすぎますもんね」
きっと有能な護衛である
俺の身元はすでに偽造だとバレていて、それでも牢に入れないのは、
事実、俺は暗殺者。
立ち上がり、ふたりの方へ向かってゆっくりと歩いて行く。扉の前に立つ
「····
もし、万が一にでも
「では、
「わかりました。ハクちゃん、気を付けてね?」
小さく手を振って、
(やばい!)
腕が上手く動かないこの状況で、受け身がとれる気がしない! このままだと完全に顔面スライディングになる! と思わず目を閉じたその時、ふわりと身体が浮く感覚を覚えた。
「大丈夫ですか?」
耳元で囁かれたその声に、俺は恐る恐る瞼を開く。そこには俺を抱き止めるように支えてくれている
「だ、だ、だ、だいじょぶ、です!」
びっくりした!
これじゃ、俺が
(
こちらの視線に気付いたのか、
「良かったら、手を」
「え? あ、えっと、」
答える前に、
繋がれた手を見つめ、俺は耳まで真っ赤になる。
そんなことをぐるぐると考えていたら、ふと、目の前が霞がかったかのように真っ白になる。脳裏にぼんやりと浮かんだ、なにか。
子供の姿。
三人?
これは······小さい頃の記憶?
(あれ、今、なにか····)
一瞬、どこかの場面を切り取ったかのような映像が、頭の中を過った気がした。それがなにかを確かめる間もなく、霧が晴れるようにすぅっと消えてしまう。
これは、
思考が混乱する中、